第28話
男の顔が苦悶に歪む。
無意識に伸ばしてきたであろう男の手を、ウィッテンは掴んだ。男の手が強く握り返してくる。
分かる。まだろくに麻酔も効いていないのに、意識があるままこれほど大きな傷を縫われるのは、とにかく痛い。地獄のような時間だ。だが今彼が助かるには、ここでエリオに処置をしてもらうしかない。
ウィッテンは心の底から男に同情した。
だが同時に、施術してくれるエリオにも心から感謝をする。ウィッテンだけでは、目の前の男を助けられないのだ。いつも負傷者を助けてくれるエリオの存在は、ウィッテンにとって大きかった。
「『霧の悪魔』の姿は見ましたか?」
「見……たよう、な……」
男が呻く。
「大男みたい、なのに、若い女の声、で、アルウィン・リザックを……知らないか、と……」
男の両目には、今にもこぼれんばかりの涙が浮かんでいた。泣き喚いてもいいどころか暴れて押さえつけられてもいいくらい痛いだろうに、それを我慢できるほどこの男の精神はタフなようだ。だが『霧の悪魔』につけられたであろう傷と、それをエリオが容赦なく高速で縫う痛みという二つが生み出す苦悶の時間が男を疲弊させているのは明らかだった。
「しっかりしてください」
ウィッテンが男の手を強く握る。ウィッテンの手を握り返してくる男の力は、徐々に弱くなっていく。
「それで、どうなりましたか?」
「知らないと言ったら、斧で、斬りかかってきた」
どうりで傷口が大きいわけだ。ウィッテンの得物はレイピアだ。相性が悪いなと、ウィッテンは心の中で呟いた。
男が呻きながらも、懸命に言葉を紡ぐ。
「避けようとして、よろけて、脚を……」
「さあできたよ! 頑張ったねえ、偉いよきみ!」
恐るべき速度で処置を終えたエリオが、男の肩をぽんぽんと叩く。
ウィッテンは最近まで、エリオが患者を褒めるこの行動は彼の癖だと思っていた。だが違っていた。患者を元気づけているつもりだと、エリオ本人から聞いた。普段は容赦なく毒づくときもあるエリオだが、こういう一面を見ているとやはり医者らしいなと感じる。血で汚れたエリオの白い僧衣が、誇らしく思えた。
「明日になったら、ちゃんと町の医者に診てもらうんだよ?」
使っていた道具を片づけながら、エリオが男に言い聞かせる。
「誰か、彼を家まで送ってあげてください」
シグムントの声に、周囲にいた騎士団員たちが動き出した。一緒に見回りをしていたという騎士団員が、率先して男を背負う。
「他の者は、周囲に犯人がいないか捜索を。決してひとりにならないように」
残った騎士団員たちに、シグムントがてきぱきと指示を出す。
「ああ、それからきみたち」
シグムントが二人呼びつけた。
「申し訳ないけれど、ここの血を洗い流しておいてくれないかな」
「了解しました」
確かにそのままにしていては、明朝この惨状を目撃した住民から更なる不安の波が街中に広がるだろう。今夜でさえ、もし起きていたら男の悲鳴で精神的に不安定になっているかもしれない。シグムントの指示は妥当なものだとウィッテンは思った。
「ねえ、ちゃんと騎士団長してるんだね」
エリオが小声で呟く。
「領主兼騎士団長ってどうかなと思ってたけど、なかなかのもんだ」
「エリオ、言い方に気をつけてください」
「はいはい」
エリオの声はウィッテンにしか聞こえていないだろうが、念の為注意を促す。
「ところでウィッテン」
鞄の口を閉めながら、エリオが心配そうな声をかけてきた。
「きみ、明日はミサの日だよ。寝なくて大丈夫?」
その問いに、ウィッテンはすぐに頷いた。
「それは心配ありません。『霧の悪魔』を捕まえられるチャンスかもしれないので、このまま見回りを続けましょう」
「今夜の『フェルベルト神父』はご延長ってわけか」
エリオが苦笑いを浮かべる。
「僕はもう眠くて仕方ないけど、きみをひとりにするわけにはいかないからね。つきあうよ」
「明日のミサ、寝ててもいいんですよ?」
「きみがそんなこと言うなんて珍しい」
「冗談です」
「だよねー」
眠そうなエリオには申し訳ないが、今は犯人捜しには絶好の機会だ。
どうせミサが始まってしまえば、エリオはどうにかして起きているふりをしながら寝る。エリオは篤い信仰心からこの道を選んだわけではない。だからといってミサの最中に寝るなど許されないが、エリオはそのへんはうまくやれるタイプだ。
それにもし居眠りがばれても、ウィッテンのせいで夜更かしさせたのだから自分が謝れば済む話である。エリオの為にならば、頭などいくらでも下げるつもりだ。それだけでエリオとコンビを解消せずに済むなら、それでいい。
もし今夜のうちに事件を解決できたら、次の休みはエリオを好きなだけ寝かせてやろうとウィッテンは思った。いつもなんだかんだウィッテンに合わせてくれるエリオに、たまにはのんびり過ごして欲しい。
エリオは彼が率先してくれているとはいえ、家事のほとんどをこなしてくれている。それに加えて医術を修めた助祭として大聖堂の診療所でも働いているし、ウィッテンに同行してあちこち出かけている。疲れないわけがない。
「では、私たちも行きましょう」
シグムントがウィッテンへと向き直った。見るからにやる気に満ちている。うまくいけば根も葉もない噂を消せるのだ。それに騎士団長としては、団員の仇も討てる。彼のやる気に火がつくのも頷けた。
先ほどまでのように、シグムントが先導する形で濃霧の中を歩き出す。獲物をしとめ損ねた『霧の悪魔』が己に喰らいつくのを期待して先を行く背中は、頼もしささえ感じられた。




