第89話 フレデリック
ティナと共にカチュアに夕食を食べさせ、薬で寝かしつけた後。
フレデリックは別荘の一階にある居間でぼんやり窓の外を眺めていた。
暗い窓の向こうには、手入れをする者がいなくなった庭が広がっている。暗がりの中でその風景はよく見えない庭の為に、村で庭師の募集をかけていた。しかし前任だったジェームスの死にざまがあれでは、とてもではないが新たな者が来てくれるとは考えられない。素人判断でフレデリックが手入れをしているが、ジェームスが整えてくれた美しい庭の姿が少しずつ失われ始めるのも、時間の問題である。
「奥様、あんなにやつれておかわいそうに」
フレデリックに出した軽食の皿を片づけながら、ティナが呟く。事件について知らないはずがないのに、ティナの声色は心の底からカチュアを心配しているように聞こえた。
カチュアでなくソフィアが今の状況に陥っているのだとしたら、フレデリックもティナのように心配できたはずだ。
「こればかりは仕方ない。かかれる医者にはすべてかかって、その上で村に残ると決めたんだ。あとは時が解決してくれるのを待つしかないよ」
フレデリックは、自分でも疲れた声を出したものだと感じた。
実際、疲れていた。
人を憎むというのは、ひどく疲れる。だがそれでも、カチュアを憎まずにはいられない。
村に帰省してからの様々な事件は、この土地にカチュアの記憶へ暗い影を落とす事柄があるということだろう。彼女がジェームスを殺したのも、老司祭を襲ったのも、ソフィアとすり替わっているのがばれそうになったからかもしれないという考えが、フレデリックにはあった。もしも生き残ったのがソフィアなら、ジェームスたちを襲う理由はなにもないのだ。
こうなったら、なにがなんでもカチュアの口から真実を語らせないことには気が済まない。
「フレデリック様、お茶のおかわりはいかがですか?」
ティナの言葉に、フレデリックはティーカップが空だったと思い出した。
「え? ああ、大丈夫。自分で淹れるよ。きみも少し休むといい」
フレデリックの言葉に、ティナが手を腰にあててまるで怒ったように頬を膨らませる。
「まあ! それは私の仕事ですよ。人の仕事を取らないでくださいな」
それで、と笑顔に戻ったティナが続ける。
「紅茶とハーブティー、どちらがよろしいですか?」
「そうだな……たまにはハーブティーにしようか」
フレデリックの答えを聞くと、ティナは空になった食器類をまとめて厨房へと去っていった。
フレデリックがソファに腰かけてぼんやりしていると、ティナが戻ってくる。そばのローテーブルに、優しい香りのカモミールティーが置かれた。
「フレデリック様、随分お疲れの顔をしていますよ。奥様もですけど、フレデリック様もちゃんと休んでくださいな」
少し蜂蜜を垂らしているのだろう。湯気にはカモミールの他に、ほんのりと甘い香りが混ざっている。
「これ、奥様にもお出ししていたものです」
カチュアが事件を起こしてから茶の差し入れを止められていたティナが、懐かしむように呟く。
「きっとフレデリック様の体を温めて、元気にしてくれると思います。たまにはぐっすり眠って、心身をしっかり休めてくださいな」
「ティナ、きみは毎日僕たちに気を使っていて疲れないかい?」
フレデリックの問いに、ティナは元気な顔を見せた。フレデリックより少し若い彼女の顔には、年相応の快活さがある。
「疲れるだなんて思ったことないですよ。それよりも、お二人が一日も早く元気になってくれるのを願っています」
「僕も?」
「ええ。だってフレデリック様が元気じゃなかったら、奥様はいったい誰を頼ったらいいんですか? 夫婦ってお互い支え合っていくものだと、私の母が言っていました。だからフレデリック様が元気じゃないと、奥様も元気になれませんよ」
本宅でもフレデリックの一家は、使用人に気さくな物言いを基本的に許していた。そのせいもあり、ティナも物おじせず色々とフレデリックに言ってくる。だが今はそんなティナの素直な言葉が、フレデリックの心を大きくえぐった。
