第66話
驚いたカチュアが振り返るが、誰もいない。ティナが退室してからは誰も入ってきていないので当然だ。
では、いったい誰なのか。
「カチュア」
久しぶりに呼ばれる自分の名前だった。
カチュアが訝しみながらも鏡台を離れ、室内を見回す。だが、声の主と思しき影はやはり見つからない。
そうしている間も、カチュアの耳元では女の声がしていた。
「泣かないで。私はあなたの味方よ」
味方。甘美な言葉が、カチュアの心にじわりと沁み込む。
「あなたは、誰?」
自分の名前を呼んでくれた目に見えない存在に、カチュアが興味を示す。不思議と恐怖はなかった。
「私の名前はアイシス」
「アイシス」
カチュアの耳元で囁く者――霊と思しき者の名は、アイシスというらしい。
実際の霊に会うのは始めてのカチュアだったが、アイシスはこの別荘に住む霊だと瞬時に理解した。この別荘は手入れこそ行き届いているが、とても古い建物だ。霊が何人かいたとしても、不思議ではない。
それにセーフェル教徒の間では、霊が住み着いているのは伝統ある建物の証という風潮がある。好んでそういった建物を購入する者もいるくらいだ。
「カチュア」
艶のある女の声で、アイシスが話しかけてくる。
「あなたは、姉とは違う」
アイシスはカチュアの心を読んでいるかのように、カチュアが欲しい言葉をくれた。
「あなたはカチュアよ」
「そう……そうなの。あたしはお姉ちゃんじゃないの。どうやってもお姉ちゃんにはなれなかった。でもそれじゃあ困るの」
思い出したかのように、カチュアの目からぽろりと涙が一粒こぼれ落ちる。
「あたしがお姉ちゃんになれないと、すべてが壊れてしまう」
「だったら、試しましょう」
「試す?」
「あなたをカチュアだと見破る者がいるのか、試してみましょう」
アイシスの案に、カチュアはすぐに頷けなかった。
正体を見破られたら、すべてが終わってしまう。ソフィアは墓の名前を修正されて昇天できるだろうが、残されたカチュアや村に住む両親は穏やかには暮らせない。カチュアが罪を裁かれるのは当然だとしても、両親はなにも悪くない。しかし実際には、両親はこの村で生きていくのが難しくなる。世の中とはそういうものだ。
「あなたがカチュアだと分かっても、それでも秘密を守ってくれる者がいるのか。私と一緒に探してみましょう?」
「秘密を守ってくれる人……」
「そう。あなたの正体がばれなければ、それはあなたが上手に姉を演じられている証拠よ」
たしかに、とカチュアはアイシスの言葉に納得した。
「それにあなたが『カチュア』だと見破っても秘密を守ってくれる者が見つかったら、それは大事な味方ということ。あなたの存在を許してくれる大切な人よ」
アイシスにゆっくり説明されるほど、カチュアの思考はアイシスの方へと傾いていく。彼女の言葉は正しく優しいものに感じられた。
「試す代わりに、お願いがあるの」
アイシスが、柔らかな声でそんなふうに切り出してくる。
「なあに?」
「あなたの体を、少しだけ私に貸して」
「あたしの体を、あなたに?」
「そう」
霊は生者に憑りつく場合がある。そうやって生者を意のままに操り、様々な悪事をおこなうのだと、カチュアは幼い頃に教会で教わった。
だがカチュアの味方だと言い、カチュアに寄り添うような提案をしてくれたのは、間違いなくアイシスだ。
「カチュア、皆の愛情を試す為よ。少しの間だけでいいの」
アイシスがゆっくり言葉を紡ぐ。その声は、カチュアには遠慮がちなお願いをしているように聞こえた。それに少しだけ貸して欲しいというからには、アイシスはカチュアに体を返してくれる気があるということだ。
けれども、もしアイシスが教会で教わったような悪霊だったら、自分はどうなってしまうのか。
アイシスにすがってしまいたい気持ちと、慎重に考えるべきだという理性がぶつかり合う。
が。
「……いいわ、あたしの体をあなたに貸す。ただし、少しだけよ」
もうカチュアは、物事を深く考えたくなかった。
自分を『カチュア』だと分かってくれるアイシスに、すべてを委ねてしまいたい。体を欲する霊が皆悪霊というわけではないだろう。
もしかしたらアイシスはこの館で、ずっとカチュアを見守ってくれていたのかもしれない。
優しいフレデリックが所有する別荘にいる霊なのだから、アイシスもきっと優しいはずだ。アイシスが悪霊だというのなら、今頃とっくになにか起こっていてもおかしくない。カチュアはアイシスを信じた。
そわり、と体に冷たく柔らかいものが入り込む感触があった。あらゆるものを凍らせてしまうような冷気が、手の先、足の先へと広がっていく。アイシスが体に入ってきたようだ。
もし今カチュアが振り向けたら、彼女は気づけただろう。
ドアの隙間から、夫のフレデリックが一連の光景を見ていたことに。




