第七夜 ①
「そう言えば、彼はどこまで覚えているのかしら」
ふと、そんなことを思ったのは昼休みに購買でパンを買った後だった。
今日は良く晴れた初夏の日だというのにパンの袋も濡れているし制服も頭から水を被ったかのようにずぶ濡れだ。そんな姿でエラは昼下がりの競技場の外側に設置された水道の前にいた。
競技場は授業で魔法学の実技の際に使うほか、魔学クラス分け試験などの模擬試験でも使われる施設だ。と言っても基本はそれら以外では使われることがないので人が寄り付かない場所でもある。そんな人気もない場所でずぶ濡れ状態のエラは制服を絞って水を切っていた。
ぎゅーっと水を絞りパンパンとはたく。今日は晴れているしじきに乾くだろうと日差しの中に一歩足を踏み入れた時だった。
「ええ!?何でずぶ濡れなんですか!?」
と、盛大に驚く声が聞こえた。まさかこんな場所に人は来ないだろうと思っていたエラとしても驚いた。ゆっくりと声がした方を見やる。そこに立っていたのは…。
「…エミーユ・ミッドナイル…」
水色の髪と毛先に向かって若紫色に変わるグラデーションが特徴的でカシオペア座を模した髪飾りも着けている。揉み上げも長めで後ろは三つ編みで束ねているアイドルのような見た目だ。少しおっとりとした性格を強調するかのような垂れ目。攻略対象の中でも人気は高かったキャラクターだ。後輩キャラということもあってか可愛らしい印象が強く、しかしながらエミーユルート終盤で見せる男気もギャップがあってそれも人気が高くなった要素のひとつ。
何て事を彼の姿を見た瞬間に考えた。
…驚く姿も可愛いわね。ていうか実物の美男子具合が最高過ぎない!!??あ、直視出来ない…!!!
あまりの神々しさにエラは顔を覆う。イオニコフの時もそうだったが、推しが目の前にいるというのは凄まじく破壊力が抜群である。皆の癒しのポジションでこんな後輩が欲しいと思ったくらい出来たキャラだった。
「あれ?僕の名前、知っているんですか?」
驚いた顔の次はきょとんとした顔。大きく表情が変わりにくい攻略対象が多い中で珍しいくらいコロコロと表情が変わる子だ。
…しまった。ポロっと口に出してた。でも原作を知ってるから…とは言えないし…。
少し間を置いてから「リチア様から聞いた」という感じではぐらかした。彼も「ああ、先輩と同じクラスの方なんですね」と納得したようだった。
アイザックから情報を貰っておいて良かったなと思う。ただ、急過ぎる展開だ。それにゲームでエラとエミーユのみでのイベントは存在しなかった。それに競技場前にエミーユが出没するなんてこともなかった。
…原作になかったイベント…。どうしよう…?どうしたらいいのかしら。
エラが次に起こすべき行動に悩んでいるとエミーユの方から話し掛けてきた。
「あの、それで…先輩はどうしてそんなずぶ濡れなんですか?まさか水浴びしてた訳じゃないですよね?」
…!!そこに食いついてくるか…!!って、そりゃそうか。
自分でも雨の日でもないのに目の前で服のままずぶ濡れになった人が立っていたらどうしたのかと尋ねるだろう。当然の流れだ。これも日常的な虐めの一種なのだが正直に言うのも面倒だったので適当に話を合わせようとした。
「え、ええ、ほら、今日は天気もいいし…気持ちいいかなって…」
「…食べてないパンごと水浴びですか?」
…グフッ。
…て、適当過ぎたああーーーーッ!!!!
そうだろうよ。誰が買ったパンごと水浴びするんだよ。どんなドMだよ。我ながらあまりにも適当過ぎる話の合わせ方をしてしまった。これでは余計に疑われる。思わず眼も泳ぐ。
「え、えーっと…それは…」
今さらパンの袋をサッと背中に隠す。無かったことに出来たらいいのに。
「…もしかして…先輩…」
…何?何言う気?
「…誰かに…虐められてるんじゃないですか!?」
焦ったようなハッとしたような複雑な表情でエミーユはエラに詰め寄った。反射的にエラは後退る。
…何?どういうこと…!!?どうしてエミーユがそんな事気にするのよ!?
