第2話
二階建ての宿屋の屋根から身を乗り出して通りを見下ろせば、そこを行く人々の顔は例外なく緊張と怯えに彩られていた。燦々と降り注ぐ優しい陽光とは真逆の、暗鬱とした空気がそこかしこに立ち込めている。
幽霊である自分の姿はどうせ誰にも見えないのだからと大あくびをしつつ、ソフィアは道端の会話に聞き耳を立て続けた。
どうやら昨晩誰かが、『霧の悪魔』とやらに殺されたようだ。たしかソフィアの連れであるゲイルから、この町に来たときに『霧の悪魔』について教えてもらったような気がする。
けれど気がするだけで、ソフィアはそれがなんなのかすっかり忘れてしまっていた。簡単に忘れてしまうくらいなのだから、自分には直接関係ない話だろう。そう思うことにする。
死んだのは見ず知らずの他人のようだが、とりあえずソフィアは「お疲れさまでした」と心の中で呟いた。
死ぬときは誰だって、多少は痛かったり苦しかったりするだろう。殺されたとなれば、なんだかんだ相当混乱したはずだ。『霧の悪魔』の被害者は完全に赤の他人ではあるが、まずはゆっくり落ち着いて霊としての生活に慣れて欲しいというのが、ソフィアの考えだ。
速やかに昇天できた場合は、そんな心配も無用だが。
崖から落ちて死んだソフィアは、霊としてこの世に留まってしまった。理由はなんとなく分かっている。双子の妹であるカチュアを心配しすぎたせいもあるかもしれないが、それ以上に重大な原因は墓標の名前が『カチュア』になっていたからだ。
気弱な妹は、崖での出来事を言い出せなかったようだ。そして外見がよく似ている双子を、周囲の人間が間違えたらしい。
墓標が他人のものであれば、ソフィアがこうして現世を彷徨っているのも頷ける。
ソフィアたちアルカナ神聖国民が信仰しているセーフェル教の聖職者は、目と耳に魔力を宿している。その為死者の姿が見えるし、その声も聞こえる。
昇天したいのならば故郷の村の老司祭に頼んで墓標を修正してもらえばいいのだが、ソフィアはそれをしなかった。
そんなことをしたら、カチュアの罪がばれてしまう。
それに今現在カチュアが『ソフィア』として扱われているとしたら、カチュアがフレデリックと夫婦になれる。
自分が『カチュア』の名で葬られたまま彷徨うのは、しょうもない嘘をついてカチュアを傷つけてしまった己ができる唯一の償いのような気がしていた。
死後に故郷の村を離れる決意をしたのが、一年ほど前。そうして旅を続けてつい三日前に到着したのが、この山間部の盆地にあるノルンの町だった。
「すげえ髪型だな、おい」
けらけらと無遠慮な青年の笑い声が聞こえて、ソフィアは気だるげに首を動かした。
視線の先に捉えたのは二十代半ばほどの男、ゲイルだった。ざっくり切った短い黒髪に青い瞳、軽鎧姿の彼は、健康そうに日焼けをしている。半袖から覗く腕の筋肉は、ほどよく引き締まっていた。
墓前で立ち尽くしていたソフィアに色々教えてくれて、旅に誘ってくれた霊がこのゲイルだ。遠慮なくあれこれ言ってくる性格だが、そのおかげでソフィアも変に気遣いをせずに済んでいる。
彼を、ソフィアは少し年上の友達として見ていた。
ゲイルは生前傭兵だったらしいが、ソフィアが生きている間に戦争の話など聞いた覚えがなかった。ソフィアには享年二十五歳と教えてくれたゲイルは、いったいどれほど前に死んだ霊なのか。
そんな彼は青い瞳で、愉快そうにソフィアを見てくる。
「最先端のおしゃれか? 似合ってるな」
「別にいいの。誰かに見られるわけでもないし」
そうは言いつつも、ソフィアは近くにあった屋根裏部屋の窓を覗いた。そんなソフィアの体が、青白い光で包まれる。
光の正体は、ゲイルが指先から伸ばした無数の細い糸だった。髪の毛のように細いそれは、思念の集合体である念糸だ。それに包まれると、霊の姿も窓や鏡に映り込めた。今覗いている窓にも、ゲイルに笑われたソフィアの姿が映る。腰まで伸びたはしばみ色の髪はもじゃもじゃと絡み合い、同じ色の双眸は起きたてのせいか半開きだ。
