第40話
唐突に、エレナの念糸が解かれた。
ソフィアが前のめりに倒れ込み、むせる。
生者であれば、とっくに死んでいたほどの時間だった。死者はこれ以上死なないとはいえ、ダメージは大きい。魂だけの存在なのに呼吸をするのは気休めにしかならないが、それでも小刻みに息を吸い込むたび、少しずつ視界がクリアになっていく。
エレナの念糸が絡みついていた喉をそっとなぞるが、なにもない。それでも絞められる苦しさと、無数の細い念糸が食い込む痛みは、たしかに残っていた。
ようやく体がいうことを聞き始めるようになり、ソフィアがおそるおそる後ろを振り返る。
しかし、そこにエレナの姿はなかった。見回してみても、いつもの宿屋の屋根と街並みが広がっているばかりで、メイド服姿の少女は見当たらない。
「……エレナ?」
呼んでみるも、返事はなかった。
なぜこんなことになったのか。屋根の上で座り込み、ソフィアが自問する。
好きな人の声を聞き、その姿を眺めていたかった。エレナに対する後ろめたい気持ちもあったが、お近づきになれたらという下心があったのは否定しない。
でもウィッテンにエレナの存在を教えたのは、本当にたまたまだ。彼女があんなに怒ると知っていたら、いくらウィッテンの役に立ちたいといえども絶対に教えなかった。
自分の欲望を欠片まで抑えられなかった無節操さが、この事態を招いてしまったのだろうか。
再び溢れてきた涙が、青白い光を帯びる。やりきれない思いが詰まったそれはソフィアの頬を流れ落ち、宿屋の屋根にぽつりと濡れた跡を残した。
ふと、最期に聞いたカチュアの言葉をソフィアは思い出した。
『お姉ちゃんの嘘つき!』
あれはカチュアの心が深く傷ついた音だ。
カチュアの泣き顔が、彼女に突き飛ばされた衝撃が、崖から飛び出した一瞬の浮遊感が、次々によみがえる。
自分のしょうもない嘘でカチュアを傷つけたときのように、今度はたった一つの約束を破ったせいでエレナを傷つけてしまった。エレナのあの怒りは、ソフィアに対する深い落胆の表れかもしれない。
起こってしまったものはどうにもならないと頭で分かっているのに、それが心まで沁み込んでくれない。自分が悪いのだから泣くまいと歯を食いしばっても、涙は次から次に溢れてくる。念糸が混ざった青白い涙は、緑色の瓦に次々とその跡を残した。
「そんなところでうつむいてどうした? 蟻でもいんのか?」
聞き慣れた声が、ソフィアを現実に引き戻した。見上げたそこにいたのは、いつもと変わらぬ様子のゲイルだ。自分は相当ひどい顔をしているらしい。目線を合わせたゲイルがぎょっとした。
「……もう! 来るのが遅いのよぉ! どこ行ってたの!」
ソフィアが己の膝をばんばん叩く。そんな様子に、ゲイルは困った顔をするばかりだった。自分勝手だとソフィアも理解しているが、いつものようにゲイルがそばにいてくれたら、こんな怖い思いをせずに済んだかもしれない。なぜ今日はそばにいてくれなかったのかと、理不尽な怒りをぶつけてしまう。
「どこって、散歩だよ散歩」
そう言うゲイルが見せてきたのは、白いニゲラの花を模した髪飾りだった。まったく想像していなかった可愛い土産に、今度はソフィアが驚いた顔をする。
「街でこういう髪飾りつけてるやつがいてさ、それを真似して作ってたってわけだ」
それが、彼がそばにいなかった理由だった。
「俺の念糸だと今日いっぱい持てばいい方だけど、たまにはこういうのつけるのも悪くないだろ?」
ゲイルがソフィアの髪に触れる。手甲をつけた武骨な指が、ソフィアの髪に可憐な髪飾りをつけてくれた。屋根裏部屋の窓に映る姿は、小さな白い花の髪飾りのおかげで少しだけ華やいでいる。ぐしゃぐしゃの泣き顔と泣いた理由がなければ、今すぐウィッテンに見せに行きたいほど嬉しい。
「どうせエレナと喧嘩でもしたんだろ。元気出せよ」
「……うん、ありがと」
ゲイルの優しさが、今は特に沁みる。詳細を聞こうとしないのも、ソフィアにはありがたかった。
ゲイルは他人との距離のとり方が上手い。ソフィアもゲイルのようにうまく立ち回れたら、人を傷つけずに済むのだろうか。
ゲイル自身について、ソフィアは詳しくは知らない。ひょっとしたら彼にも、ソフィアが想像できないような壮絶な対人関係があったのかもしれない。
それでも今のソフィアには彼は人づきあいが上手なタイプに見えたし、彼がそう見えれば見えるほど、自分がだめな人間に感じられた。
ちょっとしたことで、信頼というものは崩れてしまう。もちろんそのきっかけはソフィアの行動によるものだが。
もしもソフィアがどうしてもウィッテンに近づきたいと最初からエレナに話していたら、彼女との関係に変化はあっただろうか。
……いや、きっと交友関係が終わりを告げるだけだ。エレナの怒り具合からして、それが容易に想像できる。
普段からは想像もできないほど激怒していたエレナに謝りたいという思いはあっても、今は彼女に会うのが怖かった。拒絶されたらどうしようという不安が消えてくれない。
「別に今すぐじゃなくても、落ち着いてから謝ってもいいんじゃねえの?」
ソフィアの心を見透かしたように、ゲイルが言う。
「とりあえず、その顔どうにかしろ。せめて鼻拭けよ。溺れたカワウソみてえになってるぞ」
ゲイルに対して抱いていた感謝の念が、ソフィアの中で急速にしぼんでいく。なんなら彼に伝えた「ありがとう」と返して欲しい。一応ソフィアはこれでも繊細なお年頃なのだ。そんな自分に対し、なんてことを口にするのか。
「だっ……誰がカワウソよ! 失礼ね!」
「自覚ねえのかよ! けっこう似てるぞ!」
「なんですって!」
「いや本当だって! 一度自分の顔よく見てみろよ!」
ゲイルの笑い声がけらけらと響き渡る。その様子はとてもではないが、ついさっき繊細な造形の髪飾りをプレゼントしてくれた同一人物とは思えなかった。
逃げ回るゲイルを追いかけているうちに、ソフィアは気分が上向きになっていると気づいた。自分がカワウソに似ているかどうかという議論は横に置き、元気が出てきたのは間違いなくゲイルのおかげだ。
これなら心を整理して、エレナにきちんと謝れるかもしれない。
更新再開は7月13日(月)の0時更新分からです。良い週末を。




