第71話 ある女――アイシスの思い出
「奥様、お茶が入りました」
蝉の声が遠くに聞こえる、夏の別荘。その居間で、カチュアは私に紅茶を用意してくれていた。白磁に青い小鳥のつがいが描かれた大切なティーカップから、ふわりと甘い香りが漂う。
新婚の記念に作らせたこのティーカップを、私は本当に大切にしていた。
「フレデリックは?」
「フレデリック様は『少し村を散策したい』と仰っていました」
「そう」
ティータイムに夫がいないのは珍しいが、今までなかったことではない。それにこのエルディア村は昼間でも心地よい風が吹いていて、木陰を選んで歩けば夏の散策にもちょうどいい気候だ。
だから、私は夫の不在になんの疑問も持たなかった。好いてもいない妻と四六時中一緒にいても息が詰まるのかもしれないと考える程度だ。
私とて、常に夫がそばにいなくては資金援助の打ち切りをちらつかせるような狭量な女ではない。
年が離れているとはいえ、お互いそれなりにいい年だ。好きに過ごす時間があってもおかしくない。
カチュアは夫付きのメイドだけれども、今別荘にいる使用人は彼女だけだ。したがって、彼女が私に茶を用意するのも普段と変わりなく、なにも不自然ではなかった。
別荘に同伴させる使用人をカチュアひとりにするというのは、フレデリックの提案だ。夫からすれば、私たち二人の世話をするのにあまり多くの人手はいらないという考えだったらしい。
実際にいまだ独り立ちできていない夫の実家について考えると、夫自身の屋敷でも使う費用は少ない方が助かる。お世辞にも裕福とはいえない現状を、小さな屋敷を切り盛りする私は知っていた。使用人も無料で働いてくれるわけではない。
だからといって同伴するのがカチュアひとりというのも極端な話だったが、若干浪費癖のある夫が資金面について少し考え始めてくれたのだと、私は喜んでいた。
いつまでも私の実家をあてにされても困る。夫とその実家が自分の足で立つ為ならば、別荘にいる間は身の回りの簡単なことを自分でするくらい、なんら抵抗はなかった。贅沢をしなければ死んでしまうわけでもないし、別荘では本宅のように雑務に追われるわけでもない。普段とちょっと違う生活も楽しみのひとつと思えば、案外どうにかなるものだった。
甘い香りを漂わせる紅茶に、私は口をつけた。鼻腔を抜ける香りが心地いい。
ゆっくりと飲み込むと、喉に違和感を感じた。若干ではあるが、ひりつく。
「どこのお茶かしら?」
普段飲んでいるものと違う。問えば、カチュアはいつもどおりのあどけない笑みで答えてくれた。
「ファラディ地方のものでございます。フレデリック様が奥様の為にと頼んでいたお品が、今朝到着いたしました」
随分遠い地方の茶葉を取り寄せたものだ。ファラディ地方というと、エルディア村とは真逆の方向にあたる、帝国領の地方だ。
夫がそこまで紅茶にこだわりを持っているとは聞いた覚えがなかったが、私の為に取り寄せてくれたというのは素直に嬉しかった。家計としては多少散財になってしまっただろうけれど、思ってもいなかったプレゼントは私の心を和ませてくれた。
もちろんそのプレゼントには、夫がカチュアを雇い可愛がっているからという後ろめたさも含まれているかもしれないが。
それでも夫がわざわざ私を気にかけてくれたという事実に、心が弾む。
今までファラディ地方の紅茶は有名な産地として知っていても、口にする機会などなかったのだ。飲み慣れなさが変わった喉越しとして感じられたのかと思い、再びカップに口をつける。
噂に聞いたファラディ地方の紅茶は、こんな香りだっただろうか。
酔ってしまいそうなほどの濃厚な甘い甘い香りに続いて、こみ上げてくる灼熱感。
やはりなにかがおかしい。
そう思い直したときには、私の体はじっとりと嫌な汗をかいていた。燃えるような痛みが、胃から、喉から、全身へと広がっていく。
