第九夜 ⑤
深い闇の気配に引き込まれる。懐かしい場所を思い出させるような深く静かな闇。路地の奥に進めば進むほど闇に飲まれる感覚が全身を染めていく。日傘を差していた腕をだらんと垂らし、日傘をカシャンとその場に落とす。
そうして無意識のうちに入り込んだ路地の先に光るふたつの目玉があった。それに獣の唸り声。涎を垂らす音。
…なにか…いる、みたい…。
そう意識しても体は路地の先にある闇に向かって歩き続ける。
…あれは…きっと…迎えだわ…。
目の前に広がる闇の中から獣の唸り声が聞こえる。そしてそれがどんどん大きくなり、光るふたつの目玉も舌舐めづりする音も唸り声もあと数歩という所から聞こえてきた瞬間、ふたふらと歩くエラを飲み込むように闇を切り裂く巨大な口が姿を現した。闇の中に浮かぶ鋭い無数の牙を生やした大きな口。むわっとした息遣いと唾液を糸のように垂らした魔物の口だった。エラはそれが目の前に現れたのにも関わらずその口に自ら飛び込むように歩き続けた。彼女の瞳から光が失われていた。
エラの前に現した口はそのまま彼女にグワッとかぶりつこうと口を閉じようとした。
ー…エラ…ッ!!!
意識の向こうで呼ばれた気がした。と、同時に体を後ろにくいっと強く引かれ、そのままバランスを崩した。その直後に誰かに体を後ろから受け止められる。瞬間、ドゴォ!!!!という凄まじい轟音と魔物の悲鳴がエラの耳をつんざいた。それはエラが意識を取り戻すのに充分すぎる程だった。
意識を取り戻したエラの視界には体を引き裂かれて緑色の血を撒き散らす魔物の姿が映る。衝撃的な光景に何が起きたかも判らずただ困惑した。
ドシャ…ッ!!とその場に崩れた魔物の死骸を揺れる瞳でエラは見つめた。
…何…何が起きたの?これは…何?
無惨に引き裂かれた魔物を見てエラはくらりと目が回ってバランスを崩しそうになるが、誰かに体を支えられていることに気が付いた。視線を背中に回す。彼女の体を支えていたの…。
「エラ!?大丈夫かい!!?」
「イオ、様…?」
呆けたような顔をしているエラを心配そうな顔でイオニコフが見つめる。
「はぁ…良かった…」
くたっとしたように息を切らしたイオニコフは無傷なエラを見ると安堵してその体を抱き締めた。
…良かった…無事だ…。
そのまま強く抱き締められてもまだ何なんだか判っていないエラは少し呆けたままだ。
「イオ様…あの…何が…?」
困惑するエラからイオニコフは腕を離す。正面に向き合う彼女の瞳には光が戻っている。その事にも安堵する。
「…エラ、路地には入らない方がいい。さっきみたいな魔物が潜んでいることがあるんだ。それと…これ、落としていってただろう?」
何がなんだか判っていない様子のエラの頭を撫でながらそう語る。イオニコフは拾ってきていた彼女の日傘を渡す。
どうやら心配させてしまったらしい。エラは日傘を受け取る。
「…ごめんなさい…以後、気を付けますわ…」
正直に言うと記憶がさっぱり抜け落ちている。さっきまでイオニコフとお店を見ていたはずなのに、何故か今は路地にいる。心配している様子のイオニコフとそこに転がる魔物の死骸に圧倒されてエラは素直に謝った。
「…とりあえず戻ろうか」
そう言ってイオニコフがエラの手を引いて大通りに戻ろうとしたとき、路地の闇の中から再び魔物の咆哮が聞こえた。
二人は咄嗟に闇の方を睨む。その先に魔物の姿を捉えた。
「また…!!」
イオニコフが魔法を行使しようと構えを取ったよりも早くエラが先程受け取った閉じた日傘を構え、目一杯の力で魔物の頭を叩き割る勢いで思いっきり殴り付けた。
バキン…ッ!!!
ギャアアアアアアアアア!!!!
日傘の骨が折れる音と魔物の悲鳴がハモる。その悲鳴は二人の耳をつんざいたが、すぐにエラがイオニコフの手を引いて大通りに向かって走り出した。




