第21話
カウンターにいるのは、この店のマスターである男だけだ。栗色の癖毛の彼は筋肉質ながらすらりとした長身で、首には赤いスカーフを巻いている。小指を立てて酒の入ったグラスを持ち、ゆっくりと揺らしていた。客たちがある程度できあがった中で、マスターはマイペースに手酌酒を愉しんでいるようだ。
ゲイルの念糸がにゅっと伸び、店主の首に巻かれていたスカーフの端を引っ張る。
「あらぁ、その引っ張り方はゲイルね。今日は遅かったじゃないの」
マスターの野太い猫なで声に、ゲイルの背後にいたソフィアが「ぴっ」と高い声を漏らすのがわかった。
「ゲイル? マスター、ゲイル来てんのか?」
「おーいゲイルにも一杯!」
「ゲイル! こっち来いよー!」
マスターの声を聞きつけた酔っ払いたちが騒ぐ。
「ここ、俺が最近よく来てる店なんだ。……大丈夫だソフィア、マスターは別に化け物とかじゃねえから」
振り向けば、ソフィアは大きく後ずさりしていた。そんな彼女に、ゲイルがひらひらと手招きをする。
「今からいいもん出してやる」
言い、ゲイルはマスターの後ろの棚に置かれていた黒い木の板を、念糸を伸ばしてごとごと揺らした。
「え? ゲイル、あなた喋れるでしょう?」
ゲイルにとって、声に念糸を混ぜて生者と話すのは造作もない。それを知っているマスターが、不思議そうな顔をしながらも黒い木の板をカウンターへと乗せてくれる。
「あ、これ知ってる」
黒い木の板を見た瞬間、ソフィアが呟いた。それもそうだ。セーフェル教徒ならほぼ確実に知っている。
アルファベットや記号が書かれた板、ウィジャボード。
霊と会話する為の道具だ。
だいたい一度は子供の頃に興味本位で遊びに使い、親や教会付きの司祭に怒られる。なぜか数人が集まるとひとりくらいは家にあるという、身近な道具だった。酒場は霊が集まりやすい場所なので、こうして置いている店も少なくはない。
これを使って、ゲイルはソフィアに念糸の練習をさせるつもりだった。
「使い方は知ってるだろ?」
言いつつ、ゲイルが念糸を伸ばす。ウィジャボードの上に置かれたコインを念糸で押し引きして言葉を紡ぐ様子を、マスターは見慣れたように眺めていた。
「まあ、今日は可愛い子を連れてきてくれたのね」
ゲイルが紡いだ言葉に、マスターが嬉しそうな声を上げる。
「ソフィアちゃんっていうのね、よろしく。アタシのことはそうね、マスターって呼んで。皆そう呼ぶから」
マスターが棚の酒瓶へと手を伸ばす。そこからリンゴの絵が描かれたボトルを出してくるとグラスに注ぎ、ウィジャボードのそばにことりと置いた。
「ここの席にどうぞ、ソフィアちゃん。アタシと一緒に、お話しましょ」
ゲイルが予想していたとおり、マスターはソフィアの相手をしてくれるようだ。
「念糸の動かし方を練習するには、もってこいの道具だろ? 見回りの時間まで、少しマスターと話でもしとけ」
「わ、分かった」
どう見ても男のマスターが醸す妙に女性っぽい雰囲気に気圧されたふうではあるが、ソフィアが頷く。
死んだからといって死者同士で交流していては、生きていた頃のような常識的な社交性がそのうち失われてしまう。たまには生者と関わることも、理性のある霊として存在する上で大事だというのがゲイルの考えだ。
それに念糸は、霊自身の感情や感性に左右されやすい。今までしたことのない経験をすることで、ソフィアの中に眠る死者としての能力が刺激されるのでは。そういう推測もあり、ゲイルは今夜彼女をここに連れてきた。
セーフェル教が浸透している国において、酒場の店主というものは、ほとんど霊を嫌がらない。賑やかな場所に霊が寄りつくというのを理解してくれているからだ。それに店に霊がいれば、それだけ古くて歴史がある店だという箔もつく。
特に今夜来た店のマスターは、霊との会話を愉しむタイプだった。彼――心の一部は乙女だが、男としての顔も持ち合わせている――ならば、ソフィアを任せても不安はない。
もちろん、不安が残る場所にゲイルがソフィアを連れてくるなど、まずありえないのだが。
すっかり自分はソフィアの保護者のようではないか。ゲイルはついひとりで笑ってしまった。
ソフィアがカウンター席に腰かけるようなポーズをとるのを見届けると、ゲイルは店の端へと向かった。そこに置かれているのは、人の丈ほどもある大きな熊のぬいぐるみだ。
ぬいぐるみの頭、胴体、四肢――あらゆる場所に、青白く光る細かい念糸を巻きつけ、ぬいぐるみを立ち上がらせる。
瞬間、客たちがわっと沸いた。
生者から見れば、青白い光に包まれた熊のぬいぐるみが自立歩行しているように見えるのだ。
「ゲイル、今日は遅かったじゃねえか!」
「待ってたんだぞ!」
「おまえも飲めりゃいいのになあ」
「ゲイル今日も可愛いわねー!」
ノルンに来てから何軒か酒場を回ってみたが、この店が最も居心地がいい。霊に対してポジティブに接してくれる客がとにかく多いのだ。
「ったく。もっとかっこいい人形はねえのかなっと」
軽く悪態をつきながらも、口元に笑みを浮かべるゲイル。彼の操る熊のぬいぐるみが、客たちの歌声に合わせ踊り始めた。