いくら人に見られないからといっても、さすがにこれはひどい。ゲイルに笑われても仕方なかった。
なぜか霊になっても、寝癖はつく。霊体は常にふわふわ浮いているし物をすり抜けるのに、不思議なものだ。
ヘアブラシなんて持っていないので、ソフィアは手櫛で寝癖を直そうとした。しかし元々が大雑把な性格なので、ざくざくと梳く髪が綺麗にまとまる様子はない。
「だから念糸で物作る練習しとけっていったじゃねえか」
「だって難しいんだもん」
念糸をしまうゲイルに、ソフィアはわずかに頬を膨らませた。
死者が出せる念糸は周囲に干渉できる他に、糸同士をより合わせて様々なものを作り出せる。ゲイルが何度も見せてくれたので、ソフィアもそれを知っていた。
しかしソフィアは飽き性なせいか、念糸がうまく操れない。大雑把で飽き性という性格が表れてしまうのか、ソフィアが出せる念糸はゲイルたち他の死者とは違っていた。
通常の死者は全ての指から髪の毛のような細い念糸を大量に出せるのに、ソフィアはパスタのような太い糸が人差し指の先からちょろりと伸びるだけで、なんの役にも立たない。
ゲイルが言うように毎日真面目に練習していたらヘアブラシの一本でも作れたかもしれないが、今更だった。
そんなソフィアの髪に、櫛が入る感触があった。
「ソフィアちゃん、おはよう。髪梳いてあげるね」
「エレナ! ありがと」
櫛の主は、ソフィアとそう年齢の変わらなそうな少女のエレナだ。このノルンの町に来てからできた、幽霊の友人だった。
生者は生者同士触れ合えるように、死者も死者同士自然と触れ合える。念糸をうまく操れないソフィアの不器用ぶりを知ったエレナは、毎日ソフィアの髪を梳きにきてくれていた。
生前は領主の屋敷でメイドをしていたというエレナは、いつ会ってもメイド服に長く茶色いおさげ髪と身だしなみが整っている。ソフィアとは比べようもないほどのしっかり者というオーラがふんわり漂っていた。
「ソフィアちゃんの髪、綺麗でいいなあ。とても柔らかくて、梳くたびにきらきら光るの。羨ましい」
髪を梳いてくれるエレナの声は優しい。
「本人はヘアブラシ一本作れねえから、ほっとくといつもぼさぼさだけどな」
「うっさいわねゲイル」
けらけらと笑うゲイルを、ソフィアは軽く睨みつけた。
なにかとソフィアをからかうゲイルだが、エレナと出会うまでいつもヘアブラシを念糸で作ってくれていたのは彼だ。態度とは反対に、かなり面倒見がいい。ゲイルのおかげで、ソフィアは旅の間に困ることはなかった。
「エレナは身だしなみがちゃんとしてて偉いよね。髪、いつも編んでるの?」
「たまに編み直すかな。癖毛だから、放っておくともじゃもじゃになっちゃうの」
エレナの茶色く長いおさげ髪は、メイド服によく似合っている。彼女の動きに合わせてゆらゆら揺れるそのおさげ髪が、ソフィアは好きだった。
ソフィアの髪を梳いてくれるとき、エレナはまるで姉のように感じられる。それと同時に、妹のカチュアが懐かしくなった。
だがソフィアがカチュアの髪を梳いたことはない。むしろカチュアがソフィアの髪を梳いてばかりたったし、女らしいといわれることは母親に任せきりだった。
父と共に積極的に畑へ出る方が性に合っていたソフィアがさほど色濃く日焼けをせずに済んだのは、カチュアがスキンケアをしてくれたからだ。
どちらが姉なのか分からないな、とソフィアは自嘲する。
もしかしたら、生まれてくる順番を間違えたかもしれない。
順番が逆だったら、運命は変わっただろうか。フレデリックはカチュアに求婚して、自分は今年もいつものように小麦の収穫を終えて夏を迎えていたかもしれない。




