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1-18 田臥の魔法

 「あれがバン=Aでございます」

 視界の先、小さく見える禍禍まがまがしい形を指差して、黒衣の魔術師は筋肉音楽家マッスルミュージシャンに告げた。世界史上最初にして現時点での唯一の人工魔物、『マシル三国の外憂』を引き起こした恐るべき存在、バン=Aは巨立して動じない。羽化したてのさなぎが如く、突如現れた景色を見ていた。バン=Aは百年前に受けた時空魔法の影響によって数瞬、青い空に困惑していた。

 「あれがバン=Aか」

 音楽家が呟いた。

 「バン=Aでございます」

 その独白に、唯一、バン=Aを見知っている黒衣の魔術師が応えた。その言葉の直後、田臥は袖を掴み、歌唱のために衣服の喉元を開けた。同時に風が強くなる。

 「ア、ア、アー!」

 大空に向けて田臥は声を張り上げる。まるで大ニゴラスに聞こえるかのように発声する。その声に田臥の存在を察知したのか、バン=Aは二人の魔術師を認め、突進を開始した。人工的に攻撃性を組み込まれたバン=Aの本能は全ての存在に対して殺戮さつりく蹂躙じゅうりんを命ずる。

 「では、始めよう」

 田臥は上空を見て、腕を開いた。それにタカオは首肯する。それを合図に、筋肉音楽家マッスルミュージシャンは高く大きく歌い始めた。

 祖国フランスの人々に敵との戦いを告げる第一番が始まると同時に、音楽魔法が展開される。フランス革命戦争の開戦から五日後に作られた音楽は、史上最初の国民軍をこの世界に呼び出す。騎馬、大砲、そして何よりも大量の歩兵による軍隊がバン=Aと対峙する。バン=Aの突進は止まらない。田臥も恐れずに歌いあげる。タカオはただ一人傍観している。ドカン、ドカンと大砲の音が鳴り響く。しかし、バン=Aの動きは速い。大砲の弾道の先に、バン=Aはいない。弾はバン=Aに当たらない。大砲は虚しく大音を発する楽器と化した。

 田臥はそれに対するために歌う。歌声を散らす強風は、更に強くなる。台風の域には達しないが、それでも強い。田臥の迷彩服が揺らめく。風が大いなる歴史の変わり目に吹き荒れ、国家存亡の戦いを告げた。バン=Aはその憎むべき大敵として、動くたびに、フランス軍を蹴散らしていく。しかし、田臥に従いし大軍は、その役目を徐々に果たす。幾千の味方が倒されようと、バン=Aに立ち向かい、侵略者に弾創を中心とした僅かの負傷を作る。自らを圧倒する敵と戦う。

 田臥は感情を込めて更に大きく歌い上げる。情熱的に、扇動的に、圧倒的な技量をもって。とはいえ、歌の巧拙は魔法の効果に影響を与えない。一体の狂魔によって、次々と兵卒は蹂躙される。一人、二人ではなく、百人、二百人と倒れる。しかし、それでも、圧倒的に数に勝る軍隊がバン=Aへと肉薄していく。やがて、万を超える兵隊は、ぐるりとバン=Aを取り囲んだ。

 やがて、軍隊の包囲によって、その突行を止めたバン=Aに対して、大砲が当たり始めた。一つ一つが与えるダメージは少ないが、それが十、二十、と当たれば、まったく音に聞こえしバン=Aといえども、負傷を負う。裂傷ほどには及ばず、擦過傷並みとはいえども負傷は負傷。それは重なって重なる。

 『ラ・マルセイエーズ』はサビ――最も盛り上がる部分――へと差し掛かる。市民、国民に対して武装を求める言葉が兵士に勇気を与えているのか、彼らは三国を滅ぼした敵に恐れなく立ち向かう。多重に発生する旋風の中、ただ友を助けることを目的とした魔法は繰り広げられる。その魔法によって生み出された実体のある幻兵は田臥の意図に正しく攻撃を繰り返す。壱陣が敗れれば、弐陣を、参陣を、と押しては返す波のように、数をたのみとした兵法通りの攻撃を貫く。

 一番の歌詞が歌われる一分程度の間、ひたすらに攻撃は続いた。統率の取れた個々の突撃は繰り返された。しかし、一方で、厳然たる事実があった。彼らの攻撃は足止めの用しか成していない。与える攻撃の効果は微小で、おおよそ、僅かな時間の攻撃ではバン=Aを倒すには及ばない、ということは自明の理であった。『ラ・マルセイエーズ』には時代、様相、目的に合わせた種々のヴァージョンがある。その中でも最も知られている原版オリジナルは第七番までその歌が続く。そして、勿論、田臥はその総てを諳んじていた。

 そして、田臥は最後の七番まで歌い続けた。その兵隊を維持するために、累計十分間、バン=Aを注視しながら歌い続けた。

七番の最中に入った頃には、見た目に軍の規模は半減していた。バン=Aはいまだ自立している。十分前のバン=Aが現れた直後の様態と比べれば、多少、視認できる程度に傷はついている。一方で、それが致命傷と成り得るか、と問われれば、勿論、否であった。仏語でいえば、ノンであった。

だから、当然のこととして、七番の最後、繰り返される――ルフラン――と指示される部分が終わった瞬間であっても、バン=Aはその生命活動を停止させていなかった。

田臥は最後のsに該当する音を余韻大きく歌い上げた。一曲はここで完了した。そして、バン=Aを囲んでいた大軍は消失した。

 バン=Aは、再度、大ニゴラスもしくは、二人の魔術師へ向けた行進を開始した。バン=Aの蛇行した突進を邪魔していた魔法が消えた状況を見て、タカオは慌てる。

 「倒すことができなかったようでございます」

 一方で、筋肉音楽家は瞑目めいもくした。バン=Aと二人の魔術師にはまだ距離がある。タカオは、田臥の魔法を失敗とみなして、右手を振りかぶった。その手は震えている。もしかしたら、音楽魔法は成功し、自身の自由を得ることができるのではないか、というタカオの期待は小さくなっていた。そして、そこには、百年間の隠遁に対する絶望がまた芽生えた。

