第22話 ソフィア
「ソフィアちゃん、リンゴは好き?」
『はい』
パスタのように太い念糸でコインを押し、ソフィアはゆっくりマスターに返事をした。ゲイルは簡単にやっていたが、いざ挑戦してみると難しい。自分の指で触っているわけでもなければ、なにか棒のようなものでつついているわけでもない。コインを押せば、むにむにとした柔らかな、なんともいえない感触がソフィアの指先に伝わってきた。
「よかったわあ。他の香りが欲しくなったら言ってね。イチゴもブルーベリーも、なんでもあるわ。ソフィアちゃんが喜んでくれるなら、色々なお酒出しちゃう」
見た目は屈強そうな男性なのにどこか女性的な雰囲気のマスターが、嬉しそうに笑ってくれる。最初こそ見たことのないタイプだったので驚いたが、案外優しい人のかもしれない。
あと一年で飲酒が許される年になるはずだったソフィアは、生前村の酒場に入った経験がない。どんなところかとあれこれ想像していたが、それを上回る愉快な場所のようだ。ソフィアは肩の力を抜いた。
死者同士の会話は頻繁にあったが、聖職者以外の生者と話をするのは久しぶりだ。
「ソフィアちゃん、どうして死んじゃったの?」
マスターの問いに、ソフィアは少し悩み――いつもどおりの答えを返した。
『崖から、落ちて』
「あらぁ……痛かったでしょうに」
マスターが悲しげな表情を見せる。
痛かったかどうか、ソフィアは正直覚えていなかった。きっと地面に叩きつけられたときは、痛かったに違いない。しかしソフィアの記憶は、崖から落ちつつ見たカチュアの愕然とした顔で終わってしまっていた。
ソフィアの沈黙を肯定ととったのか、マスターが言葉を続ける。
「でももう痛い思いはしなくていいわね。だって今のソフィアちゃんは、お空を飛べちゃうんだもの。それってとっても素敵」
マスターがにっこり微笑んだ。
たしかに死んだおかけで、ソフィアは自由に飛べるようになった。死後当たり前のように飛んでいたのですっかり感覚が薄れていたが、自在に宙を舞うなんて生前できない特別なものだった。
鳥のように飛べたらと、あのお気に入りの崖に立って何度夢想しただろう。
ある意味では、現状は生前の夢がひとつ叶ったような状況だった。気がついてしまえば、思わず笑ってしまう。
そのとき、ソフィアの体が一瞬青白く光った。
「まあ、今のってソフィアちゃんの声? アタシが想像してたとおり、とっても可愛いわ」
マスターはかなり霊に慣れているようだ。ソフィアが無意識にこぼした音にも動じない。
「アタシの声ってほら、このとおりじゃない? 酒焼けはしてないけど、どうにも愛嬌ってものがないのが悩みなのよねえ」
野太い猫なで声で、マスターがソフィアを笑わせる。すっかり緊張が解けたソフィアの笑い声に、再び念糸が混ざった。
マスターが自分の杯から酒を一口飲んでから、再び口を開く。
「酒場って不思議な場所でね、霊がよく集まるの。まあ、うちは見てもらえば分かるけど、騒がしいのが多く集まるわね。だからソフィアちゃんも、気楽に過ごすといいわ」
マスターに促され、ソフィアは振り返って店内を見た。
輪になって踊っている生者の周囲で、数人の死者が肩を組んで同じように踊っている。時折彼らの体が蒼白く光るのは、先程のソフィアのように念糸混じりの笑い声かなにかを上げているからだ。
ゲイルはというと、念糸で大きな熊のぬいぐるみを操って踊らせていた。生者と熊のぬいぐるみが肩を組み、陽気にダンスをしている。がさつなゲイルがそんな可愛い芸を披露しているのが意外で仕方ない。
ゲイルはソフィアが思っている以上に、かなり器用なのかもしれない。
そんなゲイルが薦めてくれたウィジャボードでの会話は、ひたすら自分の念糸を見つめているよりもずっと楽しい。ソフィアに向いている練習方法だ。
いつも人を小馬鹿にしてくるわりに、ゲイルは本当に面倒見がいい。
「ところでソフィアちゃん。あなた、好きな人はいるの?」
マスターの問いに、ソフィアはないはずの心臓がきゅっと締まるような胸の苦しさを覚えた。
昨日見たウィッテンの姿が、次々に思い浮かぶ。彼の瞳に映ったという事実が、嬉しくないわけがない。
おそらくこれが『好きな人』というものなのだと、ソフィアは悟った。
念糸でコインをゆっくり動かす。ウィッテンを想うと、なぜか緊張で念糸がぷるぷると小刻みに震えた。
『はい』
ソフィアの返事を確認したマスターが、「きゃあ」と嬉しそうな声を上げる。
「お相手さんはイケメンなの?」
『とても』
「あらぁ、羨ましいわ。で、どんな人? ゆっくりでいいから教えてちょうだい。ソフィアちゃんのことや、ソフィアちゃんが好きな人のこと、たくさん知りたいわ」
マスターが言い終わると同時に、ドアベルの音が響いた。その音にソフィアが振り返る。馬鹿騒ぎの店内に入ってきたのは、二人の男だった。
紺色の僧衣と白色の僧衣――ウィッテンとその助祭だ。
ソフィアと同じようにドアベルの音につられて入り口を見た客から、口笛が上がる。
「んまあイケメン!」
マスターの声が上ずる。
ソフィアの胸中もお祭り騒ぎだった。まさかここで会えるだなんて。喜びが爆発するが、すぐに緊張へと変わる。昨晩の失態をまだ挽回していない。ウィッテンはソフィアをどう思っているのか。あのとき睨みつけてきたからには、あまり快く思われていない可能性が大きい。
ウィッテンが客と挨拶をかわしつつ、カウンターに向かってくる。その光景を眺めている間も、ソフィアの中では嬉しさと不安がぐるぐると渦を巻いていた。
昨晩の様子からするに酒が飲めなさそうなウィッテンが、一番縁のなさそうな酒場に来るなんて。いったいどんな用事かと考えていて、ソフィアは思い出した。そうだ、霊に聞き込みをするとかなんとか話していた。
そういう用件ならば、ソフィアはウィッテンの役に立てない。彼や助祭の青年が調べたい『アルウィン・リザック』なる人物を知らないし、知っていそうな人物への人脈もないのだから。




