第六夜 ⑨
「へ?」
「リチアのことだってそうだ。名前で呼んでる」
いじけたように口を尖らせながらそう呟くイオニコフ。エラは思わずぽかーんと口を開けた。
…もしかして…名前を…呼んでほしかったってこと?だから機嫌が悪くなったの!?
そんなまさか馬鹿なと思う。でも、もし、そんなことがあるのだとしたら。呼べば、喜んでくれる?
「……」
自分で言って気まずくなったのかイオニコフはクッキーを頬張った。視線も少しだけ外している。そんな彼が少し子供っぽく見えた。
…ゲームのイオニコフってなんかもっと大人な感じがしてたけど…。
実際はこんな一面もあるのかもしれない。ゲームには出てこない面。エラは少し勇気を振り絞ってみた。
「あの、その…イオニコフ…様…?と、お呼びしても宜しい…ですか?」
これで失敗だったらどうしようかとも思ったが、そんなものは杞憂だったとすぐに知ることになる。彼の笑顔を見れば。
「…!!うん…!もちろんだよ…!!…ようやく名前で呼んでくれたね」
無邪気な笑顔だった。嬉しそうにはにかみながらエラの手を取った。
これがゲームならハートのゲージが一気に上昇するエフェクトが掛かったことだろう。と、そこでエラは思い出した。
…そうだ、これ…イオニコフルートのイベントだわ!林間学校の後、旧校舎を訪れることで発生するイベント…!!
イオニコフの好感度が一定以上で発生するイベントのひとつ。ゲームでは当然、主人公が起こすイベントだが、今回はその立ち位置にいるのはエラ・エーデルワイスだ。
…旧校舎での出会いのイベントといい、林間学校と今回といい…リチアであるはずの立ち位置が私でも発生している…。どれも好感度関係だし…本当に、彼の言うようにエラに対する好感度システムが存在しているってこと?
今までは頑なに有り得ないと思っていたことが、アイザックという別の視点を持つ者のお陰で有り得るものへと変わっていくのを実感する。本当にゲームのシナリオ通りにすべてが進むわけではないのなら、心までもが従うわけではないのなら、この破滅に向かう最悪のシナリオの結末も変えられるかもしれない。
それはエラにとって希望の光だった。
エラは軽く握られた手で彼の手を握り返す。それは予想していなかった行為だったのかイオニコフは少しドキッとした。ほんのり頬が桜色に染まる。
「…では、イオニコフ様。改めてこれからもよろしくお願いいたしますね」
エラは精一杯の笑顔でそう告げる。ここぞばかりに小首を傾げ少し恥ずかしそうに。いつかの雑誌で見た小悪魔な女の子特集とやらに載っていたモテクというやつだ。それを思い出しながら更にと上目遣いも取り入れる。
「…うん…こちらこそ…よろしく、エラ」
イオニコフは少しばかり照れて俯いた。それは初めて目にする笑顔のエラだったから。出逢ってから一度だって見たことがない可愛らしい笑顔。いつも澄ましたようなものか感情を殺したような、そんな顔しか見てきていなかった。ごく稀に違う一面も見てきたがこんな笑顔ではない。
…エラって…こんな風にも笑えるんだ…。
少し俯いたままちらりとエラを見る。彼女は視線に気づくともう一度笑いかけてくる。イオニコフはそれが嬉しかった。なかなか懐いてくれなかった猫がようやく懐いてくれかのような感覚と表現すればいいか。それでも、時折彼女から感じる不穏な魔力がイオニコフの顔に影を落とすのだった。