 しかし、右手を振り下ろして時空魔法を行使しようとした時――バン=Aを百年後に送ろうとした時――、タカオの腕は田臥によって掴まれた。田臥はタカオの時空魔法を阻止した。

 「なにをするのでございますか? 確かに、今は離れております。しかし、いずれバン=Aは、ここまで――私たちの許まで――来るのでございます」

 そのタカオの叫びを田臥はきつく睨んで制止する。興奮からまばたきが減っていた両眼は充血し、若干の涙があった。

 「早とちりするんじゃない。長い歌曲を全て歌い上げることには疲労を伴う。まだ敵との距離は充分にある。ほんの少し休憩しただけだ。俺の戦いはまだ終わっていない。ガッハッハ、俺の魔法はまだ続く」

 そう言って、また田臥は一歩を踏み出した。そして、また両腕を開き、顔を遠方へと向けた。独白にも似た田臥の言葉が続く。それは、タカオの安堵を誘う目的もあった。

 「もう一度歌えば、我々の軍隊は復帰する」

 その言葉の目的通り、タカオの精神は安定した。田臥はまた『フランス国歌ラ・マルセイエーズ』を歌い始めた。それと同時に、先ほどと同様の軍隊が魔術師の前に現れた。


※  ※   ※


 朝から吹き続けていた風は、今、まったく止まっていた。筋肉音楽家マッスルミュージシャンによる最強魔法――『ラ・マルセイエーズ』――の行使は既に十一度に及んでいた。

 黒衣の魔術師に与えた当初の言葉とは異なり、田臥は小さくなく狼狽していた。即ち、バン=Aの異常な強さに対してである。その演奏会は二時間に及んでいた。田臥は、歌唱を専門として学んだものではない。たしかに、フランスへ留学していた頃に、サッカーW杯の会場で応援のために歌い続けたことはあった。しかし、あくまでも楽器こそ彼の専門であって、声楽を専門的に訓練したことは無い。その自衛隊音楽隊という特殊な事情により、楽器の整備、調律、修理、回復を行うことはできても、歌いながら自らの喉を癒す方法は知らない。

 その狼狽の中であっても、まるでリピート再生機能が付いた音楽再生機プレイヤーのように繰り返し歌い、死しても良い軍隊を作り続けていた。

 当初、田臥は、バン=Aを見誤っていた。マシル三国連合軍が敵わなかった敵に対するとはいえど、剣や弓、槍などの原始的な武器ではなく、大砲や銃剣といった近代的な武器をもってすれば容易く倒すことができると考えていた。呼び出される軍隊は、その員数も多い。剣と魔法のファンタジーを舞台としたこの世界ではまさに最強と言えた。だからこそ、田臥はその勝率を見誤ったのである。

 焦燥は歌声に陰る。時折、そのフランス語が怪しくなる。声が震える。常人であれば、声が出なくなってもおかしくない。しかし、田臥は元自衛隊員。たとえ音楽隊とはいえ、元いた国では唯一戦地へ赴くことを意図した組織に所属していた。その矜持が音楽魔法を支えていた。田臥の喉が潰れて発声を不可能になるか、それともその前に蓄積したダメ―ジがバン=Aを倒すか。一体と一人の戦いは、持久戦の様を呈していた。

 既に集中せずとも、歌うことができるほどに、音楽魔法は回数を重ねていた。初期に比べれば、圧倒的に、バン=Aの傷は増えている。それは致命なのか、致命でないのか。一度も倒されたことが無い魔物の判断などつかない。

 十二度、十三度、十四度、十五、十六、十七、十八。決着はつかない。

 客観的に見れば、無傷の魔術師に対して、有傷のバン=Aは劣勢に立っている。今も小銃の弾丸がバン=Aの既にあった傷に当たった。また、バン=Aは出現時とほぼ同じ位置にいる。田臥の兵隊が現れる限り、バン=Aは有効な進撃ができない。草原は人と魔物の戦舞によって、土を大きく露出させている。大地が幾重に傷を受けようと、友を人間として生かすために田臥は歌い続けた。

 そうして、戦いは続いた。段々と田臥の声はれ、一度目の歌唱ほどの大音声だいおんじょうは維持されていない。それでも音楽魔法は行使され続けるだけの声量はしばらくの間、維持されていた。

 段々と魔術師の優勢は終わりに近づく。人間の限界が近づいていく。

 しかし、もう限界。根性と忍耐だけで歌い続けていた田臥の喉は、二十七度目の『ラ・マルセイエーズ』の途中で――第三番、三度目のルフランの最中において――酷使され続けた声帯は、その動きを止めた。

 必死に、必死に、必死に、必死に、筋肉音楽家マッスルミュージシャンは発声を試みる。まったく、彼の声帯は有効に震えない。かすれた声で精一杯戦う。しかし、ああ、非情にもそれを歌と世界は見做みなさなかった。

 音楽が断絶するとともに、巨万の兵も同時に消えた。田臥の声帯が復活しない限りは、その兵は復活しない。


 バン=Aは遮蔽物しゃへいぶつを無くし、神速蜥蜴しんそくとかげに匹敵するといわれた速度で急進を再開した。


 作中に扱われている楽曲は総て権利者の死亡からの時間経過により、著作権が消滅しています。


・ルシェ・ド・リール『ラ・マルセイエーズ』(フランス国歌)

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