第3話
「そういやエレナ、おまえ昨日は大丈夫だったか?」
いつの間にか屋根に寝転がるような姿勢になっていたゲイル。彼の声に、ソフィアの意識は呼び戻された。背後でエレナが頷く気配がする。
「うん、このとおり平気よ。町は騒ぎになってるみたいだけど……」
既に死んでいるとはいえ、自分が住む町での物騒な事件となれば他人事ではいられないのかもしれない。エレナの声がわずかに沈む。
「そういえばなにかあったの?」
「『霧の悪魔』が出たんだと」
のんきなソフィアの問いに答えてくれたのは、ゲイルだった。
「前に話しただろ? 濃霧の夜にだけ出る、連続殺人鬼の話」
「……う、うん」
「おまえなあ……。俺が話してからまだ三日しか経ってねえぞ?」
ゲイルの声が、明らかな呆れの色に染まる。それでも彼は、ソフィアの為に話を続けてくれた。
「ノルンには、濃霧の夜に住人を襲う殺人鬼がいるんだよ。死体の姿はそりゃあひでえって噂だぜ」
「でも襲われるのって、生きてる人間だけでしょ?」
「正体が分からねえから、なんとも言えねえな。領主の呪いって噂もあるくらいだ」
とにかく、とゲイルの視線がエレナへと移る。
「生きてた頃からここに住んでたエレナは、気をつけといたほうがいいと思うぜ」
物体をすり抜ける死者とはいえ、生者に手を出す方法がないわけではない。そして生者も一部の人間ではあるが、死者に直接干渉できる者がいる。もしも『霧の悪魔』が死者か、死者に干渉できる生者だった場合は、エレナも標的になりうるとゲイルは伝えたいようだ。
しかし当のエレナはというと、怯えるどころか興奮気味に言葉を発した。
「『霧の悪魔』事件が起こり出したのはシグムント様が就任してからっていう理由だけで、シグムント様が呪われているって言う人たちがいるのよ。シグムント様はとても優しい領主様なのに、ひどいわ」
「そんなに優しい人なの?」
「ええ、それはもう」
ソフィアの問いに、エレナの声が弾んだ。
「私がお屋敷で働けるように先代の領主様に口利きしてくれたのが、今の領主のシグムント様なの。とっても優しくて領民思いの方よ。『霧の悪魔』についての言いがかり以外、悪い話を聞かないわ。まだお若いのに、凄いでしょう?」
エレナの話しぶりからするに、彼女にとっては相当自慢の領主らしい。
「シグムント様は町へ出られることも多いから、ソフィアちゃんもそのうち見かけると思うわよ」
「領主様って、そんなに頻繁に町に出るような仕事なの?」
「ここの領主様は特別かな。代々領内の騎士団長を兼任してらっしゃるから、こういう事件が起きたときは町の警備にもあたってくださるの。夜間の見回りに参加されることもあるわ」
そういえば、とエレナが思い出したように続ける。
「シグムント様がエクソシストを要請なさったんですって。お屋敷に泊まっていただくからって、メイドたちが客室の用意をしてたわ」
エクソシスト。
セーフェル教徒ならば、直接見る機会はなくとも存在すると皆が知っている。退魔に特化した司祭のことだ。悪霊や悪魔と戦う術を持つというエクソシストが出てくるからには、いよいよ『霧の悪魔』が生者以外であるという可能性も視野に入れ始めたという証だ。
エレナの言葉を引き継いだのは、ゲイルだった。
「エクソシストが来るってんなら、ソフィアも身だしなみくらいはちゃんとしとけよ。教会付きの司祭と違って、いつどこで会うか全然分からねえんだから」
「はぁーい」
ゲイルの忠告に、ソフィアが気だるい返事をする。そんな様子に、ゲイルは残念そうなため息をついた。
「やる気ねえ返事だなあ。ちったあエレナを見習えよ。おまえとそう年は変わらねえのに、毎日綺麗にしてんだろ」
「そんなこと言われても。だいたいエクソシストって聖職者でしょ? 聖職者って、皆おじさんとかおじいさんばっかりじゃない。そんな人たちに見られるかもって思ったところで、全然やる気なんて起きないわよ」
ソフィアの故郷にも当然教会があるので司祭がいたが、ソフィアが物心ついた頃から既に老人だった。今まで旅の途中で見かけた者たちも、皆ごく普通の中年や老齢の者ばかりである。
悪霊などと戦うからには肉体労働のイメージが強いエクソシストといっても、所詮は聖職者。おそらくいいところ中年男性だ。
今までの経験からして、聖職者という職業に面食いのソフィアを刺激する要素は皆無だった。
「おまえなあ……。ひでえ見た目で出会って悪霊と間違われても知らねえぞ」
ゲイルのそんな言葉に、エレナの愛らしい笑い声が重なった。
「自分を守る為にも、恥ずかしくない程度に社会性は保っておけよな」
「はいはい。お爺ちゃんは話がくどいねえ、エレナ」
「だから俺はそんなに年じゃねえから! 自国以外の情勢も知っとけ!」
ソフィアのからかいに敏感な反応を見せ、ゲイルが飛び起きる。
だが田舎の村だけで短い一生を終えたソフィアに、外国のことまで知れというのは無茶な話だ。
「ソフィアちゃん、できたよ」
「ありがと、エレナ」
ソフィアが大きく伸びをする。エレナが丁寧に梳いてくれたはしばみ色の長い髪が、さらさらと軽やかな音を立てて揺れた。
たとえエクソシストが来ようが、そもそも事件に無関係のソフィアたちには縁のない話だ。ソフィアとゲイルはノルンの住人ではないし、エレナも特に用事がなければほとんどの時間を領主の屋敷で過ごしている。『霧の悪魔』が生者以外の者だとしても、エクソシストが直接死者に干渉できる力を持っていても、自分たちには遠い世界の話のように思えた。
屋根から見下ろした町の通りは、相変わらず暗鬱とした空気が垂れこめている。夜の濃霧のように重苦しいそれは、事件が解決しないかぎり消えはしないだろう。
だがそれも、ソフィアたち死者にはまったく関係のない話である。
生者の憂いなどどこ吹く風。今日も死者たちの時間はのどかなものだった。




