第24話
「ああ、今マスターの後ろに隠れている彼女だね」
「あらやだ、気がつかなかったわ」
エリオの言葉に、マスターは笑った。普通の人間ならば霊に体をすり抜けでもされないかぎり存在に気づかなくて当然なのだが、マスターが言うと本当に単なる笑い話に聞こえるのが不思議だ。
「こんばんは、ソフィア」
ウィッテンが気真面目に挨拶をしてくる。それに倣うように、エリオも一応ソフィアに声をかけてきた。
「こ、こんばんは」
まさかウィッテンに声をかけられると思っていなかったので、ソフィアは思わず声が上ずった。恥ずかしさで顔が熱くなる。
「記憶違いなら申し訳ないのですが、昨晩あなたと会いましたか?」
ウィッテンの言葉に、ソフィアはあるはずのない心臓が口から飛び出しそうになった。言葉がうまく紡げず、こくこくと頷くしかできない。「部屋を覗き見していた霊」というよくない印象をどう取り繕うかと悩むものの、気が焦るばかりでいい案は浮かばなかった。
が。
「昨夜はすみませんでした。怖い思いをさせてしまいましたね」
取り繕う必要などなかった。ウィッテンは優しい声色で、ソフィアに対して謝ってくれた。おそらく睨みつけたことを謝ってくれたのだと、ソフィアは考えた。
「いえ、そんな。あたしこそ勝手に部屋に入ってごめんなさい」
「なにか用があったのでは?」
「それが、その、特には……」
単なる好奇心で侵入しただけだ。しかしそんな理由を言えるわけもなく、ソフィアは言葉を濁すしかなかった。
だがそんなソフィアに、ウィッテンは相変わらず優しく微笑んでくれる。
「またなにかあれば、訪ねてきてください。話したいことがあれば、うかがいますよ」
「あ、あの、ありがとう」
まさか優しく対応してもらえるとは思っていなかっただけに、ソフィアはもうどうしていいか分からなかった。こちらとしては、昨夜の行動をあらためて注意されるかもしれないとさえ思っていたのだ。
それが実際に話してみれば、怒られるどころか再訪してもいいと言ってくれるではないか。
喜びを隠しきれないソフィアの体が青白く光る。カウンターの周囲に、ぱちぱちとなにかが爆ぜるような軽やかなラップ音が生まれた。
死者はとにかく感情が表に出やすい。自分ではどうしようもない素直な感情表現に、ソフィアは全身が熱くなるのを感じた。おそらく今自分は、耳の先まで真っ赤になっているに違いない。
今度こそソフィアは、マスターの後ろに完全に隠れてしまった。
「あらまあ、神父様ったらソフィアちゃんになにしたの?」
ラップ音を聞いたマスターが、ウィッテンをからかうように笑う。
「とくになにもしていないのですが……。ですよね、エリオ?」
ウィッテンが困ったように隣のエリオを見やる。
「まあ、きみは無意識になにかしてる場合が多いからね。そういうとこ気をつけた方がいいと思うよ」
「無意識にですか」
「そう、無意識に」
呆れたようなエリオの声を聴きながら、ソフィアはこれ以上ラップ音をまき散らすまいと必死に心を落ち着けていた。
「でもそっかあ。幽霊の先客がいたから、ここにウィジャボードがあったわけだね」
エリオが、元々ソフィアが座っていた席に置かれていたボードを見やる。
怒られるとソフィアは一瞬身構えたが、子供の頃のように叱責されはしなかった。
「そうなのよ。ソフィアちゃんとお話してたってわけ」
マスターもなんでもないことのように言う。
びくつきながらマスターの肩越しにウィッテンをこっそり見ると、彼も特に不快そうな顔はしていなかった。
「……怒らないの?」
思わず問うたソフィアに、ウィッテンは柔らかな微笑みのまま頷いてくれる。
「きちんとした目的があって正しく使われているのであれば、問題ないですよ。死者と交流できる手段のひとつなので、使いたいというのも理解できます。どうぞ私たちに構わず、自由に使ってください」
言われてみれば、子供の頃父に怒られたときは「遊びで使うんじゃない」と言われたような気もする。きちんと理解できれば、怒られる恐怖にこわばっていた心がほぐれていく気がした。
だからといって、勧められるままコインを動かそうという気にはならなかったが。
ソフィアにとって、コイン一枚動かすだけでも相当な集中力が必要だ。ウィッテンがそばにいるというだけで落ち着かないのだから、とてもではないが念糸の練習になどなるはずがない。
結局ソフィアができる行動といえば、マスターの後ろに隠れて少し会話をするだけだった。
カチュアを引っ込み思案などと思っていたのに、自分もいざとなればこの調子だ。なんだかんだそういうところも双子だったのだなと、ソフィアは心の中で笑ってしまった。
好きな人との会話を愉しむには、結局自分ががんばらなければいけない。嫌われたくないという思いがひとつ存在するだけで、ウィッテンとの会話は非常に神経を使う。
でもそれは、決して嫌なものではなかった。
むしろ心の物足りなかった部分を満たしてくれるような感覚がある。
ウィッテンの声を耳にするたびに、心地よい痛みにも似たものが、ソフィアの胸の中に生まれていく。
もっと彼と話したいという素直な欲望と、彼の目に映る恥ずかしさ。その二つがソフィアの中をぐるぐる回る。
誰かを好きになるというのはこんなにも心が満たされるのかと、ソフィアは驚いていた。くすぐったくて温かい感情は、ソフィアが知っていたどんなものよりも気持ちいい。
他人に話したら絶対に変な顔をされるとは思ったが、ソフィアは自分を突き飛ばしたカチュアに感謝の気持ちすら抱いていた。あの事件がなければ、ソフィアはウィッテンに出会うことも、恋をする幸福感を知ることもなかったのだから。
だがそれと同時に、ソフィアはカチュアに本当にひどいことをしてしまったのだと実感した。カチュアはフレデリックに想いを伝える機会すら与えられぬまま、愛していると嘘をつく姉に取られてしまいかけたのだ。「お姉ちゃんの嘘つき!」という最期に聞いたカチュアの言葉が、あらためてソフィアの心に痛みをともなって突き刺さった。