本来、夫婦は互いを支え合っていくものだ。フレデリックも十分理解している。妻が本物のソフィアだったら、どんなときも喜んで彼女の力になったし、芯の強い彼女もフレデリックを支えてくれたことだろう。
しかしカチュアには、フレデリックを支えるだけの力などない。実際、カチュアは自分すら支えきれず完全に潰れてしまった。
そしてフレデリックも、カチュアを支える気などまったくない。むしろ、いっそカチュアを壊してしまいたかった。
きっと自分はいつか、カチュアを徹底的に壊してしまう。ソフィアに関する事実を聞き出した後、カチュアを人として扱える自信がないのだ。
カチュアを心から案じているのは、ティナだけだ。ティナはカチュアを『ソフィア』と扱っているが、それでもあの狂人に優しさを向けているのはティナしかいない。
カチュアの実母マーサは突然の夫の死で、とてもではないが嫁に出した娘どころではなさそうだ。
そしてフレデリック自身は、単に己の願望が叶う日までカチュアが死ななければいいとだけ思っている。
この冷えた世界で、ティナは唯一の温もりのように感じられた。
そんなティナが淹れてくれた温かなカモミールティーに、フレデリックがそっと口をつける。まるで彼女の優しさが具現化したような茶は、体の隅々までじんわりと沁み込んでいくようだった。ゆっくり飲んでいると、最近感じていなかった眠気がゆるゆると湧き上がってくる。
朝から晩まで、そして夢の中でまでカチュアを憎み続けた暮らしの中では、こんなに心が安らぎはしなかった。
とっくに感覚を忘れていたあくびが、自然と出る。
「少し仮眠をとってくるよ。カ……ソフィアの部屋には絶対入らないように。もし入る用があったら、必ず僕を起こしてくれ」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、フレデリック様。安心して眠ってください。お風呂の用意ができたら、起こしに行きますから」
ティナを居間に残し、フレデリックは館の二階へと上がった。カチュアの部屋とフレデリックの部屋は隣同士だ。どうしても彼女の部屋のドアが視界に入る。すると、つい彼女について考えてしまう。
なにかが割れるような音がして様子を見に行ったあの夜、視えない何者かと会話をしていたカチュア。
実の父親をその手にかけたカチュア。
庭でつい名前を呼んでしまったとき、過剰に反応したカチュア。
眠っていたはずなのに、老司祭に襲いかかったカチュア。
最初はカチュアの気が触れただけだと思っていたが、時が経つにつれフレデリックは老司祭が言っていたように悪霊の可能性を疑うようになっていた。どんな霊が憑いているのかは分からないが、もう自分だけではどうにもできない状況のような気がしてくる。
自室に入り、ベッドへと倒れ込む。ふかふかとした心地いい感触が体を包み込むと、いよいよ眠気が増してきた。
カチュアが死んだら、悪霊として自分を呪うだろうか。
ふとそんな疑問が、フレデリックの頭をよぎる。
フレデリックはそれでもよかった。ソフィアについて知ることさえできたら、カチュアがどうなろうがかまわない。それにフレデリックが呪われたとしても、自業自得である。ソフィアがいない人生になどなんの光もないのだから、いっそ呪われたとしてもなにも変わらない。
それほど、ただソフィアと瓜二つというだけのカチュアへの愛情は存在していなかった。
フレデリックが愛したのは、双子の片割れだけだ。そして彼女はもう死んでしまった。
残った方には、まったく興味が湧かない。
自分が愛したのはソフィアの外見だけではなく、その内面も含めたすべてだったのだ。見た目が似ているというだけでは、なんの意味も成さない。
フレデリックからすれば、カチュアはまるで出涸らしのようなものだった。




