1-19 黒衣の魔術師の魔法
バン=Aが草原をその巨体に似合わない速度で走る。バン=Aは蛇行するので、二人の許へ到達するには時間がある。そして、魔術師を凌駕した先には、二人が護る大ニゴラスがある。戦わなければならない。とはいえ、最早、田臥は歌えない。楽器を必要としないが故の失敗である。楽器を演奏するのであれば、肺活量なり、指のスタミナなりの問題であり、もう少し長時間の演奏に耐えうる可能性もあった。田臥はしわがれ声で黒衣の魔術師に言った。
「タカオ、時空魔法を使ってくれ。声が……出ない。これでは戦えない」
「了解したのでございます。田臥殿はよく戦ってくれたのでございます」
タカオはそれを田臥の敗北宣言と推定した。バン=Aが視認される方角を向き直り、右手を挙げた。時空魔法を行使する意思をもって右手を振り下ろせば、それは行われる。
しかし、田臥はタカオの腕をつかんで、最初期と同じように、黒衣の魔術師の時空魔法を阻止した。田臥は両腕をつかんだまま、首を振る。田臥はタカオの目を見て言う。
「違う、タカオ。そうじゃない」
タカオは怪訝な顔をする。田臥にその真意を問う。
「どういうことでございますか? まだ音楽魔法が続く、ということでございますか? 誰が見ても、いえ、誰が聞いても、最早、田臥殿にその能力は無いのでございます。ご無理をなさることはないのでございます。私がバン=Aを未来に飛ばせば、それで解決するのでございます。元々、そのつもりでございました。田臥殿はここまでよく戦ってくれたのでございます。この戦いは、おそらく、百年先の勇士にとって多大な糧となりましょう。あそこまで、バン=Aを傷つけたのでございます。百年先には誰かが倒すことができましょう」
タカオの目には涙が浮かんでいる。それは悲壮というよりは感動から現れた涙であった。今、この瞬間のタカオは、シャムセン寺院への帰還を悲しんでなどいなかった。ただ、友情によるコンサートに激するただ一人の観衆であった。そして、ただ、コンサートの終末を受け入れていた。
しかし、それを筋肉音楽家が否定する。
「違う、タカオ。バン=Aに時空魔法を使うのではない。俺に時空魔法を使ってくれ。そして、俺を二、三時間ほど前の状態に戻してくれ。そこには、まだ無事な声帯がある。そうすれば、また、俺は、戻した時間だけ歌うことができる」
タカオはその閃きに二つの理由から驚愕した。一つは、その方法に。確かに田臥の時間を戻すことで、田臥の声帯も歌うことができる状況に戻る。それは、戦闘の継続を意味している。もう一つは田臥の覚悟に、である。
「良いのでございますか? 私がその魔法を使えば、田臥殿の記憶は同じ時間の分だけ抹消されるのでございます。それは何らかの混乱を与える可能性があるのでございます。また、勿論、それは決して気持ちの良いものではございません」
筋肉音楽家は、それに真っ向から頷いた。まったく嗄れた声で叫ぶ。それは小さな声ではあったが大きな意志を持っていた。
「構わない。時間を戻した俺は歌い始める。そして、また時間が経てば歌えなくなる。歌えなくなるたびに、俺に魔法を使え。そうすれば、また歌うことができるから」
死にかけてもいない人間に、自分の利益のために時空魔法を行使する。そのことにタカオは躊躇した。
「早く! 早く! バン=Aが来てしまう。もうそこに迫ってきている」
田臥は急ぐように説得した。その瞳に映る意思に、黒衣の魔術師は大きく頷いた。最早、目に涙は無い。それよりも重要な感情がタカオの目を支配していた。
「……わかったのでございます。私は今から貴殿に時空魔術を行使する、それで良いのでございますね?」
田臥は先ほどよりも大きく頷いた。
黒衣の魔術師は、その最大の友、筋肉音楽家に正対した。そして、彼の草臥れた勇姿を見た。まったく、それは、神話、伝説、戦記、その他、古来よりの全てに勝る。
黒衣の魔術師はそれに最大の敬意を持ち、右手を振って、筋肉音楽家に時空魔法を行使した。
