第59話 ソフィア
青空の見えない空は嫌いだった。
重苦しい曇天から落ちてくる雫は、いつだってソフィアに冷たい現実を嫌というほど突きつける。生前は慈雨と呼んでいた雨粒は、死者には雨宿りなど不要だと告げるだけの残酷なものになってしまっていた。
先ほどから激しさを増した大粒の雨の中、夕暮れの街並みでは街灯に灯りが入れられていく。目の前の道はさほど大きな通りではないが、それでも首都セーフェルとあって往来は多かった。ソフィアが生まれた田舎の村とは大違いだ。
パン屋の軒先に佇んでいたソフィアの目前に、茶色い外套の裾が広げられた。誰だろうかと視線を動かせば、見知らぬ中年の男が外套を広げている。
まさか彼には、死者のソフィアが視えるとでもいうのだろうか。
そしてソフィアの寂しい気持ちを察して、外套の中に招き入れてくれようとしているのか。
ソフィアが知るかぎり、セーフェル教の聖職者以外で死者が視える生者の存在は稀有である。中年の男の服装は、どう見ても僧衣には見えない普段着だ。
もしかして、元々霊が視えるのだろうか。
思わず期待したソフィアの気持ちを表すように、その体がふわりと浮き上がる。
だが外套は、ソフィアの隣にいた十歳ほどの娘の為に広げられたものだった。
パンを抱えた小さな娘が、男性の外套の中へと体を滑り込ませる。目元が似ているので、おそらく男と娘は親子だ。そのまま二人は何事かを話し、笑い合いながら去っていった。
やはり自分の姿は、ごく普通の生者に視えるわけがない。
それに視えたとしても、聖別されていない全てのものをすり抜ける霊に雨宿りなど不要なのだから、外套の中に招き入れてくれる者なんていない。
ソフィアは死んだことを後悔していない。幽霊の友達だって、ゲイルがいる。暮らしだって、特に不満はない。
それでもこんな雨の日は、自分は目の前に広がる世界から切り離された孤独な存在なのだと、あらためて感じてしまう。自然と心がうつむいてしまうのだ。
こんなとき、自分の姿が視える人に、少しでも慰めてもらえたら。
そんな考えがよぎり、ソフィアは軒先からふわりと飛び出した。
激しい雨の中、住宅街の一角へと向かう。目指すのは、ごく普通の一軒家だ。ここには、ソフィアがセーフェルに来るきっかけになった人物が住んでいる。
白壁にソフィアが手をつく。
たいていの壁はすり抜けられるのに、この家の壁はソフィアの手を押し返す感触があった。
聖別されているのだ。そのせいで、霊であるソフィアでも壁を通り抜けられず、家の中に入れない。
セーフェルに来るきっかけになった人物に、ソフィアは自宅を知っているとは伝えていなかった。もちろん相手が多忙すぎて話しかけられないというせいもあるが、後をつけるような形で偶然場所を知ってしまったなんて言えるはずもない。
「残念だったねえ」
壁に拒絶されたような物悲しさを覚えていたソフィア。その頭上から、よく知る声が降ってきた。見上げれば、二階の窓から丸眼鏡の青年がソフィアを見ている。
品よく切り揃えられた黒髪と、人懐っこい笑み。
助祭のエリオだ。
「きみみたいな考えの霊って、けっこう多いんだよ。申し訳ないけど、僕たちの家は幽霊お断りなんだ」
人のよさそうな笑みとは真逆のきつい物言いは、エリオがソフィアに向けるいつもの態度だった。
エリオと同居している司祭の青年・ウィッテンに、ソフィアはノルンという町で出会い、一目惚れした。そしてその情熱のままに、彼を追いかけてセーフェルに来たのだ。
しかし、なかなかウィッテンに近づくチャンスがない。
そもそもセーフェルにいる間、家の外でウィッテンを見かけるとだいたいエリオが一緒なのだ。
エリオは、ソフィアにゆっくりウィッテンと会話をさせてくれるような相手ではなかった。ソフィアが初対面でやらかしたのを皮切りに様々な場面でエリオには嫌われていたので、仕方ない話ではあるのだが。
「ウィッテンならいないから、帰ってくれないかな。僕も今から出かけないといけないんだ」
それだけ言うと、エリオは雨戸を閉めた。ちらりと見えた彼の服装は、医術を修めた特殊な助祭である証の白い僧衣だ。これからセーフェルの中心部にある大聖堂へと向かうのだろう。
大聖堂には間違いなく、ウィッテンもいる。
だがソフィアは、セーフェルに来てからのこの半月、あまり大聖堂に近づかないようにしていた。大聖堂が聖別されていて入れないというわけではない。死者の旅立ちを手伝うことを義務としているセーフェル教なので、大聖堂はソフィアのような浮遊霊も出入り自由だ。
問題は、大聖堂にいる聖職者たちである。
何度かウィッテンの姿を探し求めて大聖堂に行ったものの、彼はいつも多忙そうで話しかけるどころではなかった。そのうちに他の聖職者たちに見つかり、昇天の相談に来た霊だと思われて声をかけられるようになってしまい、それが原因でソフィアはあまり大聖堂に入らなくなっていた。
本来死ぬと自然に大樹セフィロートへと旅立つようだが、なんらかの理由で昇天できなかった死者というものもいる。そういった霊に寄り添うのが聖職者だ。彼らはにこにこと善意の塊のような笑顔で昇天の手伝いを申し出てくれるが、ソフィアはまだこの世にいる気満々なのだ。困ってしまう。
今は旅立つよりも、ウィッテンのそばにいたい。
そんな想いが膨らみ続けた結果、ウィッテンの周囲を探るようになり、ついに家の場所を覚えてしまったのだが、聖別された家にソフィアは入れなかった。
玄関のドアが開き、エリオが出てくる。彼は縁に銀糸で装飾を施された、紺色の外套を羽織っていた。セーフェル教の聖職者が使っているものだ。ウィッテンとお揃いの外套姿のエリオは、ソフィアを一瞥するとドアを施錠して去っていく。
エリオが外出したからには、ウィッテンは暫く帰ってこない。今まで彼らを観察した結果判明したのは、ウィッテンがひとりで在宅しているという状況はほとんどないということだ。どうも二人は、職務上のコンビという以上の関係という気がする。
もっとも、そのへんをきちんと二人に訊いたことはないのだが。
そういう機会すら、ソフィアには与えられなかった。こんなにもウィッテンが好きなのに、彼について知っていることはとても少ない。
更新再開は8月10日(月)の0時更新分からです。良い週末を。