エミーユは誰にでも優しい性格だがゲームではエラとの大きな接点はなかったし虐めの存在を知っていても主人公の前以外で関わってくることもなかった。それなのに今ここでは真剣な顔でこの問題に食い付いてきている。
「…というか、もしかして先輩が“灰かぶり”だったりしませんか?」
「!!」
難しそうな顔でそう尋ねてくるエミーユにエラは驚きと警戒を覚える。何故、彼はそんな事を聞いてくるのか。エラの表情は険しいものになる。その事に気付いたエミーユは慌ててフォローを入れる。が、
「あ、あ!あの、悪い意味じゃなくてですね…!!噂になってたんです!一年の間でも!学園中から虐められている人がいるって…」
実際のところ何のフォローにもなっていなかった。エラにとっては頭の痛い話だ。
…まさか一年生の間でも噂になってるなんて…。
“灰かぶり”が学園中の生徒から虐められているということと、それを聖女様が憂いているということはセットで噂になっているとエミーユは話す。ただ、その多くは実態の無い都市伝説にような扱いで、実際にどの人というのまで知っている人は多くないそう。というのも魔法を使った表立っては行わない地味な虐めが主だから「虐められている子」と気が付かれないことが多い。エラ自身も何かされた時は人目の無いところで処理してしまうからでもある。
「だから、実在したことが驚いたといいますか…。だって、虐めですよ!?これだけ噂になっているのにどうして誰も何もしないんです?おかしいじゃないですか。先生だって動いててもおかしくないし…だからホントにただの噂程度にしか思ってなくて…」
口を尖らせながら手をパタパタさせるエミーユ。ついリアクションもいれてしまうようだが、それはそれで可愛い。話しながら怒ったり驚いたり口を尖らせたりとコロコロと変わる表情にエラはクスッと笑ってしまう。
…噂、ね。そうね。普通ならそんなに噂になっているのに誰も解決に乗り出さないっていうのは、異様、よね。でも所詮ここはゲームの世界であってエラが灰かぶりなのもそういう設定だからとしか…。
半ば諦めのようなものだ。だから気にしたことがなかった。誰がどこまで知っているのか、誰も彼もが知らぬ存ぜぬなのかも。全てが「そういうゲームだから」で済まされてしまうもののはずだった。だが、今は少し違う。アイザックが同じ転生者でイオニコフにもエラに対する好感度があるようだった。イベントの発生時期や順序の違いも含めゲームとは違う展開が起きている。現に今こうしてエミーユと話しているのだって原作に無かったものだ。
…特に気にしたことはなかったけれど、確かにそんな風に噂になっているのなら先生達も知っているはず…ということは、知っていて何もしていない?それとも噂の域を出ていないという判断?
下手に教師と関わって魔女の魔力に気が付かれたくもないので特別どうこうしてもらおうなどとは考えていないが、確かに疑問だった。これも元の世界では頻繁だった学校側の虐め揉み消し問題とでも言うべきなのだろうか。
まさかこっちの世界に来てまでそんな闇を見る羽目になるとはなとエラは小さなため息をついた。
「…先輩?」
ひとり悶々と考えていたせいでエミーユを置いてきぼりにしていた。声を掛けられてハッとする。
「あ、いえ…。何でもないです。お気になさらず」
「そう、ですか?」
小首を傾げていたエミーユが急にハッとした顔になる。何か思い出したのだろうか。彼は制服のポケットに手を突っ込んで何かを取り出した。
「先輩…これ!使ってください…!…今更ですけど」
そう言って差し出されたのはハンカチだった。思わずエラはきょとんとする。
「いくら晴れてるからって風邪引いちゃいますよ…!!」
エラがきょとんとして動かないのでエミーユ自身がそのハンカチを持ってエラの濡れた制服や髪の雫石を払い始めた。水分を吸わせられるだけハンカチに吸わせる。
呆然とその様子をエラは眺めた。ちょっと思考が追い付いていなかった。一体何が起きているのかとハテナが飛ぶ。
制服や髪の雫石を払うエミーユはぶつぶつと何かを呟いていて、微かに漏れ聞こえてくるのは「女の子は体冷やしちゃダメなのに」とか「高校生にもなって幼稚な人がいるんだな」「制服が痛んじゃう」といったことだった。