私の手から滑り落ちたティーカップが、ローテーブルの端に当たって粉々に砕け散った。中に残っていた紅茶が飛び散り、私の質素な青いドレスを汚していく。
あまりの苦しさに、私はソファへと仰向けに倒れ込んだ。
いったいこの娘は、私になにを飲ませたというのか。
呼吸のたびに痛む胸に手を当てつつ、カチュアを見る。
彼女は相変わらず、微笑んでいた。
「奥様、どうなさいました? ひどく苦しそうですが」
「おまえ……なに、を……」
喉から絞り出した私の声は自分でも驚くほどしわがれていた。吐息が炎のように熱い。呼吸をしても、体が空気を取り込んでいる感覚がまったくない。地獄というものがあるのなら、そこでする呼吸はこんなふうに苦しいに違いない。
ざらつく視界の片隅で、居間のドアが開く。
そこから姿を現したのは、八歳年下の夫フレデリックだった。
サーベルの柄に手をかけた夫の視線は、カチュアではなく私に向けられている。しかし彼の落ち着いた所作から分かるのは、決して私の味方ではないという現実だ。
「許せ、アイシス」
フレデリックの言葉で、私は悟った。
フレデリックとカチュアは、火遊びという次元をとっくの昔に超えてしまっている。そして二人で手を取り合って、未来に踏み出す気だ。
私を殺して。
フレデリックが私に飲ませるべく遠方の茶葉を仕入れたなど、真っ赤な嘘だ。そんな優しさがあったとしたら、彼はそもそもカチュアを雇わなかった。
カチュアが淹れる茶を私とよく飲んでくれていたのも、私にしれっと毒を盛る為だ。カチュアが用意するものへの警戒心を薄れさせて、珍しい茶葉だと偽りたっぷり毒を飲ませようとする準備だった。
他に使用人を連れてこなかったのは、二人が立てた計画がばれないようにという、ただそれだけのこと。決して私が期待したような、懐事情をふまえた判断などではなかった。
それらの現実に気づかず、フレデリックが少し大人になってくれたのだと気分をよくして、夫が言うならばと物分かりのいい妻を務めていた自分がひどく惨めだった。
幼さの残る顔ににやにやと悦に入った笑みを浮かべたカチュアの横を通り抜け、フレデリックが近づいてくる。
私がどれだけフレデリックを支え、私の実家がどれだけ彼の実家を援助してきたと思っているのだ。恩知らずとも恥知らずともいえる彼の行動に、私は純粋に怒りを覚えた。
もしも私の視線に魔力が宿っていたら、フレデリックを焼き殺せたに違いない。
サーベルが鞘から抜かれる。
抵抗のできない私の腹に、その刃は迷いなく深々と突き立てられた。体中に回ってしまった毒のせいか、刃による痛みなど微塵も感じない。
ただ、フレデリックがサーベルを私から引き抜くときに、腹の中身がわずかに引っ張られる感触と、傷口と思しき部位からどろりと液体が流れ出したのは分かった。
急速に四肢の力が抜けていく。私のお気に入りの青いドレスは、もう目も当てられない状態になっているはずだ。
フレデリックとカチュアを、私は絶対に許さない。
二人がこれからどんな人生を送り、死に、聖なる大樹セフィロートを巡る大いなる旅路を経て再びこの世に生を得たとしても、私は彼らを絶対に間違えはしない。
そして、時間は私の怒りを消し去りなどしない。
フレデリックの懐事情を考えれば、この僻地の避暑地にある小さな別荘は間違いなく売りに出される。しかし運命というものがあるならば、フレデリックとカチュアはいつか必ずここに戻ってくる。その日が訪れるまで、私はいつまでもここで待ち続ける。
彼らに復讐をする為に、ずっと。
そう誓う私の視界は、急速に昏くなっていった。
それからどれほどの年月が経ったのか。別荘の所有者が何度か変わり、訪れる者の服の流行も変化した今、やっとその機会は巡ってきた。
この小さな館に、再びフレデリックとカチュアが揃ったのだ。
運命は私に味方した。これはフレデリックとカチュアに復讐をすべしという、神の意志に間違いない。
そんな現実に、私は喜びを隠しきれなかった。




