第39話 ソフィア
今日もよく晴れ渡った秋空の下、宿屋の緑色の屋根の上。
ソフィアはひとり、膝を抱えていた。
今更ながら、ウィッテンにエレナについて教えたのはよくなかった気がする。きっとエレナのことだから、ソフィアが彼の部屋に侵入したのではとすぐ気づくに違いない。「遠くから見るだけって言ったよね?」と問い詰められたときに、どういう顔をしていいか分からない。
しかしそこで思い返されるのは、酒場でのウィッテンの言葉だ。ウィッテンは、ソフィアが彼を訪ねるのを拒否しなかった。その言葉に甘えた結果、ソフィアは彼の部屋に行き、たまたまエレナの話になってしまっただけなのだ。
そう、本当に偶然なのだ。ソフィアがそうなるように仕組んだわけではない。
何度もそう考えては元気を出そうとするが、どうも同じことばかりぐるぐる考え続けてしまう。生前は細かいことなど気しない性分だったのに、死んでからは時間が無限にあるせいか、色々と考え込むようになってしまった。
ふと、ソフィアは近くに霊の気配を感じた。近くにいると少し冷気を感じるのは、霊特有のものだ。
いつの間にか、ソフィアのそばにはエレナが立っていた。
「おはよう、ソフィアちゃん」
エレナはいつものように、優しい笑みを浮かべていた。ウィッテンは彼女を見つけられなかったのだろうか。もしくは話をしたものの、約束したとおりソフィアの名前は口に出さなかったのかもしれない。
「おはよ、エレナ」
直前までエレナについて悩んでいたせいか、ソフィアが出した声はどこかぎこちなかった。なんでもないように振る舞おうとするほど、本当に自分は自然な言動ができているのかと不安になる。
「櫛、作れるようになった?」
エレナの問いに、ソフィアは首を横に振った。今日の髪が綺麗に整っているのは、ソフィアが昇天しかけた騒ぎの後に、ゲイルがヘアブラシを作ってくれたからだ。
「ううん、まだ全然。あ、でもね、物を動かす練習はしたわ。昨日ゲイルが酒場に連れていってくれて、ウィジャボードを使ってお店の人と話をしたの」
「へえ、楽しそう。私もいつか酒場に行ってみたいな」
言いつつ、エレナは念糸で櫛を作るとソフィアの後ろに腰かけた。こうしてソフィアの髪を梳くのは、エレナの日課になっているのかもしれない。
「ソフィアちゃん、生きてた頃は酒場に行ったことある?」
「ううん、ないよ。昨日初めて行っちゃった。エレナは?」
「私も行ったことないの。楽しい場所って聞くけど、どんなところなのか想像もつかないわ」
「なんかね、すっごく騒がしかったわ。でもお祭りみたいで楽しかった!」
エレナのいつもとなんら変わりない様子に、ソフィアはほっとした。
「今度はエレナも行こうよ。ゲイルが一緒なら、きっと大丈夫だから」
「私が行ってもいいの? 二人の邪魔にならない?」
「そんなことないよ。エレナもいたら、きっともっと楽しいよ」
三人で酒場に行ったときの様子を、ソフィアがぼんやり想像する。
瞬間。
「っ!」
首に無数の糸が絡みついた感触がしたと思った直後、凄まじい勢いで絞め上げられた。いつも鏡代わりにしている屋根裏部屋の窓に映った光で、それが念糸だと分かる。
「ねえソフィアちゃん」
エレナの声が耳元で聞こえた。
「なんで私のこと喋ったの?」
エレナの声は、いつもと変わらぬ優しい音だ。
「あの神父様はソフィアちゃんの話をしなかったけど、ちょっと考えたら誰が私について喋ったかすぐ分かるわ」
「それ、は……」
わざとではない。たまたま偶然が重なった結果なのだと伝えたい。だがきつく絞められる喉から、声がうまく出てくれない。死んでしまっても、喉が使えなければ声が出せないのだ。
息をする必要などないはずなのに、まるで生前のように苦しい。
エレナの念糸を剥がそうとするものの、細い念糸は爪に引っかかってくれない。ソフィアの爪は、己の喉を引っ掻くだけだった。
「あの神父様は見るだけにするって、約束したじゃない」
エレナの声は、ソフィアの首を絞めていると思えぬほど柔らかい。
ソフィアの視界では、白黒の点がいくつも明滅していた。晴天が広がるはずの景色が、もうまともに見えない。
「私、卑怯者は嫌いなの」
ひどい耳鳴りで、エレナの声が聞き取りにくい。
「私ね、こうして首を吊って死んだの。苦しいでしょ、ソフィアちゃん?」
まるで子供をあやすように、エレナがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「早く楽になりたいでしょう? 私も、とても苦しかったんだ。こんなに苦しいだなんて思わなかった」
意識を手放してしまえば楽になるとソフィアは考えたが、エレナがそれを許してくれない。ソフィアの意識が遠のきそうになるたび、念糸で首を強く絞め直すのだ。
いつになったら、この苦しみは終わるのか。
抵抗する力を失ったソフィアの両手が、だらりと垂れさがる。涙が止まらないが、もうそんなのソフィアにはどうでもよかった。
「ふふっ、私もいろんなものを垂れ流して死んだのよ。……ねえ、ソフィアちゃん」
エレナがそっと囁く。
「もう絶対に、裏切らないでね」
「ご、ご……め……」
「ごめんなさい」と一言伝えたいのに、もうソフィアの口からまともな言葉など出てきてはくれなかった。せめて頷きたいが、体の隅々まで重たい痺れが広がっていて、思うように動けない。ならばと心の中でひたすらエレナに謝るが、ぼんやりとする意識の中ではそれすら難しくなってきていた。




