第16話 ある男の悩み
エレナと出会ったのは、私がこの屋敷に来て一年が経った頃だろうか。
エレナは長旅をしてきたのか、ひどく疲れた様子だった。くりくりとした青い瞳が愛らしい顔も、あのときは泥で汚れていた。私の目を惹いたのは、ぎゅっとひとつにまとめた長い茶色の癖毛だ。洗ったらふわふわして気持ちよさそうだと、単純にそう感じたのだ。
彼女はこの屋敷で働きたいと、玄関口で懇願していた。父がろくに話も聞かずに追い出そうとしたのを、私が止めたのだ。
おそらく私より年下と思しき少女が、こんなにぼろぼろになるほど旅をしてきて、わざわざここで働きたいというのだ。なにかよほどの事情があるように思えた。
それに今追い出されたら、彼女はどこへ行くというのか。
他に行き場があると思えないエレナに、自分を重ねたのかもしれない。彼女は私と同類なのだと感じてしまったのだ。
父に口答えしたのは、あれが初めてだ。それまで常に従順だった私の変わりように、何事にも動じなさそうな父が珍しく目を丸くしたのを覚えている。
当時のメイド長が私の味方になってくれて、エレナは私付きのメイドとして採用された。
湯浴みをして、メイド服に着替え、長いふわふわの癖毛をおさげ髪にしたエレナは、最初に見たときとは全くの別人に見えた。
可愛いと思った。
あの触り心地のよさそうなふわふわの髪をぎゅっと結んでしまったのが残念だったが、懸想していると勘違いされるのが嫌で口にはしなかった。
……いや、おそらく私はあの時点で、既にエレナに恋をしたのだ。
日々を耐え抜くのに必死で、私は人らしい感情を愉しむだけの余裕がなかった。気づけば私は、味気ない人間になっていた。まるでこの地方の紅茶の味わいのような人間に。
無駄な感情を持たず、淡々と領主の仕事をこなす人形。
領地と家を守るという義務はこなせても、はたして私が領主である必要はあるのか。その悩みは常に私の中にあり、老齢だったメイド長が亡くなってからは、いよいよ屋敷の誰も信じられなくなった。
私があのとき、エレナの髪に触れようとしていたら。
エレナがこの屋敷に来た理由を訪ねていたら。
未来は、変わったかもしれない。
エレナだけは間違いなく、私より後にこの屋敷へ来た。彼女だけは、私が屋敷に住む理由をなにも知らなかった。
私は、エレナだけはもっと信じるべきだったのだ。
エレナは、私が領主になった日から一週間後に納屋で首吊り死体となって発見された。
事件性があるとして私が団長を務める騎士団で捜査をしたが、彼女と懇意にしていたエドワードという男はどこを探しても見つからない。結局、エレナの自殺という形で事件は片づいてしまった。この事件はいまだに私の中に暗い影を落としている。
『霧の悪魔』の話について回る、領主が呪われているという噂。あれはある意味では正しいのかもしれない。この家は、そして歴代の領主たちは、皆呪いを背負っている。もしかしたらこの呪いは煮込み過ぎたシチューのようにどろどろと濃厚なものになっていて、そのせいで私は好きな女性も、領民も、誰も守れないという最悪の形に変貌したのでは……と、思うようになっていた。




