第7話
「おっと、それは僕が持つよ」
ウィッテンが地面から拾い上げようとした黒い鞄を、エリオが素早く手に取る。中に入っているのは医療器具や薬品など、自分の仕事道具だ。エリオは自分の仕事道具は自分で持つ主義だった。
さすがのレジーナも、エリオの仕事道具がウィッテンに必要なのだと分かっているようだ。鞄に危害を加えたことは一度もない。
ウィッテンが既に持っている旅行鞄には、二人分の着替えなどが入っている。本当ならばそれもエリオが持ちたかったが、そうするとウィッテンは「俺だけ荷物がない」と不満そうに言う。ゆえにエリオはいつも仕方なく彼に旅行鞄を任せていた。
それに着替えが入っている鞄ならば、万が一ウィッテンが臨戦態勢になったときに放り投げられても、中には壊れそうなものなど入ってはいない。
小さく息をつくエリオの耳に、裏庭の草を踏みしめる音が聞こえてきた。
「飛竜の鳴き声を聞いたのは、随分と久しぶりじゃのう」
「ようこそおいでくださりました」
足音の主は二人いた。
のんびりとした声は、長い白髭が特徴的な老人だった。紺色の僧衣姿なので、彼がノルンの教会を預かっている司祭だと分かる。典型的なお爺ちゃん司祭だなというのが、エリオの印象だった。なぜか地方の司祭ほど老齢な者が多い。
もうひとりの瑞々しい声は、二十代前半と思しき男だった。おそらくウィッテンやエリオより何歳か年下くらいの青年だ。後ろへと撫でつけたくすんだ金髪に、切れ長の緑の目をしている。仕立てのいい服に胸当てとショートソードという、やや不思議な服装をしていた。服の質からして、おそらく彼が依頼をしてきた領主だとエリオは推測をした。
それにしても、貴族というわりには華のない青年だ。どうしてもウィッテンというよく完成された元貴族の存在を知っているだけに、エリオはそんなふうに考えてしまう。
青年がエリオの視線に気づいたのか、苦笑いを浮かべた。
「領主のシグムント・ハーシェルと申します。騎士団長も兼ねていますので、今は執務の合間にこうして街の見回りに出ておりまして。中途半端な恰好で、失礼します」
「へえ、領主様自ら騎士団長。勇猛果敢ってやつですね」
「エリオ」
エリオの軽口をウィッテンがたしなめる。しかしエリオにしてみれば、からかったつもりなど毛頭ない。別に悪意があったわけではないと示すように、エリオは肩を小さくすくめた。
「失礼しました。エクソシストのウィッテン・フェルベルトです。こちらは……」
「助祭のエリオ・アルバレスです。どうぞよろしく」
名乗りと共に、各自が握手を交わす。
シグムントはそこそこ剣の修練をしているらしい。エリオが握った手の皮は思っていたより厚く、腰から提げたショートソードを充分に扱えると示していた。おそらく彼と取っ組み合いをしたら、エリオが力負けする。ひょろりとした華のない領主様という印象を、エリオは少しだけ改めた。
「そうか、きみがフェルベルト神父か」
エリオの思考を遮ったのは、老司祭の嬉しそうな声だった。その態度に、エリオの中に嫌な予感が芽生える。
そんなエリオの胸中など知らぬ老司祭は、にこにこと人のよさそうな笑みで言葉を続けた。
「きみの噂は聞いておるよ。ミサでの説教は、熱心に聞き入る信者が多いそうじゃのう」
そらきた、とエリオは心の中で舌打ちした。
「もしよければ、ノルンにいる間に一度くらいはミサをお願いしたいんじゃが」
「機会がありましたら、是非」
エリオの都合など置き去りで、話が進んでいく。
エリオと二人きりのとき以外は、ウィッテンは『フェルベルト神父』という役柄を演じているといってもいい。そのときの彼は、まるで全てが修行だといわんばかりにたいていのことは断らない。
もちろんウィッテンの信仰心の篤さは嘘ではない。
だがノルンのような地方の教会でのミサは、『フェルベルト神父』の仕事ではないのだ。ウィッテンに頼まず、教会付きの老司祭が上げればいいではないかと思ってしまう。
だいたい自分たちは、『霧の悪魔』の調査に来たのだ。あまり関係のない仕事で、ウィッテンの負担を増やしたくない。
男女ともに見惚れる美しい笑顔を浮かべながら老司祭と話すウィッテンの様子に、エリオは心の中でため息をついた。
宗教はと質問されたら「『一応』セーフェル教です」と言ってしまいそうな程度の薄っぺらい信仰心しか持たないエリオにとって、大切なウィッテンの仕事が増えることと、早起きしてのミサの用意は、二重に苦痛でしかなかった。ウィッテンの為ならばいくらでも早起きはするが、そうではなくミサの為となればいよいよ面倒である。
「これはさっそく町の皆に報せねばのう」
ふぉっふぉっふぉと長い白髭にこもる声で、老司祭は嬉しそうに笑った。
「立ち話もなんですので、よろしければ屋敷へお越しください。滞在中にお使いいただく部屋もご用意しております」
「お世話になります」
ウィッテンに倣い、エリオもシグムントにぺこりと頭を下げる。
てっきりいつものように宿を取ると思っていたので、シグムントの申し出は意外なものだった。まったく例がないわけではないが、珍しい。領主の屋敷ということは、ノルンの滞在中は質のいいふかふかベッドで眠れるのが確定した。エリオにとって数少ない喜びである。
教会付きの老司祭と別れて教会を出ると、シグムントと話すウィッテンを追いかけてエリオは歩き出した。
街の通りに出れば、エリオは人々の視線がウィッテンをなぞるのを感じられた。もはや見慣れた光景だ。彼らは興味がないふりをしつつ、さりげなくウィッテンの容姿をチェックしていく。
今日が雨だったら、ウィッテンは僧衣と同じ紺色の外套を羽織れたのに。フード付きのそれは、彼の容貌を隠すのにはもってこいだ。
どうしたって人目を惹く主人兼幼馴染に、エリオは何千回目かの同情をした。




