第88話 アイシス
実父を手にかけさせたときのカチュアの悲鳴ときたら、まるで甘美な歌声のようで、アイシスの心を震わせた。フレデリックとカチュアの魂に復讐する日がついに来たと報せる、歓喜の音色だった。
どれほどこの時を待ったことか。
自分の妻が発狂してしまったと信じるフレデリックの顔も、非常に面白かった。あれほど愉快な見世物はない。アイシスは笑いをこらえられなかった。カチュアが失神したと信じ、その肉体をフレデリックがベッドに運んでいたときも、カチュアの肉体に潜んでいたアイシスの魂は腹がよじれるほど笑っていたのだ。
庭でせっかく『カチュア』と呼んでくれたフレデリックに対し、アイシスは体を操って愛をたしかめた。本当はカチュアを愛しているのではと問うて否定されたときの、震えるように泣くカチュアの魂の声が忘れられない。
かつてアイシスを殺したときはあんなに愛し合っていた男の魂から、きっぱりと拒絶されたカチュア。その姿は、アイシスの心をとても癒してくれた。
アイシスが肉体を操り老司祭を襲ってみせたときの、カチュアの魂が「やめて」と懇願する声もたまらなかった。脳内に響き渡るカチュアの声は、どんな音よりも愛らしい響きだった。
『アイシスお願い、もうやめて。体を返して』
『どうして? こんなに愉快なショーはなかなかないわ。もっと一緒に楽しみましょう? あなただって、楽しいことは好きでしょう?』
フレデリックがこまめに飲ませてくる睡眠薬で肉体は眠っているものの、その中でアイシスとカチュアの魂はしっかりと目覚めていた。
元はカチュアの体にアイシスが憑りついていたのだが、今やカチュアの肉体を支配しているのは、精神力でカチュアを上回ったアイシスだ。
本来肉体と結びついているはずのカチュアの魂はというと、完全にアイシスに押し負け、その念糸に絡めとられて自由を奪われていた。
心身ともに衰弱してしまったカチュアが、アイシスに勝てるわけがない。それを知っていて、アイシスは甘言で言いくるめてカチュアの体に入り込んだ。一度入り込んでその肉体の隅々まで念糸を巡らせ、カチュアの魂を念糸で拘束してしまえば、肉体は簡単にアイシスのものになった。
『どうしてこんなことするの? あたしを助けてくれるんじゃなかったの?』
『どうしてですって?』
はしばみ色の大きな瞳を涙で潤ませて訴えるカチュアの姿は、愛おしくて仕方ない。アイシスは笑みを浮かべた。
『あなたが過去にしたことを、私は決して忘れないからよ』
アイシスの前で、カチュアが頭を振る。瞳と同じ色の長い髪が揺れた。
『あたしはアイシスに会ったことなんてないわ。なにかの間違いよ!』
カチュアの頭を、アイシスが優しく撫でる。
『いいえ、カチュア。あなたがカチュアであるかぎり、そしてフレデリックと共にあるかぎり、間違いなんてない。だって魂はセフィロートを巡り、再び生を得るんだもの。あなたたちがこの館を再訪するのは、運命だったの。そして私に会うのもまた、運命だった』
アイシスはこのときほど神に感謝したことはない。聖なる大樹セフィロートを巡り再び現世に生まれてくるという理がなければ、アイシスは二度とフレデリックとカチュアに会えなかっただろう。復讐の機会を与えてくれたことに、心から感謝した。
『過去のあたしたちがなにをしたかは知らないけれど、もう十分でしょう? お願いだから、フレデリックには手を出さないで』
『カチュア、あなたはなにも分かってないわ』
アイシスがため息混じりに、カチュアを絡めとっている念糸を締め上げる。カチュアがたまらず呻き声を漏らすが、そんなものではアイシスの心は潤わない。
『私はあなたたちに復讐がしたいの。殺したいわけじゃないわ。だってあなたたちを殺すだけでは、なんの復讐にもならないもの』
ただ殺すだけでは、目前の苦しみから救うことになってしまう。そんな優しい道を用意してやる気など、アイシスにはなかった。逃げ場のない苦しみの中で、フレデリックとカチュアは二人揃って苦しみもがくがいいのだ。その姿こそが、フレデリックたちによって理不尽に殺され、長い時間二人の再訪を待ち続けていたアイシスの心を満たしてくれる。
『フレデリックじゃなければ、あたしのお母さんを殺す気?』
『それも違うわ。少し考えたら分かるでしょうに。あなたの頭は飾りかしら』
カチュアの実母は生かしておかなければならない。実の娘の手で無残に殺された夫の死に激しく狼狽し、衰弱していく母。そんな母親の姿をカチュアが見たら、さぞや苦しむに違いない。それを想像しただけで、アイシスはぞくぞくとした喜びを感じた。
『ねえカチュア、今度はなにをして遊びましょうか? お母さんに会いに行きたい? それとも、あのティナというメイドをいたぶる?』
カチュアの実家には、村人たちの好奇の目や、呪われた家だという噂が向けられているはずだ。それらに晒されている母親の姿を見せたとき、カチュアはどれだけ取り乱してくれるかと考えるだけで、アイシスは悪戯を考える子供のようにわくわくする。
それにあのティナというメイド。カチュア付きのメイドであるあの少女は、純粋にカチュアを心配しているようだ。そんな者を自らの手で傷つけさせたら、カチュアはどれほどショックを受けるだろう。
しかもカチュアの記憶によれば、彼女は実の姉を殺している。それを誰にも言い出せず、カチュアは今の状況に陥っている。
ひとりも味方のいない現状に、アイシスに体を奪われるほど弱ったカチュアの心が耐えられるはずがない。それにカチュアがなにか行動すればするほど、村人たちのフレデリックへの評価も変わる。
カチュアとフレデリックの心がすれ違っていくのを、大切なものをどんどん失っていく様を、そんなものを想像すればするほど、アイシスの心は温かい幸せで包まれていった。
『いったいフレデリックとあたしがなにをしたっていうの? 過去になにかあったとしても、今のあたしたちには関係ないじゃない』
『あらカチュア。なにかした本人たちは綺麗に忘れていても、された側はいつまでも覚えているものよ。あなたが忘れているというのなら、私の記憶を見せてあげるわ』
そう言うと、アイシスはあの日の記憶をカチュアの魂へと送り込んだ。カチュアの魂はアイシスの支配下にある為、彼女の記憶をアイシスは覗き放題だった。しかしカチュアには、アイシスの記憶を覗き見ることを許可していない。その為、思念体として一塊にして直接カチュアの魂に送り込む必要があった。
アイシスが過去のカチュアとフレデリックによって殺された一連の記憶を見たのか、カチュアの顔がみるみる青ざめていく。
『私を殺して、次は双子の姉を殺し、ついには実の父親まで手にかけた。次は誰を不幸にするのかしら。ねえ、誰からも愛されないカチュア』
『やめて、もうやめて』
『あなたのせいで、フレデリックはさぞ肩身が狭いでしょうね。カチュア、今どんな気分なの? 愛した人に狂人扱いされるその気持ちを、私にも詳しく教えて?』
『もうあたしを許して……あたしたちをそっとしておいて』
『だめよ』
長年待ち続けてやっと手に入れた、念願の玩具なのだ。そう簡単にカチュアを手放す気など、アイシスには毛頭ない。
次はいったいなにをして、カチュアとフレデリックの幸せの芽を摘んでやろうか。それを考えるほど、アイシスが浮かべる笑みは優しいものになるのだった。




