第23話
触れられそうなほどの距離にまでウィッテンが近づいてきたとき、甘く優しい清潔感のある香りがふわりとソフィアの鼻をくすぐった。やはり美男美女の類はいい匂いがする。ソフィアはつい胸いっぱいに香りを吸い込んだ。
そうしてから、はっと我に返る。
この奇行は、聖職者であるウィッテンには視えてしまう。
「少しお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
だが幸か不幸かウィッテンはというと、ソフィアを気にもしていない様子だった。耳に心地いい美声で、にこやかにマスターへと話しかけている。ソフィアがマスターを見れば、彼はこころなしか嬉しそうに見えた。
「あらぁ、どんなことかしら? なんでも教えちゃうわよ」
マスターが勧めた席に、ウィッテンと助祭の青年が座る。
悲しいかな、ソフィアとウィッテンの間には助祭の青年が座ってしまった。
これではウィッテンがよく見えない。
マスターに姿が視えていないのをいいことに、ソフィアはその背後へと回り込んだ。体をすり抜けてしまわないよう注意を払い、隠れつつウィッテンを眺める。
間近で見ると、ウィッテンの美貌は聖職者という地味な仕事をさせておくにはもったいないほどの眩しさを放っていた。昨晩酔い潰れていたときに睨まれた金の双眸も、今日は柔らかな光をたたえている。
現実を忘れさせるほど、ウィッテンは美しかった。イケメンという一言で済ませてしまうのはもったいないとさえ感じるほどだ。
そんなウィッテンの特徴的な双眸を、ソフィアはうっとり眺めていた。その瞳に一瞬でも自分が映ったのだと思うと、やはり不安より嬉しさが勝る。
「マスター、シードル二つ」
「まあ、そんな軽いお酒でいいの?」
注文した助祭の青年が、マスターに苦笑を返す。昨晩ソフィアに見せた冷たく厳しい表情の片鱗は、どこにもない。
「いやー、僕たちまだ仕事だからあんまり飲めなくてさ。ねえ、ウィッテン?」
「すみません」
助祭の青年に話を振られたウィッテンもまた、申し訳なさそうに笑った。そんな笑みですら、ソフィアを狂おしいほどに魅了する。
鼻歌混じりのマスターが用意した酒は、ソフィアに用意してくれたものと同じだった。
場に漂うリンゴの香りを嗅いでいると、少しの炭酸と、甘いリンゴの風味を思い出した。子供の頃に棚から見つけ出し、カチュアと一緒に飲んで盛大に酔っぱらったことまで思い出す。ついでに両親に怒られたところまで、ソフィアは鮮明に思い出していた。
引っ込み思案なカチュアだったが、いたずらをするときはいつも一緒だった。二人でいたらなんでもできるような気がして、様々な物事に挑戦した幼い日々。大切な思い出は、今となっては笑えてくる。
そんな思い出の酒はシードルというらしい。ソフィアは心に刻んだ。
「ところで神父様、お名前は?」
「ウィッテン・フェルベルトと申します」
「ねえマスター、僕は? 僕の名前も知りたくない?」
「元気な助祭様だこと。お名前は?」
「僕ね、エリオ・アルバレス。なんか皆ウィッテンの名前ばっかり聞きたがるんだよねえ。不公平にもほどがあるよ」
エリオの物言いに、マスターが笑いをこぼす。
「助祭様も可愛いお顔してるんだから、黙ってたら名前聞かれることもあるんじゃないの?」
「それが全然」
マスターとエリオの陽気な笑い声が重なる。
どうやら助祭のエリオは、ぐいぐい前に出る性格みたいだ。おそらく思ったことはすぐに口から出るタイプに違いない。しかも昨晩の様子から、表と裏のギャップが激しい。表では人懐っこい笑みを浮かべているから油断してしまいそうになるが、言いたいことをはっきり言う人間なのだろうなというのが、ソフィアの感想だった。
黒髪を短く切り揃えた。丸眼鏡の助祭エリオ。賢そうで可愛い部類の顔をしているものの、ソフィアの中では普通に分類されるレベルの容姿だ。しかし一応ウィッテンのそばによくいるので、ソフィアは彼の名前を頭の片隅に置いた。
ただし、好意を持って呼ぶ日はこなさそうだが。
あくまでソフィアが興味を持っているのは、面食いのソフィアの心を一瞬ですべて奪っていったウィッテンだ。息を吹き込まれた美術品と言っても過言ではない、見たことがないほどの美形だ。しかも声まで美しく、いつまでも聞いていたくなる。
ウィッテン・フェルベルト。
彼の名前を、心の中でそっと呟いてみた。その名前ですら、ソフィアには甘く感じられる。
酒場の喧騒も、今のソフィアの耳には入ってこない。ソフィアの意識は、ウィッテンの声と、彼に関する音を拾うことに集中していた。
「ところで、聞きたいことってなあに?」
マスターの問いに、酒にまったく口をつけていないウィッテンが口を開く。
「実は人を探していまして。『アルウィン・リザック』という人物です。死んでいるかもしれませんが、なにかご存知ないでしょうか?」
マスターが顎に指をひっかけ、虚空を見つめる。記憶を掘り返しているようだ。
「んー……」
ややあって、マスターは口を開いた。
「聞いたことないわねえ」
自分の記憶にはその名前がなかったマスターが、視線を店内の酔っ払いたちへと移す。
「ねえ皆ぁーっ! 誰か知り合いに、『アルウィン・リザック』って人いないかしらぁー!」
マスターの野太くて力強い声が、小さな店に響き渡る。だがどの客も、マスターと答えは同じだった。生者も死者も、皆揃って首を横に振る。
「今日のメンバーは誰も知らないみたいね」
「お騒がせしてすみません」
「いいのよぉ、騒がしいのはいつもだから。また別のお客さんが来たときに、それとなく聞いてみるわ」
「助かります」
そう言うウィッテンの微笑みに、マスターが惚けた声を漏らす。
マスターの後ろから見ていたソフィアも、とてもいいものを見たと感動していた。
尊い。
本能でそう感じた。欲を言えば、その微笑みがソフィアに向けられたものならもっとよかったのだけれども。
「なにか分かったら、教会に報せるわ。でもたまにでいいから、うちの店にも寄ってみてね。霊もよく集まるし、噂話には強い店だっていう自信があるわよ」
そうそう、とマスターがつけ加える。
「今日は可愛いお客さんも来てるのよ。助祭様の隣の席にいるんだと思うけど、ソフィアちゃんっていうの」




