第三話 機嫌
六日目の朝、ヨシコさんが約束通り、別の生地を出した。
三日目から、私は午前中だけ来るようになっていた。特に決めたわけじゃない。母と朝食を食べて、食器を洗って、気づいたら工場に向かっている。そういう習慣が、気づいたら出来ていた。
自分でも気持ち悪いと思った。
東京にいた頃、私は習慣を嫌っていた。同じ時間に同じ場所へ行く生活が、人間を鈍らせると思っていた。でも今は、工場へ向かう軽トラの助手席で、ミシンの音を予測している自分がいる。
あの低い、規則的な音が、少し待ち遠しい。それが何を意味するのか、まだ考えないようにしていた。
ヨシコさんは毎日、違う生地を触らせた。
綿、ポリエステル(合成繊維)、絹混紡、超極細繊維。同じ白でも、触った瞬間の温度が違う。重さが違う。指に吸いつく感触が違う。
私はその違いを、最初は言語化しようとした。
熱伝導率が高い、摩擦係数が低い、吸湿性がある――そういう言葉で分類しようとした。
ヨシコさんはそれを聞いて、少し黙った。
「それは正しか」
「でも?」
「でも、それじゃ縫えん」
私は意味がわからなかった。
「数字は後からついてくるもんよ。先に身体が知っとかないかんのに、頭で追いかけとる」
ヨシコさんは自分の指先を見た。
「この指がね、もう四十年分の生地を覚えとる。考えんでも、触った瞬間にわかる。あんたはまだ、考えてから感じようとしとる」
「……順番が逆、ということですか」
「そう」
別の職人が話しかけてきたのは、その日の午後だった。
宮本サチコ、六十三歳。小柄で丸顔で、笑うと目が消える。この工場でヨシコさんに次いで長いベテランだ。
「静ちゃんって呼んでいい?」
東京では誰もそう呼ばなかった。下の名前で呼ばれること自体、久しぶりだった。
「どうぞ」
「静ちゃん、これ見てみて」
サチコさんが広げたのは、縫いかけのブラジャーだった。試作品らしく、生地に細かい書き込みがある。
「どこか変だと思わん?」
私は生地を見た。縫い目は均一に見える。形も整っている。
「……わかりません」
「ここ」
サチコさんが左のカップの縁を指でなぞった。
「〇・三ミリ、外に逃げとる」
私には見えなかった。定規で測っても、おそらくわからないレベルだ。
「それは、問題になりますか」
「なるよ」
サチコさんはあっさり言った。
「〇・三ミリずれたら、着けた瞬間に違う。金属芯骨が肋骨に当たる位置がずれる。一日着けてたら、夕方には痛くなる」
「〇・三ミリで」
「そう」
私はその数字を頭の中で転がした。
〇・三ミリ。皮膚の触覚受容器の密度、感覚の閾値。指先は約二ミリ、体幹部は約四十ミリ。つまり、〇・三ミリの差は、理論上は知覚できないはずだ。
「でも、どうして〇・三ミリとわかるんですか。見ただけで」
サチコさんは少し考えた。
「機嫌が悪かけん」
「……機嫌」
「この生地の機嫌が悪か。ここだけ、なんか不満そうにしとる」
私は生地を見た。
不満そう、という言葉の意味が、まったくわからなかった。
その夜、実家で祖母のノートを読んだ。
一九九八年のもの。祖母が四十代の頃の記録だ。
六月十五日
新素材サンプル。触った瞬間、生地が緊張していた。乾燥が強すぎる。湿度を足せば落ち着くかもしれない。人間でいえば、怒っている状態。
生地が緊張していた。生地が怒っている。
私はその一文を三回読んだ。
祖母も同じ言葉を使っていた。機嫌。感情。生地を、生きているものとして扱う言語。
これは比喩なのか。それとも、長年の経験が作り上げた、別種の理解の仕組みなのか。
人間の感情を数値に変換してきた私には、その境界線が判断できなかった。
翌日。
ヨシコさんが私に生地を渡して言った。
「今日は目を閉じて触ってみて」
言われた通りにした。
生地が、手のひらに乗っている。
目を閉じると、指先に意識が集まる気がした。柔らかい。少し冷たい。表面に微細な凹凸がある。呼吸するように、わずかに空気を含んでいる。
「何か感じる?」
「……冷たいです。あと、薄い。でも密度がある」
「他には」
私は集中した。
右手の親指の腹で、ゆっくりなぞる。
何かが、引っかかった。引っかかる、というより――少し、重たい部分がある。生地の中に、緊張している箇所がある。
「……ここ、なんか違います」
「どう違う」
「固い、というより……詰まってる感じ」
しばらく沈黙があった。
目を開けると、ヨシコさんが私を見ていた。
「それが、機嫌が悪か、ということ」
私は手の中の生地を見た。
数値じゃない。でも確かに、何かが違った。
指先が、何かを読んだ。
帰り際、工場の外で少し立ち止まった。
夕方の久留米は、静かだった。遠くで鳥が鳴いている。風が、微かに湿っている。
私は自分の右手を開いた。
この手が、今日、何かを感じた。
頭より先に。言語より先に。数値より先に。
それが何なのか、まだわからない。でも、知りたいと思った。
東京を出てから、初めて、何かを知りたいと思った。
了
次回 第四話 測れないもの




