第二十九話 春
冬が終わって、久留米に春が来た。
桜が咲いて、散った。菜の花が道沿いに出た。工場の窓から、遠くの山が緑になっていくのが見えた。
私は、まだここにいた。
社長に呼ばれたのは、三月の終わりだった。
「正式に来てもらえんか」と言われた。
契約書を出してきた。薄い紙。給料の額は、東京の半分以下だった。
私は少し見て、社長に返した。
「もう少し上げてください」
「どのくらい?」
「一割だけ。東京の暮らしより十分少ないですが、久留米では足ります」
社長は少し笑った。
「交渉するようになったね」
「桐島さんに教わりました」
「わかった。一割上げる」
ヨシコさんに報告した。
「正式にここで働くことになりました」
ヨシコさんは手を止めなかった。
「知っとった」
「いつから?」
「あんたが最初に来た日から」
私は少し間を置いた。
「そんなにわかりやすかったですか」
「わかりやすかとよ。工場に来て、すぐパソコンを直した。帰る人間は、余計なことをせん」
確かにそうだった。私は断る気がなかったから、手を出した。
契約書に判を押した日、私は祖母のノートに短く書いた。
自分のノートに。祖母から受け継いだ大学ノートではなく、自分で買った新しいノートに。
今日から正式に末永繊維で働く。指先が少し起きてきた気がするので。
それだけ書いた。
窓の外に、工場の駐車場が見えた。
軽トラが一台。桜の花びらが、屋根に積もっている。
私はここで、何かを続ける。
それだけが、今日の事実だった。
了
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