第29話 ある女の思い出
「僕、助祭を目指そうと思うんだ」
エドワードのその一言は、私を絶望させるのに充分だった。
教会の鐘が高らかに鳴り響き、新たな領主の就任を街中に報せている。
先代が病死し、息子のシグムント様が新たな領主になったのだ。昨日のうちに屋敷で話を聞いていたから、私はそれを知っていた。
シグムント様は、エドワードと同年齢くらい。淡泊そうだけど、親切な心の持ち主だと私は知っている。私がこの屋敷で働いていられるのは、シグムント様が味方してくれたおかげなのだ。
そんなシグムント様が領主になるという報せは、私の心に未来への希望というものを抱かせてくれた。これからきっとなんでもうまくいくというような、根拠のない喜びを感じるほどに。
それほど晴れやかな気分になっている日に、なぜエドワードはそれを打ち消してしまうような話を持ち出すのか。まったく理解できなかった。
「助祭って、助祭って……ねえエドワード、それ、本気?」
うまく言葉が紡げない。自分の口が会話を拒否しているかのように、重かった。問いかけたのは私だけれど、この先のエドワードの言葉を一言だって聞きたくない。
「本気だよ。何度も考えた」
エドワードの表情はいたって真面目だ。
彼はたちの悪い冗談を言うような性格ではない。だから今回も本気だと、私は頭では分かっていた。でも頭が理解しているからといって、心が追いつくかは別問題だ。
エドワードは、いつからそう考えていたのだろう。
助祭になるという考えを胸に、何度私と会っていたのだろう。
彼の言葉を理解したくないと、心が悲鳴を上げる。
だって助祭になるということは……
「エドワード、あなたが助祭になるってことは、私たち結婚できないってことなのよ?」
私は、彼に、捨てられるということだ。
この納屋で頻繁に会うようになってから、私はエドワードだけには心を許してきた。
いや、心だけではない。
「私」というもののほとんどを、彼の前にさらけ出した。
この屋敷に来た目的を捨ててもいいとさえ思い、彼の言葉ひとつひとつに酔いしれ、いつか彼と結婚するのだという夢を見た。
幸せな家庭を築いて、二人仲良く年老いていけると信じていた。
けれど今の彼は、私に甘い夢を見せてくれたのと同じ口で、声で、私から未来を奪おうとしていた。
「僕、教会でお世話になってるって前に話しただろ?」
エドワードの声は聞こえているのに、その言葉が頭に沁み込んでくれない。まるで異国の言葉を聞いているような気分だった。
「それでずっと考えていたんだけど、助祭になっていろんな人を救う手伝いができたらいいなって思ったんだ」
彼の言葉をなんとか強引に飲み込めば、それは私の心の柔らかい部分に容赦なく突き刺さる。
「ずっと……考えていたの?」
「うん」
「それって、どれくらい前から? ねえ、どれくらい前からそんな考えをしてたの? そうやって考えながら私と会うのは、楽しかった?」
「それは……それとこれとは、別のところで考えていたんだよ。きみと会っているときは、きみだけに夢中になって過ごしていた。嘘じゃない」
「別のところで」とは、いったいどういうことだ。一度噴き出した黒い感情が、胸の中で渦を巻く。広がっていくその感情を止められない。
「きみはもちろん大切だよ」
「じゃあ、どうしてそんなこと言うの?」
エドワードが私をなだめようとしているのは、すぐに分かった。私自身、落ち着いて話さなければと感じている。
しかしそんな理性を吹き飛ばすほどの悲しみと怒りに、私は支配されていた。
「私が大切だって言うなら、なんで傷つけるの!」
よりにもよってこんな晴れやかな鐘の鳴る日に、地獄に叩き落とすような話をしなくてもいいではないか。
……いや、そもそもいつ言われたとしても、こんな話耐えられない。
エドワードは私と会っている間しか、私を見ていてくれていなかった。私と会っていない時間は、彼は私のいない未来を思い描いていたのだ。
私はエドワードと会っていない時間も、彼との未来を想像していたのに。
私の幸福感は、エドワードに与えられたお遊びの感情だったというわけだ。そんなものにすがって救われたような気持になっていた自分が、ひどく馬鹿らしかった。
「落ち着いて、エレナ」
「触らないで!」
エドワードが肩を掴もうとしてくるが、彼の指先にすら触れられたくなかった。心から愛しいと思い肌を重ねたという現実をなかったことにしたいけれど、体に刻んでしまった事実は無にできない。
助祭になると言われるくらいなら他の女に取られる方がまだましだった。私では物足りないなにかを満たせる相手が見つかったのだと泣き、捨てられたと安易に恨み、そして心の傷が癒えた頃に別の誰かを愛したらいいのだ。失恋から立ち直ったら、本来この屋敷に来た目的を再び目指すのもいい。
そう、私にはひとりで立ち上がれるようになるまでの時間と手段が与えられるのだから。
しかし助祭になるというのは、私という存在は不要だと言われているようなものだった。
あんなに愛を囁きあった日々は、エドワードにとって単なる暇潰しだったと言われているのと同じだ。
いや、事実彼はそう言っている。少なくとも私には、彼の宣言はそうとしか聞こえなかった。




