第91話
エリオの物言いを諫めることのない声の主が、玄関からずかずかと歩いてくる足音がする。ウィッテンは口の中に残っていたパンを慌てて水で流し込んだ。
急いで立ち上がったウィッテンを、部屋に入ってきた老紳士が手で制する。
「ああいいよ、フェルベルト神父。そのまま楽にしていたまえ。今日のきみは非番だろう?」
「そう言われましても……」
私服での登場とはいえ、部屋に入ってきた老紳士はセーフェル教のトップ、教皇ルーエル・ロウアーその人だ。楽にしろと言われてもできるわけがない。
ふさふさとしたロマンスグレーの髪に、品のいい笑みを浮かべた顔。すらりと伸びた背筋。体型にフィットした白いシャツと磨かれた靴が、シンプルながらルーエルという人物が持つ気品を匂わせてくる。落ち着いた淡い水色の双眸は、慈愛そのものを宿しているかのように優しい光をたたえていた。
「もう、勝手に人の家に上がり込まないでくださいよ」
「エリオ」
相手が教皇と分かっているのにその態度かと、ウィッテンが慌てる。しかしルーエルは、手をふるふると振って「かまわない」と示した。
「ああいい、気にするな。気を使われるとこちらも落ち着かん」
そう言い、ルーエルが勝手に壁際のソファに腰を下ろす。
エクソシストは教皇の直轄なので、ルーエルにウィッテンたちが会うのは初めてではない。それにルーエルも何度かこの家に来ていた。
ルーエルは自分が教皇という立場にあるのが分かっているのか怪しいほど、こうして供もつけずにふらふら街を出歩くのだ。
ウィッテンからすればルーエルのような重要人物のそんな振る舞いはいまだに戸惑ってしまうのだが、それだけこの国が平和だという証でもある。
「フェルベルト神父、今日はきみを夜会に誘いに来たよ」
片手に持ったクリーム色の封筒をひらひらと動かしながら、ルーエルが茶にでも誘うように気軽に言う。
「夜会、ですか」
ウィッテンが苦手とする場所への誘いに、思わず声のトーンが下がった。「しまった」と思うがもう遅い。
そんなウィッテンに視線を向けながら、ルーエルが言葉を続ける。
「そうだ、夜会だ。今夜、国王陛下の主催だよ。ぜひきみも一緒にという誘いがきたんだ」
どうせウィッテンを一目見たいだのなんだのという、貴婦人たちのつまらぬ要望があったに違いない。ルーエルに同伴したのは、セーフェルに来て間もない頃だけだ。仕方なく参加したあの時期以降は、エクソシストや司祭として忙しくなったおかげで行かずに済んでいた。だが、非番の日に急に誘われては、断るにも言い訳が見つからない。
声のトーンが下がってしまったついでに、ウィッテンがげんなりとした顔をしてしまう。そんなウィッテンの様子を見て、ルーエルが面白いものを見たかのように笑い声を上げた。
「やはり嫌そうだな、フェルベルト神父」
「ええ、いや、まあ……ああいった場所はあまり得意ではないので」
一応生まれが生まれなので、上っ面だけの会話やダンスで困りはしない。しかしどうも自分が見世物になっているようなあの空気感は、昔から苦手だった。
「得意ではないっていうか、めちゃくちゃ苦手だよね。いっそ踊れないとか言っちゃえばいいじゃん。そしたら皆幻滅してくれるかもよ?」
「それは名案だな。私も毎回フェルベルト神父に声をかけなくて済む」
エリオの案に、ルーエルが愉快そうに乗る。
「いや、それはそれで問題なので」
ウィッテンはとてもではないが、そんな冗談には乗れなかった。それに冗談を真に受けて行動したとして、被害が出るのはウィッテンの実家なのだ。フェルベルト家の息子がダンスのひとつもできないなどという噂が立つなんて、たとえ冗談でもあってはならない。
「で、だ」
ひとしきりウィッテンをからかって気が済んだのか、ルーエルが若干真面目そうな顔をする。
「フェルベルト神父には、もうひとつ行って欲しい場所があるんだ」
「どこですか?」
「エルディア村。北方にある小さな村だ。飛竜のみでは到底足りぬ距離でな、途中からは馬での移動になる」
「夜会と村の両方に行けと仰るのですか?」
「まさか。残念ながら、エルディア村は日帰りできるような距離ではない。そしてあいにく、フェルベルト神父の体はひとつしかないのでね。夜会と村、どちらかを選ばせてあげよう」
「では、村へ」
詳しい話も聞かず即答するウィッテンの様子に、ルーエルが再び明るい笑い声を上げる。エリオはというと、せっかくの休日が潰れてしまうせいか、あからさまにがっかりした顔をしていた。そんなエリオを気にしていないかのように、ルーエルが言葉を続ける。
「そう言うと思って、夜会の件は断っておいたよ。こちらは私がひとりで行ってこよう。老いぼれひとりでは皆不満かもしれないが、フェルベルト神父は仕事なのだから仕方ない」
「助かります」
「さて、ではさっそく準備をして出かけてもらおうか」
ルーエルがソファから立ち上がり、思い出したように言う。
「ああ、もちろん朝食はゆっくり食べてくれたまえよ。何事においても健康が一番だ」
にこやかに言うと、ルーエルは部屋を出ていった。そのまま勝手に玄関を開けて去っていく音がする。今日も教皇は自由奔放だった。




