第102話
室内では女の霊の念糸が、燭台を、壁にかけられていた絵画を、あらゆるものを掴んではウィッテンへと投げつける。
灯りを失った室内に、差し込む月光。
冴えた光が浮かび上がらせたのは、レイピアと短剣を駆使して女の攻撃を受け流すウィッテンの姿だった。澄んだ音を響かせて叩き落としたかと思えば、鮮やかな動きで避ける。その姿はまるで踊っているかのような華麗さで、こんな状況にもかかわらずソフィアを魅了した。
女の念糸が、ついに大きなソファへと絡みついた。ずずっと重い音を立てて、ソファが床の上をゆっくり滑り出す。
「あんたいい加減にしなさいよね!」
ソファの脚にソフィアの念糸が絡みつく。女が伸ばす無数の念糸と比べるにはお粗末すぎる、極太のたった一本の念糸。それがソファの脚に絡みつき、懸命に引っ張る。
瞬間、硬質な金属音が響く。
ウィッテンが、女の霊が操る火かき棒を突き飛ばした音だった。くるくると宙を舞った火かき棒は、弧を描いて、分厚い絨毯が敷かれた床へと突き刺さる。
ウィッテンのレイピアが、女の霊とカチュアの魂の間へと差し込まれた。細い刀身が無数の細い念糸を巻きつけ、ぶちぶちと断ち切っていく。
ぐったりとしたカチュアの魂に、ソフィアが念糸を伸ばそうとする。
だがそれより早く、ゲイルの念糸がカチュアの魂を絡めとった。ソフィアの念糸よりはるかに長く伸びるそれが、カチュアを部屋の端へと運ぶ。そこで妹の魂を受け取ったのは、フレデリックに付き添っていたエリオだった。
「エリオ、肉体と魂を繋げそうですか?」
「なんとかしようじゃないか」
ウィッテンの問いに、エリオは頼もしい声を上げた。見れば、エリオは手のひら大の器具を持っている。V字の器具で、カチュアの魂から伸びた太めの念糸と、体に残っている念糸を挟み込む。かちゃりとなにかと押し込む音がして、エリオの手元から一瞬青白い光がほとばしる。
念糸同士が繋がったのを確認すると、エリオは次の念糸へと手を伸ばした。
「妻は、ソフィアは無事ですか?」
フレデリックの声が、ソフィアの耳に入ってくる。
そこでソフィアは、エリオにも死者の声が聞こえるのだと思い出した。カチュアの声も聞こえているはずのエリオが余計なことを言うかもしれないと、ソフィアが焦る。
「今のところなんとも言えないね」
そんなエリオは、ソフィアが見たことのないような真剣な表情で口を開いた。
「ただ……」
エリオが一瞬ソフィアをちらりと見た。それは本当に一瞬で、すぐに彼の視線は作業をする手元へと戻る。
「ずっと魂が『ごめんなさい』って呟いているんだよね。理由は分かんないけどさ、助かったとしても、奥さんをあまり責めない方がいいと思うよ」
エリオの言葉に、フレデリックはただカチュアの肉体をぎゅっと強く抱きしめるだけだった。
女の霊の手からだらしなく伸びた残りの念糸を、ウィッテンが断ち切る。
ついに、女の霊とカチュアを繋ぐ念糸はすべて断たれた。
逃げようとする女の霊に、ウィッテンのレイピアの切っ先が向いた。鋭いひと突きが青いドレスの裾に突き刺さり、絨毯へと縫いとめる。
動けばドレスが裂けると思ったのか、女の霊が固まった。
ひどく生者じみたその行動に、ソフィアははっとした。気が狂った悪霊とばかり思っていたが、ウィッテンからすはその霊は『人』であり『女性』だった。それゆえに、彼女にとって最低限のダメージで足止めをしたようだ。
「あなたの名前は?」
「……アイシスよ」
ウィッテンの声に、動きを止めた女の霊は存外素直に答えた。
「ではアイシス。告解と魂の消滅、あなたはどちらか好きな方を選ぶ権利があります。どちらを選びますか?」
アイシスに対するウィッテンの声は、ソフィアがよく知る優しい響きに戻っていた。悪霊は強制排除されると思っていただけに、選択肢を与えるその行動は、ソフィアには意外だ。
しかしアイシスですら女性扱いした方法で足止めをするウィッテンなので、彼にとってはこれが普通なのだろう。他のエクソシストがどう対応するかをソフィアは知らないが、少なくとも今のウィッテンの行動はとても優しいものに思えた。
アイシスがウィッテンを睨みつける。女としての艶やかさを備えた彼女のその視線は、ひどくきつく感じられる。だがびくついたソフィアと違い、ウィッテンは落ち着いた様子でアイシスを見ていた。
「消滅よ。決まってるじゃない。あんな人たちと一緒の世界にまた生まれるくらいなら、ここで滅ぶ方がましよ」
アイシスはきっぱりと言い切った。
「消滅した魂は、もう二度とよみがえることは叶いません。それは新たな人生で待っているはずの希望を捨てる選択肢になりますが、よろしいですか?」
ウィッテンの言葉に、アイシスは鼻で笑ってみせた。
「どんなに人生が巡ったって、私を殺した二人はまたこうして夫婦になってる。きっとそれは、これから先もずっと変わらないのよ。新しい生を得たとしても、あいつらはまた私を殺す。私とあいつらは、そういう運命にあるの。そのたびに復讐を考える人生なんて、ごめんだわ」
アイシスが呻くように呟く。それは彼女の心からの苦しむ声のように、ソフィアには聞こえた。
「……もうそんな運命、耐えられない。これ以上私は、不幸で惨めな存在でいたくないのよ。さあ、早く私を消してよ! その為にあなたはここに来たんでしょう!」
叫ぶアイシスに対し、ウィッテンは諭すように言葉を紡ぐ。
「私が来たのは、あなたの魂を救済する為です。ゆえにあなたには、二つの道が示される。告解を選べば、あなたは再びこの世界に生まれます。そしてその人生では、望まぬ人間とは関わらずに生きていける可能性も残されている」
「どちらかを選べるとしたら、私は、魂の旅を終える道を選ぶわ。もう嫌なの。嫌なのよ……」
アイシスがくずおれる。その姿は、ソフィアにはひどく寂しそうなものに見えた。




