第1話 ソフィア
ルドベキアの花の鮮烈な黄色が彩る森の中を、先日十七歳になったばかりの妹とじゃれ合いながら駆ける。ソフィアと瓜二つの双子の妹のはしばみ色の長い髪が木漏れ日に煌めき、髪と同じ色をした大きな瞳が楽しげにソフィアを見てくる。
ややあってソフィアと妹のカチュアが到着したのは、エルディア村を一望できる崖の上だった。夏の強い日差しはあるが、青空を渡る涼風が心地いい。
妹とお揃いの青いエプロンドレスの裾が、風に大きく躍った。急峻な崖の下には、スカートの中を覗くような不届き者などいるはずもない。
風に吹かれるまま、ソフィアは大きく息を吸い込んだ。農作業後の疲れが、風に乗って飛んでいくようだ。
この崖から村を一望するのが、ソフィアのお気に入りの時間である。まるで鳥になったかのような自由な気分を味わえるのだ。
それも、あと少しの楽しみなのだが。
結婚が決まっていた。
相手は幼馴染のフレデリックだ。
もっとも、幼馴染といってもフレデリックは一応貴族である。エルディア村に彼の一家が所有する別荘があり、毎年家族で避暑に訪れるのだ。ソフィアの父がその別荘の庭師をしていたのがきっかけで、幼い頃からフレデリックと遊ぶようになった。そして気づけば結婚という話にまでなっていた。
フレデリックは「僕の家はとても小さいけれど」などといつも言っていたが、ソフィアたちからすれば貴族様。充分裕福な生活だ。そんないい条件を備えた温厚なフレデリックからの求婚は、本来ならばなんの問題もない。
ただひとつ。
ソフィア自身が、フレデリックを異性としてまったく意識していない点を覗いては。
だが周囲の人々にとって、そんなソフィアの気持ちなど些細なものらしい。ソフィア本人の意思を置き去りにして、あれよあれよという間に話はまとまり、今に至る。
もうすぐ今年も、フレデリックが避暑の為に村へとやってくる。今年は彼が町へ帰るとき、式の準備の為にソフィアが同行する約束をしていた。
憂鬱さを振り払うように、ソフィアは崖の淵に立って村を眺めた。すっかり見慣れた景色だったが、今こうしているときだけは、自分は誰かのものではなく、自分自身のものなのだと強く感じられた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
隣に気配を感じるカチュアに、声だけ返す。
「お姉ちゃん、フレデリックのこと、好き?」
カチュアの言葉にどきりとした。
心を見透かされたような冷え冷えとした恐れが、ソフィアの中を流れ落ちる。
自分が本当はどう思っているのか、話すべきか。
けれども、なんでも言い合える仲のいい双子とはいえ、言っていいことと悪いことがある。
ソフィアがフレデリックを愛していないという秘密は、墓の中まで持っていくべきだ。そうすれば、全てが丸く収まるのだから。
ならば、カチュアへの返事は決まっている。
「好きよ」
たった三文字の言葉なのに、ソフィアの声は強張っていた。それでもなるべく平静を装う。
「私は、フレデリックを、愛してるわ」
自分に言い聞かせるように、呟く。
そうして見やった隣のカチュアは――ぼろぼろと泣いていた。
「お姉ちゃんの嘘つき!」
「っ!」
悲鳴にも似たカチュアの声に続いて、ソフィアは体が押されるのを感じた。
よろめいたソフィアの体が、ふわりと崖から飛び出す。
自分と同じはしばみ色の瞳を見開いて、カチュアが手を伸ばしてくる。だがそれは、ソフィアには届かない。
ああ、この結婚にはもうひとつ問題があったのだな……と、ソフィアは初めて気がついた。
どうやらカチュアは、フレデリックが好きらしい。
ならばなぜ神という存在は、フレデリックにソフィアを選ばせたのか。彼がカチュアを選んでくれたら、相思相愛の夫婦としてなんの問題もなく収まったはずなのに。
ソフィアは生まれてこのかた、セーフェル教徒として大きな過ちは犯していないつもりだった。しかしもしかしたら、無意識のうちになにか神に嫌われるようなおこないをしたのかもしれない。
どうか、カチュアが誰からも責められませんように。
カチュアが、単なる事故と言ってくれますように。
カチュアはソフィアと外見こそ瓜二つだが、気が弱くておとなしい。そんな妹についてのこれからの心配ばかりが、ソフィアの心を満たしていく。
本当に、自分はフレデリックにこれっぽっちも興味がないらしい。
カチュアと目が合ったような気がした瞬間。
ソフィアは、微笑んだ。
* * *
「ふぁっ!」
体が落下するような感覚に、ソフィアは思わず飛び起きた。もう実物として存在するはずのない心臓が激しく脈打つような錯覚に、思わず息が荒くなる。
眼前に広がるのは、すっかり高くなった秋の空だ。朝日も夏の突き刺すような眩しさはなく、柔らかな日差しが緑色の瓦屋根に降り注いでいる。実に天気のいい朝だった。
宿屋の空きベッドで寝ていたはずなのに、どうやら寝ている間に体が浮き上がって天井をすり抜けてしまったらしい。まるで宿屋の屋根で昼寝をしているような状態になっていた。
死んでも寝相の悪さは治らない。起きたら別の場所にいたなんてことは、珍しくなかった。まだ宿屋の敷地内で目を覚ましただけましだ。
ソフィアはそもそも幽霊なのだから、定期的に眠らずとも問題はない。しかし夜中に起きていても、特に面白いことがないのだ。夜遊びを覚える前の十七歳という年で死んだのだから、当たり前だ。そんなソフィアにとっての夜は、無駄に起きているくらいなら、空いている心地よさそうなベッドの上に浮いて惰眠を貪る方がはるかに有益だった。生前も昼寝は大好きだったので、いくらでも眠れる。
気持ちが落ち着いてくると、ソフィアは呼吸の必要もないとやっと思い出した。もう死んでいるのだから、息をせずともこれ以上死なない。
それでもため息をひとつつくと、ソフィアはその音に気づいた。
なにやら街の通りから、ひそひそとした話し声が聞こえてくる。それも一人二人ではない。まるで耳障りなさざ波のように、その声たちはソフィアの耳にまで届いてきた。
たとえなにが起きても自分には関係ないが、聞こえてしまえばついつい耳をすませてしまう。
「ねえ聞いた? また出たらしいわよ」
「三年前にこの町から引っ越していったやつだってさ」
「この町に一度でも住んだからには、『霧の悪魔』からは逃れられないってか」
「なにも悪いことしてないのに」
「なんでこんなことになったんだ」
「きっと領主様のせいよ」
「あの方は呪われているんだ」
聞こえてきたのは、なんとも物騒な会話だった。




