表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
SKIN/第二の皮膚  作者: 八雲 海


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/35

第三話 機嫌

六日目の朝、ヨシコさんが約束通り、別の生地を出した。

 三日目から、私は午前中だけ来るようになっていた。特に決めたわけじゃない。母と朝食を食べて、食器を洗って、気づいたら工場に向かっている。そういう習慣が、気づいたら出来ていた。

 自分でも気持ち悪いと思った。

 東京にいた頃、私は習慣を嫌っていた。同じ時間に同じ場所へ行く生活が、人間を鈍らせると思っていた。でも今は、工場へ向かう軽トラの助手席で、ミシンの音を予測している自分がいる。

 あの低い、規則的な音が、少し待ち遠しい。それが何を意味するのか、まだ考えないようにしていた。

 

 ヨシコさんは毎日、違う生地を触らせた。

 綿、ポリエステル(合成繊維)、絹混紡こんぼう、超極細繊維。同じ白でも、触った瞬間の温度が違う。重さが違う。指に吸いつく感触が違う。

 私はその違いを、最初は言語化しようとした。

 熱伝導率ねつでんどうりつが高い、摩擦まさつ係数が低い、吸湿性きゅうしつせいがある――そういう言葉で分類しようとした。

 ヨシコさんはそれを聞いて、少し黙った。

「それは正しか」

「でも?」

「でも、それじゃ縫えん」

 私は意味がわからなかった。

「数字は後からついてくるもんよ。先に身体が知っとかないかんのに、頭で追いかけとる」

 ヨシコさんは自分の指先を見た。

「この指がね、もう四十年分の生地を覚えとる。考えんでも、触った瞬間にわかる。あんたはまだ、考えてから感じようとしとる」

「……順番が逆、ということですか」

「そう」

 

 別の職人が話しかけてきたのは、その日の午後だった。

 宮本サチコ、六十三歳。小柄で丸顔で、笑うと目が消える。この工場でヨシコさんに次いで長いベテランだ。

「静ちゃんって呼んでいい?」

 東京では誰もそう呼ばなかった。下の名前で呼ばれること自体、久しぶりだった。

「どうぞ」

「静ちゃん、これ見てみて」

 サチコさんが広げたのは、縫いかけのブラジャーだった。試作品らしく、生地に細かい書き込みがある。

「どこか変だと思わん?」

 私は生地を見た。縫い目は均一に見える。形も整っている。

「……わかりません」

「ここ」

 サチコさんが左のカップのふちを指でなぞった。

「〇・三ミリ、外に逃げとる」

 私には見えなかった。定規で測っても、おそらくわからないレベルだ。

「それは、問題になりますか」

「なるよ」

 サチコさんはあっさり言った。

「〇・三ミリずれたら、着けた瞬間に違う。金属芯骨しんぼね肋骨ろっこつに当たる位置がずれる。一日着けてたら、夕方には痛くなる」

「〇・三ミリで」

「そう」

 私はその数字を頭の中で転がした。

 〇・三ミリ。皮膚の触覚受容器しょっかくじゅようきの密度、感覚の閾値いきち。指先は約二ミリ、体幹部は約四十ミリ。つまり、〇・三ミリの差は、理論上は知覚できないはずだ。

「でも、どうして〇・三ミリとわかるんですか。見ただけで」

 サチコさんは少し考えた。

「機嫌が悪かけん」

「……機嫌」

「この生地の機嫌が悪か。ここだけ、なんか不満そうにしとる」

 私は生地を見た。

 不満そう、という言葉の意味が、まったくわからなかった。

 

 その夜、実家で祖母のノートを読んだ。

 一九九八年のもの。祖母が四十代の頃の記録だ。

 六月十五日

 新素材サンプル。触った瞬間、生地が緊張していた。乾燥が強すぎる。湿度を足せば落ち着くかもしれない。人間でいえば、怒っている状態。

 生地が緊張していた。生地が怒っている。

 私はその一文を三回読んだ。

 祖母も同じ言葉を使っていた。機嫌。感情。生地を、生きているものとして扱う言語。

 これは比喩なのか。それとも、長年の経験が作り上げた、別種の理解の仕組みなのか。

 人間の感情を数値に変換してきた私には、その境界線が判断できなかった。

 

 翌日。

 ヨシコさんが私に生地を渡して言った。

「今日は目を閉じて触ってみて」

 言われた通りにした。

 生地が、手のひらに乗っている。

 目を閉じると、指先に意識が集まる気がした。柔らかい。少し冷たい。表面に微細な凹凸おうとつがある。呼吸するように、わずかに空気を含んでいる。

「何か感じる?」

「……冷たいです。あと、薄い。でも密度がある」

「他には」

 私は集中した。

 右手の親指の腹で、ゆっくりなぞる。

 何かが、引っかかった。引っかかる、というより――少し、重たい部分がある。生地の中に、緊張している箇所がある。

「……ここ、なんか違います」

「どう違う」

「固い、というより……詰まってる感じ」

 しばらく沈黙があった。

 目を開けると、ヨシコさんが私を見ていた。

「それが、機嫌が悪か、ということ」

 私は手の中の生地を見た。

 数値じゃない。でも確かに、何かが違った。

 指先が、何かを読んだ。

 

 帰り際、工場の外で少し立ち止まった。

 夕方の久留米くるめは、静かだった。遠くで鳥が鳴いている。風が、微かに湿っている。

 私は自分の右手を開いた。

 この手が、今日、何かを感じた。

 頭より先に。言語より先に。数値より先に。

 それが何なのか、まだわからない。でも、知りたいと思った。

 東京を出てから、初めて、何かを知りたいと思った。


次回 第四話 測れないもの


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