歌い手である田臥の状態は三時間ほど前に戻った。それによって声帯は快復し、再度の戦いを可能としていた。
タカオは田臥に語る。
「私は貴殿に感謝しているのでございます。共にバン=Aを打倒する、それは大変に素晴らしいことなのでございます。それは友として共にあることを可能とさせるのでございます」
田臥はそれに頷いた。
田臥の魔法が途切れてから、今まで、バン=Aは既にその距離をそれまでの半分ほどに詰めていた。しかし、まだ、大軍を展開するに足る面積は、バン=Aと魔術師の間に存在していた。田臥は『ラ・マルセイエーズ』の歌唱を再開した。先ほどまで、バン=Aを妨げていた兵力が復活し、また侵略者に立ちはだかった。
その光景に、タカオは勝利を確信していた。もうどうしても負けようがない。負けるはずがない。田臥の音楽魔法には、楽器の耐久力――この場合、声帯の耐久力――という限界があった。しかし、それは黒衣の魔術師による時空魔法と組み合わせることによって、無限の限界を得たのである。ここでいう無限とは、攻撃の無限を意味している。だから、既に、負けようがない。
そして、その通り、その後、田臥とタカオは、延々と攻撃を続けた。お互いに魔法を使い、その攻撃を永久のものとして。バン=Aの存在が世界史上最強であるならば、音楽魔法と時空魔法の組み合わせも世界史上最強であった。
ついに、バン=Aの体力に限界が訪れる。何時間も攻撃に晒され続けたバン=Aは何千発目かもわからぬ銃弾を受け、倒れたのである。バン=Aは非常に強靭であった。しかし、大ニゴラス西の草原において、その狂気の蛮行を終えたのであった。
ここに、百余年の時を経て、『マシル三国の外憂』が正しく終了した。
「ガッハッハ!」
「ガッハッハ!」
その場には、筋肉音楽家の高笑いと、それを真似た黒衣の魔術師の高笑いが響いた。
それは、まさしく、勝利の凱歌であった。二人の顔には喜悦が大いに浮かんでいた。
※ ※ ※
その日、大ニゴラスの西外縁部は、特に厳重な封鎖が行われていた。その状況にあっても、一人、自由に出入りできた人物がいた。マジャール神領を治める美丈夫王である。
音楽のみの音楽会を終了させた後、王は西外縁部で、魔術師の帰還を待っていた。二人は帰ってくるだろうか。もしかしたら、二人の魔法は失敗し、バン=Aが大ニゴラスに到達するのではないか、という不安を抱いてもいた。田臥とタカオが戦っている最中、西の最も高い建物から王は戦いを眺めていた。
戦いの様子は遠く見えていた。勿論、詳細には見えない。しかし、遠目であっても、事情を知らない者には刺激的に過ぎる風景が草原には広がっていた。だから、王は一人の従者や護衛を引き連れず、ただ待っていた。
今はもう戦いは終わっていた。雷鳴のような音は既に響かず、小さく見えていた何かの群れは消失していた。そして、一際大きな物体――王はそれをバン=Aである、と推測していた――が不動となってから、ある程度経つ。だから、もう戻ってきても良いのに、早く朕を安心させてほしい、と王は考えていた。そう、おそらく、二人の魔術師は戦いに勝利したのだ、という確信と安堵を持って、彼らの帰還を待っていた。
それから、更に数刻が経った時、視認可能距離に二人の人影を王は認めた。その時の王の歓喜は、語るに及ぶまい。王は最も素晴らしい終焉の形式で魔術師が勝利したことを喜んだのである。
だから、王は二人の魔術師が、治安兵に案内され、王のいる屋上へと姿を現したとき、二人を思い切り抱きしめたのである。
「よくやった。よくやった」
王は二人の魔術師を讃えた。
「ガッハッハ、我々にかかれば、バン=Aの打倒など容易いのです」
田臥も高揚のままに喜ぶ。
「田臥殿のおかげでございます」
タカオは謙遜し、友の義勇を誉めた。王はしばらく後、二人を離した。王はそのまま思案顔となり、そして二人に告げた。
