第68話 カチュア ※グロ注意
真夜中というわけでもないのに、エルディア村の住宅街を歩く者の姿はない。この小さな村には、夜遊びをする場所など一軒の酒場くらしかないのだ。そしてそれも午後九時頃には閉店してしまう。村が静まる時間は、元々早かった。
アイシスが体に入り込んできたとき、彼女の姿がカチュアの脳裏に浮かんだ。それは質素な青いドレスを纏った、三十代後半と思しき艶やかな女性だった。
アイシスに請われるがまま、カチュアは己の記憶を彼女に見せた。体中をかき回されるようなもぞもぞとした不思議な感触の後、アイシスはカチュアの記憶を共有することに成功したらしい。アイシスが操る体は、迷うことなくカチュアの実家への道を歩んだ。
カチュアの実家は、主に麦を作っている農家だ。小さな納屋には、子供の背丈ほどもある大きな草刈り鎌が何本か置かれている。刈り入れの時期になると、双子も揃ってこの大きな鎌を使い農作業に混ざったものだ。
カチュアが懐かしい気持ちで納屋の中を眺めていると、アイシスの操る体が一本の草刈り鎌を手にした。
それを持ったまま、再び別荘への道を戻る。敷地内に入ってまもなく、アイシスは玄関ではなく横の草地へと逸れた。その先にあるのは庭だ。
庭の方から、誰かが歩いてくる。アイシスの操る体が足を止めた。
月光の下で揺れる、小さな光。カンテラを片手に現れたのは、父のジェームスだ。
「ソフィア、あまり父さんを驚かせないでおくれ」
父の言葉に、カチュアは落胆した。周囲に人影のない今ならば、父は『カチュア』と呼んでくれる気がしていたのだ。
だがどうやら、いまだに双子が入れ替わってしまっていると気づいていない。父は本当に双子の区別がついていないのだという現実が、カチュアの心に新たな傷を作った。
……いや、ひょっとしたら、父はわざとカチュアを『ソフィア』として扱っているのかもしれない。
そんな黒い考えが、カチュアの胸中で渦を巻く。
地方の小さな家とはいえ、フレデリックは貴族だ。彼と縁談のあったソフィアの方が、父にとってより大切な娘だったという可能性はある。たとえ区別がついていたとしても、生きているのは『ソフィア』だと信じていたくて、父は『カチュア』という存在を消してしまったのかもしれない。ソフィアが死んだ後からずっと、カチュアはそれを心配していた。
自分たちは魂を分け合った双子なのに、皆から存在や価値を認められるのはソフィアだけで、カチュアは実の親にとってさえ不要な子なのでは。そんな不安が、幼い頃からカチュアの中にずっとあったのだ。
他の誰が気づいてくれなくても、実の親だけはソフィアとカチュアの区別がついていると信じたい。
子供の頃によくソフィアと入れ替わっては両親をからかって遊んだが、両親も本当は区別がついていて、ただ遊びにつきあってくれていただけだと信じたい。
そうでなければ、カチュアなどソフィアに『双子』という価値をつけるだけの添え物になってしまう。心が折れてしまいかねなかった。
カチュアが悶々と悩んでいたとき、体が動く感覚があった。
アイシスが持っていた草刈り鎌が風を切り、大きな刃が目前にいる父の体へと吸い込まれていく。カチュアの記憶に基づいた鎌の動きは迷いがなく、よく手入れされた刃が父の脇腹に深々と突き刺さった。
カチュアが混乱する中、アイシスが鎌を引く。
『やめて、アイシスお願い』
そんなことをしてしまったら――父の腹が裂けてしまう。
しかしアイシスの魂に呼びかけるカチュアの声を、優しいはずのアイシスは聞き入れてくれなかった。
父の腹部が湾曲した刃の形状に合わせて膨れたとほぼ同時に、ぶつりと皮膚を拭き破って刃の先端が姿を現す。鎌と共に出てきた父の臓物が、腹の裂け目から垂れていた。熱い返り血が、雨のようにカチュアを濡らしていく。
『ねえ分かったでしょう、カチュア』
頭の中に、アイシスの魂が放つ声が響く。艶をはらんだ、優しい声色だった。
カチュアの視界の中で、父がこちらに手を伸ばしながら倒れていく。
『あなたはいらない子なのよ、カチュア』
カチュアが認めたくない事実を、アイシスは突きつけてきた。
『かわいそうな子。親からも夫からも愛されない子。実の姉にすら嘘で裏切られた、哀れな子』
アイシスの言葉に偽りはなかった。
カチュアを『カチュア』として愛している者など、この世には存在していない。カチュアの心がなにを求め、どう感じているのかなど、誰も興味がないのだ。
誰もがカチュアに『ソフィア』の面影を求め、それを現実として信じたいだけなのだから。
皆に必要とされているのは、間違いなくソフィアだった。
たったひとつの嘘でカチュアを裏切った姉だけが、皆から愛されていた。
その現実は今、父の死体という形あるものになって目の前に転がっている。
アイシスの勝ち誇ったような笑い声が、脳内に響く。
無意識に、カチュアは声のかぎり叫んでいた。
もう、限界だった。




