第十話 言葉にならないもの
JAXA(宇宙開発の国家機関)への最初の経過報告書を書くことになった。
城島さんから「二ヶ月後の報告会に向けて、進捗資料を」と連絡が来た。社長は「あんたが書いてくれ」と言って、また奥へ消えた。
私は三日かけて、資料の構成を考えた。
難しかったのは、ヨシコさんやトミエさんのやっていることを、文書にすることだった。
型紙の引き方。素材の選定基準。縫い目の設計。これらは全部、職人の身体と記憶の中にあって、数値や言語に変換されないまま完結していた。
それを報告書にしなければならない。
三日目の朝、ヨシコさんに相談した。
「報告書を書いています。でも、ヨシコさんの判断の基準が言語化できなくて詰まっています」
ヨシコさんは手を止めなかった。
「何が困っとる」
「たとえば、素材の選定で六番を選んだ理由。私は『手が忘れる感じ』と言いましたが、それでは報告書に書けません」
「書けばよかとに、そのまま」
「JAXA(宇宙開発の国家機関)は数値を求めていると思います」
ヨシコさんはミシンを止めた。
「あんたね」
「はい」
「数値で説明できんことは、存在せんとね?」
私は黙った。
「数値は、わかりやすくするための道具よ。道具がないと伝わらんなら、道具を使えばいい。でも、道具がないと伝わらん、てことと、道具がなければ存在せん、てことは違う」
私は、何かが変わる感覚があった。
報告書を、二部構成にすることにした。
一部は数値。採寸データ(計測情報)。素材の物性値。縫い目の張力計算。これはJAXA(宇宙開発の国家機関)の技術者が必要とするもの。
二部は言葉。ヨシコさんが若田さんの体を読んだこと。トミエさんが糸を選んだ判断。私が六番の生地を触って感じたこと。これは数値に落とせないが、なぜこの設計になったかを説明する。
書き上げたとき、社長に見せた。
社長はゆっくり読んだ。
「ヨシコさんやトミエさんに見せた?」
「まだです」
「見せてみて」
ヨシコさんは報告書を受け取って、立ったまま読んだ。
五分くらいかかった。
読み終わって、私に返した。
「一つだけ違う」
「どこですか」
「若田さんの体について書いとる部分。『肩が前に入っている』て書いとるけど、正確には、『肩が前に入ろうとしている』よ。まだそうなっとらん。でも、そうなりかけとる。その違いが、型紙の設計に影響する」
私は書き直した。
「入っている」から「入ろうとしている」へ。
たった三文字の差だったが、その三文字に、ヨシコさんの観察が全部入っていた。
報告書を城島さんにメールで送ったとき、夜の十一時だった。
工場はもう閉まっている。
私は実家の自分の部屋――祖母のノートが並んでいる部屋――で、パソコンを閉じた。
窓の外に、星が見えた。
若田さんは、今夜も地球にいる。でも、いつか宇宙に行く。その人の皮膚に、ここで選んだ糸が触れる。
数値にならないものが、一番大事なことかもしれない。
それが、今日気づいたことだった。
翌週、城島さんから返信が来た。
一文だけだった。
若田から「胸に刺さりました」と伝言です。
私はその一文を、しばらく見ていた。
何かを伝えることが、できた気がした。
了
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