「昨日、話した通り、朕は、そなた達二人に、多大なる恩賞を以って報いることとする。欲しいものがあれば、何なりと申せ」
その問いに田臥は答える。
「私は何も必要としておりません」
タカオも同様に答える。
「私は今回何もしていないのでございます。バン=Aを打倒したことは、全て、田臥殿の行ったことでございます」
王は目を細める。そして、快活に答えた。
「黒衣の魔術師には、百年前の勲功を報いる必要がある。それに今回、何もしなかった、ということではないであろう。具体的にどのように倒したのか、という点は後でゆっくりと王城で聞くこととして、決して田臥一人で倒した、ということではあるまい。あれほど強靭な敵と長く戦っていたのだ。筋肉音楽家が如何に素晴らしい音楽魔法を使ったとはいえど、黒衣の魔術師の協力があってこそであろう。それにしても……、軍隊を召喚することもできたのだな」
筋肉音楽家は秘密にしていた事実が暴露されたことに動揺する。
「ご覧になっておられたのでございますか?」
王はそれに頷く。音楽家は屋上の西端に立ち、西を眺めた。そこには先ほどまで戦っていた相手であるバン=Aの姿が見えた。田臥は王に対してその本意を伝える。
「今回は特例です。今後、私はこの『ラ・マルセイエーズ』による軍隊の召喚魔法を演奏するつもりはないのです」
「朕の命令であってもか?」
その田臥の拒絶に、王は意地悪な問いを重ねた。
「……それは、そうですね、どう答えましょうか……」
田臥はそれに歯切れの悪い曖昧な物言いをした。それを見て、王は笑う。
「ハッハッハ、良い、良い。朕はこの大ニゴラスが平和であることを望んでいる。大陸の玄関として現在の繁栄が続くことこそをだ。危急存亡の戦争となり、このマジャール神領が真実破壊と絶望の都となる寸前の攻撃を加えられれば、そなたの魔法を用いることに抗わない。しかし、積極的に、対外的な戦争を仕掛ける、ということはこれからも今後もしない。だから、今後も音楽魔法は、娯楽のために活用しよう」
田臥はその御言に軍人らしい敬礼を返す。それは田臥の筋肉と相まって様になっていた。
「今日の音楽会は愉快なものであった」
王は更に呟いた。田臥は問い返す。
「音楽会は開催されたのでございますか?」
「朕の指揮で、演奏を行った。聴衆も音楽を聴いておった。筋肉音楽家が召喚された第一の理由であるところの『この世界への音楽の普及』は一定の成功を収めておる」
と王は再度田臥を称賛した。王は言葉を続ける。
「だから、二人の魔術師には、朕からの褒章を受け取ってほしい。幸い、国庫には余裕がある。国を二人だけで護ったのだ。それは何よりも大きな英雄的行為である。何か申してみよ」
二人は黙して語らない。今は、ただ、勝利の余韻に酔いしれていた。考えることができれば、欲しいものはいくらでもある。しかし、戦いは精神と肉体に疲労と高揚をもたらしていた。それはあまり物事を考えることに向いていない状態であると言えた。
静かなる空の中、王が口を開いた。
「わかった、朕が二人に相応しい褒美を考えておく。あのバン=Aの死骸も朕が治安兵に命じて処理しておこう。本件に関して、記念の式典を開催し、二人の武功を讃えることにしよう。日程に関しては、田臥か学園を通じて、二人に伝えよう。黒衣の魔術師の欲しいものは朕も既に知っておる」
王は暗くなりつつある屋上から屋内へと歩いて行った。田臥とタカオの二人が残る。
「タカオの欲しいものなら俺も知っているぜ」
田臥はにやけながらタカオに言った。タカオは苦笑しながら確認する。
「何でございますか?」
田臥はそれに応える。
「かわいらしい犬耳獣人や絶世のエルフ美女、ロリロリなドワーフ娘などの奴隷を得て、目眩くハーレムライフをエンジョイすること、だろ?」
そう言って二人は笑った。
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・ルシェ・ド・リール『ラ・マルセイエーズ』(フランス国歌)




