第27話 ウィッテン
ノルンの濃霧は想像していた以上に深く、周囲を真っ白に塗り固める。すっかり人通りの絶えた路上では、ごくたまにすれ違う見回りの騎士団員同士も、軽鎧が擦れる音や足音がなければ突然目の前に出てきたと驚きそうになるほどだった。
街灯の光もぼんやりとしていて、エリオが持ってくれるカンテラが貴重な光源だ。
予想以上の濃霧のせいで、少しだけ先を歩くシグムントの姿も見えにくかった。集中していなければ、見失ってしまいそうになる。
シグムント自身の案とはいえ、彼を囮のようにして歩かせるのは心が痛い。仕方ないのだが、多少の情けなさをウィッテンは感じていた。
住民ではないウィッテンでは、『霧の悪魔』をおびき寄せられない。
せめてなにかあったときはすぐに助けられるようにと、気を張る。それにその為に、エリオがカンテラを持ってくれているのだ。いざというときに思うように身動きが取れなければ、自分がいる意味などない。
エリオはいつもあれこれと荷物を持ってくれるが、それはウィッテンが動きやすくなるようにと考えてくれるからだ。エリオの苦労に報いたいという理由も、ウィッテンが気を張る理由だった。エリオは今でも付き人として自分をサポートしてくれる。ならば自分も主人としてそれに応えなければと感じるのだ。
正体不明の『霧の悪魔』を、霊たちも警戒しているらしい。エリオと酒場巡りをしていた時間帯はあちこちに楽しげな霊がいたのに、今はひとりも見かけない。
もし『霧の悪魔』が悪霊や悪魔の類であれば、ノルンの住人だった霊たちだって危ないのだ。生者同様に死者が隠れるのは当然だった。
死者が犠牲になった場合、普通の生者と違って気づかれる確率は低い。なんせ普通の生者には、死者の姿が視えないのだ。それに生者と違って、死者はある日突然いなくなる。昇天したのか、他の町へと移動したのか、それすら不明というのが大半だ。
ゆえに『霧の悪魔』の手にかかった霊がいるかどうかというのは、まったく分からなかった。
前を歩くシグムントの気配を気にしつつ、周囲に倒れている霊がいないか視線を巡らせる。
霊は消滅する以外に、「死」に近い状態がない。もし犠牲になった霊を見つけられたら、それは『霧の悪魔』の目撃者だ。重要な証言を得られるかもしれない。
もちろん犠牲になった霊にとってはたまったものではないが、事件の解決に向けて少しでも情報が欲しかった。
時刻はとっくに日付をまたいでいる。
今夜はなにも起こらないかと思えた、そのとき。
鋭い呼子笛の音が、かすかに聞こえた。
見回りの騎士団員たちが持っているものだ。先を歩くシグムントにもその音は聞こえたようで、立ち止まり振り向いてくる。頷きあうと、ウィッテンたちはシグムントを先頭に駆け出した。
見慣れぬ街並みは、濃霧のせいで迷路のようだ。シグムントがいなければ、音の発生元に辿り着くのも難しい。
問題の場所に近づくにつれて、先に駆けつけた騎士団員たちの声や物音が聞こえてきた。濃霧の中、灯りがまとまっている場所がある。騎士団員たちが持つカンテラの灯りだ。
彼らの姿が視認できる距離まで詰めると、数名の騎士団員に囲まれてひとりの男が倒れているのが見えた。
「エリオ」
声をかけ、ウィッテンがエリオからカンテラを受け取る。
エリオはウィッテンに頷いてみせると、人だかりの中に突っ込んでいった。
「はいごめんねちょっと通してー。怪我人かな?」
助祭の中には、エリオのようい白い僧衣の者がいる。エクソシストのパートナーになっている者が多いが、その僧衣は医術を一通り修めたという証だ。エリオの知識と任務に持ち歩く鞄があれば、任務中のたいていの怪我にはすぐ対処できた。
案の定人だかりの中心には怪我人がいるようで、エリオの姿を見た騎士団員たちが道を開ける。
倒れていたのは、騎士団員の男だった。
「あー、これはけっこう派手にいったねえ」
エリオのそんな声が聞こえる。
エリオに追いついたウィッテンが、彼の手元と男の脚を照らす。石畳の血だまりが、ぬらりとした粘り気のある輝きを見せた。
男は脛当てを避けて後ろから狙われたようだ。ふくらはぎに大きな裂傷ができていて、脈打つように血が溢れてくる。
傷が見えるよう彼の衣服を割いたエリオが、鞄の中から取り出した瓶入りの生理食塩水で術野を手早く洗い流し、消毒薬を豪快にかける。
「ごめんね、ちょっと痛いよ」
エリオはこの場で傷を縫合する気だ。ウィッテンも何度か縫われたが、傷とエリオの操る針、どちらのせいでが痛いのかわからなくなるほど痛かった。一応エリオも麻酔は打ってくれるが、急を要する場面ではまず気休めにしかならない。
エリオの手元に影を作らないようカンテラを掲げつつ、ウィッテンが負傷した男のそばにしゃがみ込む。
「なにがありました?」
なるべくエリオの施術から男の気を逸らそうとしたウィッテンだが、その問いに答えたのはそばにいた別の騎士団員だった。
「俺が用を足しに行っている間に悲鳴が聞こえて、戻ってきたら……」
「襲われていた、と」
今度こそ、負傷した男が頷いた。




