第90話 ウィッテン
「あらフェルベルト神父、おはよう。今日はお休み?」
「大家さん、おはようございます。今日はエリオと一緒に久々の非番です」
空気を入れ替えようと家の二階の窓を開けたウィッテンは、隣に住む大家の女性とそんな会話をした。大家の女性は小柄な老婆だ。彼女が漂わせている柔らかい雰囲気は、人の心を和やかにしてくれる。それはウィッテンも例外ではない。
「ねえウィッテン、そこの窓開けたら朝ご飯にしようよ……あっ、大家さん。おはようございます」
部屋に入ってきたエリオが、大家に気づいてにこやかに挨拶する。さすがのエリオも、異国から来た自分たちにこころよく家を貸してくれた大家に対して攻撃的にはならない。むしろ友好的に接していた。妙な動きを見せる者が相手でなければ、エリオは本来の人懐っこさを見せるのだ。日頃エリオには苦労をかけているなと、ウィッテンは心の中でエリオに謝った。
「あら、アルバレス助祭。おはよう。二人とも元気そうで安心したわ。あなたたちを見ていると、なんだか孫が増えた気分で楽しくなってくるのよ」
そう笑うと、大家の老婆はゆったりとした足取りで家の奥へと引っ込んでいった。
彼女の姿が完全に見えなくなってから、ウィッテンとエリオが顔を見合わせる。
「僕たち、孫みたいだって」
「ありがたいことだ」
おそらく大家の老婆は、実際に彼女の孫たちからも好かれているに違いない。いつ会っても穏やかな雰囲気を崩さない、心が落ち着く人物だった。
そういえばもう何年も自分の祖父母に会っていないなと、ウィッテンは思い出した。アルカナ神聖国に来てから、一度も実家には帰っていない。特になにか報せがあるわけではないから家族は皆元気だと思っているが、我ながら少し薄情かと考えるときはあった。
末っ子だからというわけではないが、祖父母はウィッテンを可愛がってくれた。まだ実家に住んでいた頃は必ず新年の挨拶をしに行っていたので、何年も会っていないという現状が申し訳ない。
そんな思考を遮ったのは、空腹を訴えるエリオの声だった。
「ウィッテン、朝ご飯にしようよ。僕もうお腹ぺっこぺこだよ」
「朝から元気だな」
「まあね。夜番が続いたきみより健康的な生活を送っていたおかげだよ」
ふふん、とエリオが勝ち誇ったような顔をする。
実際、体調不良の司祭に代わって急遽二日連続の夜番に入っていたウィッテンより、いつも通りの生活リズムで過ごしていたエリオの方が元気なのは当然だった。
「昨日市場に行ったらさ、なにが手に入ったと思う?」
「なんだ?」
エリオに続き、ウィッテンが階下に降りる。
「これだよこれ、じゃーん!」
振り返ったエリオが見せてきたのは、紅茶の茶葉が入っていると思しき丸い缶だった。表面に貼られたラベルの文字に、ウィッテンがはっとする。アルカナ神聖国の地名ではない。ウィッテンがよく知る帝国領のものだ。
久しぶりに見るその地名に、ウィッテンの心が躍った。
そんな気配が伝わったのか、エリオが嬉しそうに話す。
「きみの大好きなファラディ地方の紅茶が手に入ったんだよ! 懐かしくない? ご飯食べ終わったら淹れてあげるからね」
ファラディ地方はこの首都セーフェルからずっとずっと南、ウィッテンが生まれた帝国領に入ったあたりの地域だ。紅茶の産地だがかなりの遠方なので、セーフェルまでその茶葉が流れてくるのは稀だ。欲しければわざわざ取り寄せなければならないし、そのぶん値が張る。
「随分珍しい茶葉を手に入れたな」
嬉しさから、思わずウィッテンの声が弾む。
「僕の普段のおこないがいいからかな」
「俺の日頃のおこないのよさもあるんじゃないか」
「じゃあ二人分のよさへのご褒美だね。夜番代わってあげてよかったねえ、ウィッテン」
エリオの言うとおり、ファラディ地方の茶葉はまるでウィッテンへの褒美のようだった。あの花のような艶やかな香りと、ほんのり漂うスモーキーさは癖になる。子供の頃から好きな茶葉だった。
セーフェルに来て唯一残念に思っていたのが紅茶事情だったので、市場でファラディ産の茶葉を見つけてきてくれたエリオに深く感謝する。エクソシストをしている以上、紅茶が懐かしくなったからと休暇を取って帰省するわけにもいかない。そんな環境なので、もう一生飲めないものと諦めていたものだった。
「まあこっちの市場に流れてくるくらいだから等級はお察しだけどさ、久々に飲んだら美味しいと思うよ」
「手に入っただけでもありがたい。二度と飲めないと思っていたからな」
「司祭をやめて実家に帰ったら、すぐ飲めると思うんだけど。それもとびきりいいやつを」
「茶を飲む為に無職になれるわけないだろう」
「えー、いいと思うけどなあ。それに帝国に戻ったら戻ったで、騎士団とか領主様とか、きみに似合うと思うよ?」
「そのつもりはない」
そんな会話をしながら、エリオとのんびり朝食を愉しむ。
玄関からノックが響いたのは、そんなときだった。
「ええ? こんな朝早くに誰だよもう……」
ぶつくさ言いつつ、エリオが席を立つ。ややあって玄関から聞こえてきたのは、
「うわっ猊下」
大変失礼な物言いのエリオの声と、
「そう嫌な顔をするな」
よく通る落ち着いた男の声だった。




