第17話 『霧の悪魔』
楽しい時間というものは、あっという間に過ぎていくのが常だ。
今夜は同じ方向に帰る客がいなかったので、男は人通りが絶えないうちに酒場を出る予定だった。しかし結局、気がつけば閉店の時刻である。
秋のノルンならではの濃霧の中、カンテラを手にした男は住宅街の壁を伝うように歩を進めていた。周囲の気配を探りつつ、自分の存在を少しでも隠すように静かに歩く。
しかし素人がどんなに頑張ったところで、一刻も早く帰宅したという焦りが、石畳の上で靴音を生じさせる。
街灯はいつものようについているものの、濃霧でぼやける光は遠くまで届かない。
聞こえるこつこつという音が、自分の靴音なのか、耳の奥で響く鼓動なのか、時々分からなくなる。
ただひとつだけ。
街はまるで無人の廃墟のように静かだということは、たしかだった。
理由はすぐに思いつく。皆、『霧の悪魔』を恐れているのだ。今まで『霧の悪魔』が襲うのは、現時点でノルンに住んでいる者だけだと漠然と思っていた。だが先日襲われたのは、三年前にこの街を出ていき、たまたま友人を訪ねてきたという元住民だ。もしかしたら襲われる条件は他にもあるのではないかと、皆が怯えている。
『霧の悪魔』は、もう四年も野放しになっている。その正体は人間でなく悪魔なのだと言い出す者までいた。
そういえば今夜の酒場では、領主の依頼でエクソシストが来たと話題になった。なんでも首都セーフェルでも評判の司祭らしい。
この怯え続ける日々が終わってくれるのならば、犯人が人間だろうが悪魔だろうがどちらでも構わないと、男は心の底から思う。エクソシストが来たならば、いい加減にもう大丈夫なのだと信じたかった。
まっすぐに続く、緩やかな坂道の先。その角を曲がれば家に到着だ。ほっとしていた、そのとき。
「あの、すみません」
後ろから声をかけられ、男は飛び上がりそうになった。しかしかけられた声は、若い女性のものだ。いくらこんな状況はいえ情けない姿を見せるのもはばかられ、男はどうにか平静を装って振り向いた。
「な、なんだね」
ばくばくと脈打つ鼓動のせいか、声が震える。
「アルウィン・リザックという男を知りませんか」
大人になりかけの少女といった様子の、若い声だった。霧でよく見えないが男の持つカンテラの灯りの先に、黒い人影が立っているのが分かる。
いったいいつの間にそこに現れたのか。
道は石畳で舗装されている。歩けば多少の靴音がするものだ。男が酔っ払っているとはいえ、周囲の様子に気を配りながら歩いていたのだ。ここまで接近されるまで、他者の存在に気がつかないわけがない。
そう考えると同時に、男の体の中心を冷たいものが滑り落ちた。
「もしかしたら、名前が変わっているかもしれません。ただ、この町に越してきたのはたしかなんです。なにか知りませんか」
女の口調は丁寧で、困っている様子だ。だがそんな声は、男の耳を右から左へとすり抜けていく。
男は逃げることしか考えられなかった。
きっと『霧の悪魔』だ。
こんな時間に人探しなんておかしい。
しかも女のひとり歩きだなんて。
どうせ少し走って角を曲がりさえすれば、自宅だ。
「アルウィン・リザックについて、なにか知りませんか」
人影が徐々に濃くなる。こちらに近づいてくるようだ。から、から、と乾いた音が、かすかに響く。女にしては大きい人影が、余計に男の恐怖心を煽り立てた。
小さく息を吸い込むと、男は人影に背を向けて駆け出した。
目前の角を曲がろうとして、男は後ろから強く殴られて倒れ込んだ。石畳に真正面から倒れたものだから、受け身を取り損ねて胸を強く打ちつける。手から離れたカンテラが割れ、燃え上がる。やや遅れて、背中に焼けつくような痛みが広がった。
「卑怯者」
耳元で先ほどの女の声がした。
「卑怯者だから、逃げるのね」
女の声とともに風を切る音が聞こえ、男の背中になにかが落ちてきた。
肉を、骨を、力任せに断ち切る破壊的な音が男の頭の中に響く。男の口からは聞くに堪えない絶叫が出ているはずなのだが、それは男の耳には聞こえない。それよりも幾度となく体を引き裂く痛みと音の方が、男の感覚を支配していた。
「卑怯者、本当は知っているくせに、知らないふりをして、私を騙して」
言葉を男に刻み込むように、男の背中に凶器が振り下ろされる。
やがてなんの音も響かなくなった通りには、ぼろぼろになった男の死体だけが転がり、ぬらりとした血が生き物のように石畳の間を這うだけだった。
* * *
「この町の人は、皆卑怯者ばかり。昔も今も変わらない」
どんなに時が経っても、皆の態度は同じ。「知らない」と答えるか、無視するかだ。
住民がアルウィン・リザックを知らないわけがないのだ。
彼は先代の領主が養子として孤児院から引き取った。けれども、住民がまともに話を聞いてくれないせいで、行方はまったく掴めない。
一度は探すのを諦めかけたときもあったが、今度はもう絶対に諦めない。卑怯者をひとりずつ処刑していけば、いつかは真実を語る者が現れるはずだ。
アルウィンが見つかれば、きっと自分は悲劇から解放される。そう、こんな悲劇などあっていいわけがない。たちの悪い冗談だと証明して欲しかった。
ノルンの濃霧は、姿を隠すのに非常に役立つ。
「今日もだめだったけど、明日があるわ」
ねえ、と愛しの相棒に声をかける。自分の代わりに卑怯者を処刑してくれる頼れる相棒は、言葉で返事をしてくれはしない。だが相棒はこの行為を否定するはずがないという自信があった。もし否定するならば、それはあの悲劇を肯定することになるだけなのだ。
「私と卑怯者たち、どっちが本当の悪魔かしらね」
ひどいことをしているのは、お互い様だ。むしろ先にこちらを傷つけたのは、真実を教えてくれない住民たちだ。誰か少しでもまともに取り合ってくれたら、こんなことにならなかったのに。
自分には、そんな住民たちに復讐する権利がある。
きっと明日も濃霧だ。
明日こそアルウィンの行方についての手がかりを得られると信じ、『霧の悪魔』は濃霧の中へと姿を消した。




