第72話 エリオ
いつもなら教会の診療所は暇そのものなのに、常駐している大ベテランのフランツ助祭が大聖堂を離れた今日にかぎって、なぜこんなにも混雑したのか。加勢を求めてきた他の助祭に応じて出勤したエリオは、仕事をやっと終えると大きく息をついた。診療所の片付けや施錠は仲間に任せて、助っ人の自分はその場を後にする。
非番の日は自宅でのんびり過ごしていることが多いので、久々の尋常ではない忙しさは体にこたえた。
診療所と大聖堂を繋ぐ連絡通路をとぼとぼ歩き、すっかり暗くなった中庭へとさしかかる。
あれだけ降っていた激しい雨はすっかり止んでいた。見上げた空は雲が切れ、星まで見えている。上弦の月が、その柔らかな光で中庭を満たしていた。雨粒が残る花々が、月光を受けてきらきらと輝いている。
なんともなしにその様子を眺めていて、エリオは大事なことを思い出した。
今日、エリオは本来ならば非番だった。同居しているウィッテンは、エリオが休日返上で働いていたのを知らない。彼が先に帰宅して、暗い家でがっかりしているなんて姿を想像してしまう。
そもそも今日のウィッテンは、ちゃんと昼食をとっただろうか。ほうっておけば、彼は寝食も忘れて務めに没頭してしまう。一応昼食にとサンドイッチを持たせたものの、エリオがいつものように昼だと声をかけない今日は、昼食を忘れていてもおかしくなかった。
一度気になってしまえば、不安が波のように押し寄せてくる。
そういえば、本日のウィッテンはなんの当番だったか。
思い出した瞬間、エリオはつい舌打ちをしてしまった。
ウィッテンは、告解室の当番だ。
巷で話題になるほどイケメンのウィッテンと二人きりになれる告解室は、彼のファンにとっては願ってもない空間だ。そんな欲望が渦巻くせいで、ウィッテンが当番の日の告解室は、異様な混雑を作り出している。
ウィッテンは己の容姿を評価されるのを嫌がるので、エリオはその推理を話して聞かせたことはない。だが間違いではないはずだ。
そうでなければ、ウィッテンの当番日と他の司祭の当番日の訪問数に毎回大きな差が出るはずがない。それに首都セーフェルには、他にいくつも教会がある。そこにも告解室はあるのだから、わざわざ大聖堂にばかりそんなに信者が集まるとは考えにくい。
いくら多忙な日とはいえ、さすがに昼くらいはうまく抜け出していて欲しい。願いつつ、エリオは告解室がある礼拝堂への道を急――ごうとして、何者かにぶつかった。その拍子に、エリオの僧衣と同じ柔らかな香りがふわりと鼻をくすぐる。
「危ないぞ、ちゃんと前を見ろ」
エリオの頭ひとつ分上から降ってきた耳に心地いい声は、今から探しに行こうと思っていたウィッテンのそれだった。声を聞いた瞬間、エリオの中に温かな安心感が広がる。
エリオの僧衣と同じ香りは、同じ石鹸で洗濯をしているウィッテンの僧衣から香るものだった。エリオこだわりの香りは、ウィッテンによく似合っている。
「きみ無事だったんだね」
見上げれば、月光を凝縮したような麗しい金の双眸がエリオを見ている。エリオよりも少し背の高い、ウィッテンの整った顔がそこにあった。
「それはこっちのセリフだ。非番のはずが診療所にいると聞いたから、様子を見にきたんだが」
ウィッテンの美声は相変わらず耳の奥に沁み込むような心地よさだが、さすがに疲れの色がうかがえる。今日はかなりの土砂降りだったが、やはり告解室は混雑したようだ。
そんな疲れが溜まる日でも、この主人兼幼馴染は、エリオを心配してくれたらしい。エリオは素直に嬉しかった。
「僕もやっと終わったところだよ。いやあ、今日はお互い忙しかったね」
エリオが当番として診療所に詰めているときでも、ウィッテンが告解室の当番であれば彼の方がだいぶ帰りが遅い。ゆえにエリオはウィッテンを告解室に残して先に帰宅していた。そうして家で夕食を作りながら、ウィッテンの帰りを待つのだ。
今日のように告解室の当番だったウィッテンとエリオの帰宅時間が被るのは、非常に珍しかった。
「僕もうへとへとだよ。なんか食べて帰らない?」
エリオの提案に、ウィッテンはすぐに頷いてくれた。長い付き合いで、こういうときの外食をウィッテンが断らないとはエリオもよく知っている。
「どこがいいんだ?」
ウィッテンの言葉遣いは、エリオと二人きりのときや、彼の家族にしか使ってくれない砕けた言葉遣いだ。それが周囲に誰もいないと示している。ウィッテンにとってはなんでもない言葉遣いひとつでも、エリオには嬉しかった。
「たまにフィオナの店に行こうよ。セーフェルに帰ってきてから、まだ一回も行ってないじゃないか。そろそろ顔見せにいかないと、なに言われるか分からないしさ」
「土産は家に置いてきたままだぞ?」
「それがねえ、ちゃんと持って来てるんだ。ほら!」
そう言って、エリオが片腕を上げた。持っているのは一本の酒瓶だ。いい加減フィオナに届けなければと思って持ち出したのだが、ちょうどいいタイミングになった。
「ノルン特産の紅茶酒。酒好きのフィオナといえば、やっぱりこれでしょ!」
「……俺は飲まないからな?」
「それはフィオナ次第じゃない?」
下戸のウィッテンに、エリオは朗らかな笑みを返した。
どんなにへとへとでも、長年そばに仕えてきた大切なウィッテンを見ていると元気が出てくる。淡い月光に照らされて微笑むウィッテンを眺めながら、エリオは幸せな気分に浸っていた。
「ところでウィッテン、お昼は忘れずにちゃんと食べたかい?」
「子供じゃないんだ。忘れずに食べたさ」
「きみは忘れるときがあるから、一応訊いたんだよ」
「それは忘れてるんじゃなく、食べる時間がないだけだ」
「本当かなあ」
まあいいやとエリオが続ける。
「とりあえずフィオナのところに行こうか。早くなにか食べないと、僕倒れちゃいそうだよ」
「同感だ」
珍しく空腹を訴えるウィッテンに、エリオは微笑ましさを感じた。
「そうと決まれば、早く行こう。ぐずぐずしてたら明日になっちゃうよ」
紅茶酒の瓶を落とさないよう大事に抱えると、エリオはウィッテンの先を歩き出した。




