第105話
フィオナが涙を拭って笑う。まだ鼻をぐすぐすといわせてはいたが、フィオナの笑顔はゲイルの心を温かくしてくれた。
「『ちゃんと帰ってきないさいよ』って、私に二回も言わせたもんね」
「じゃあさっきのは、二回分の『ただいま』だな」
「二回分まとめて言うんじゃないわよ。そういうのを面倒くさがるの、あんたの悪い癖よ」
いつもの調子で言うフィオナにゲイルはつい笑いをこぼした。柔らかなラップ音が店内に響く。
「一回でも二回でも、中身は同じだろ」
そんなゲイルの雑な一言を聞きつつ、フィオナが目元をごしごしと拭う。そうしてから、フィオナはとびきり明るい笑みを浮かべた。
「あーあ、なんか気が抜けちゃった。目も腫れちゃったし、開店前になんてことしてくれるのよ」
「勝手に泣いたのはそっちだろ」
立ち上がったフィオナは、吹っ切れたような顔をしていた。目元は赤く腫れあがってしまっているが、いつものはつらつとした調子が戻ってきたように見える。ゲイルはフィオナの強さに感心した。
「帰ってきたんだったら、ちょっと手伝いなさい。そこの荷物、全部厨房に運んで」
「いきなり人使い荒いな、おい」
「これくらい当然でしょ。何年心配させたと思ってるの」
そこを突かれると、ゲイルは弱かった。大きなため息をついてみせるものの、愛しいフィオナの可愛いわがままを聞き入れて、両腕に念糸を絡め荷物を抱えて厨房へと運ぶ。
「ねえゲイル」
「なんだよ」
「どうせまたいつか、セーフェルを出ていくんでしょ?」
厨房に入ってきたフィオナの言葉は、ゲイルの心に小さい痛みを生んだ。
「……たぶんな」
「そのときは、ちゃんと挨拶してから行って。どんな旅に出るのだとしても、私はちゃんと見送ってあげるから」
ゲイルがいつかセフィロートへ旅立つというのを、フィオナはしっかりと理解しているようだった。そうでなければ、そんな言葉は出てこない。それはゲイルにもすぐ分かった。
「おまえは大丈夫なのか?」
孤児だったゲイルは、肉親との繋がりが一切ない。ゆえに、フィオナのように繋がりの深い生者を残してしまうのは初めての体験だった。反射的にフィオナに確認してしまう。
「私は大丈夫よ。慣れてる」
たしかにフィオナは、若くして両親に先立たれ、ゲイルの死にも立ち会えず、その死を推測するしかできなかった。最期の別れというものに、彼女は慣れてしまったのかもしれない。
それにフィオナは仕事柄、出会いと別れを繰り返した数も多いはずだ。上手い心の切り替え方を知っている気がする。
ゲイルが心配していたほど、フィオナは弱い人間ではなさそうだった。
「私はあんたが思っているより、ずっと強いわ」
ゲイルの心を見透かしたように、フィオナがしっかりと芯のある声で言う。
「ちゃんと前を向いて歩いていけるから、安心なさい。あんたが羨ましがるくらい幸せな人生を送ってみせるから」
それから、とフィオナが付け加える。
「いつか生まれ変わってまたセーフェルに来るなら、ちゃんと店に顔出しなさいよね。今まで来なかった分、しっかり食べて飲んでお金落としてもらわなくちゃ」
「商売根性たくましいのはいいけどよ、おまえが生きてるうちに俺が来るかなんて約束できねえだろ」
「来るの。あたしはおばあちゃんになっても店を続けるつもりだから、あんたはどこに生まれても安心して店に来なさい。セーフェル一長生きの店主が迎えてあげるわ」
フィオナの言葉に、ゲイルは笑いながらも安堵した。
もうフィオナは、ゲイルに執着して人生の途中で立ち止まっているわけではない。フィオナはフィオナだけの道を、しっかり歩んでいこうとしている。
フィオナの止まった時間を動かす術を探していたが、答えはなんとも簡単だった。ゲイルは声をかけるだけでよかったのだ。
たしかにフィオナは時を止めてしまっていたが、ただ道の途中で立ち止まっていただけで、座り込んではいなかった。きっかけさえ与えてやれば、自分の足でしっかりと歩き出せる強さを、彼女は持っていた。
たとえ今ゲイルに見せているのが空元気だとしても、それだけ元気なふりができるのならば、これ以上悶々と心配する必要はないと思える。
フィオナに思い切って声をかけたことで、ゲイルの心もまた、元気を取り戻していた。
「根菜はそっちの箱にしまってね」
「おいおい、この店は霊も客なんじゃなかったのか」
「あんたは特別よ」
「そうかい」
特別扱いされて悪い気はしない。生きていたらこんな人生も待っていたのかもしれないと、ゲイルは考えた。フィオナの尻に敷かれて店で働く日々は、楽しいものだったはずだ。
亜麻色のポニーテールを揺らして厨房内を動き回るフィオナの姿に、ゲイルが目を細める。
自分が最期まで愛した人は、きっともう大丈夫だ。




