1-16 抜け出した音楽家
マジャール神領第一都市から西に徒歩で十五分ほどの場所に、草原がある。その場所に、一人の魔術師が座っていた。その男は、常に光沢のある黒衣を纏い、心情を出さない表情で存在していた。
その男――エインツ=ハルバーツ=ユグオンドルド=モシスラ=タカオ=ニゴール=マジック――は百年前の伝説と同様、孤独に敵を待っていたのである。
彼の敵は視界に突然現れる。しかし、現れる時刻は正確には不明。だからこそ、彼は単独、只管に、敵を待っていた。
そう、本来、バン=Aは、百年前に、一万八千の大軍を畏怖せしめた敵であり、タカオごとき非才の魔術師が対抗できるはずもない。しかし、タカオは、転生者の孫という悲劇の担い手でもあった。
彼は百年前と同じ覚悟を持って、敵を待っていたのである。
草原を風が戦ぐ。まるで敵の襲来を告げるかのごとき風の流れに、黒衣の魔術師は心を閉ざした。
「言っておくが、転生者は一人じゃねえ、ガッハッハ!」
タカオは、後ろから聞こえたその声に立ち上がり、短剣をとって、様にならない右自護体の構えをとる。
「田臥殿でございますか」
黒衣の魔術師は、その鋭い筋肉を持つ怪物に確認する。
「おう、そうだ」
田臥は大音声で答える。
「何をしに来たのでございますか? 本日は、エインツ祭にて、音楽魔法を奏でられるはずではございませんか?」
黒衣の魔術師は、筋肉音楽家の目的を尋ねた。田臥は大笑して魔術師の問いに答える。
「タカオを助けに来たぜ、ガッハッハ!」
「どういうことでございますか?」
魔術師は表情を変えず、ただ説明を求める。これから行う魔法は魔術師に少なくない代償を求めるものであり、それを前回の行使以降百年間に及ぶ寺院での待機という形で、タカオは払っていた。
「もう一度確認するぜ、タカオが今からバン=Aとやらに使う魔法は、百年後にバン=Aを送る時空魔法なんだよな?」
魔術師は田臥の問いに首肯を以って答える。その表情はまるでエルフ族の長老のように平坦だった。
「ならば、百年後はどうする?」
「……」
田臥の言葉は魔術師に届いている。タカオは黙して語らない。
「どうする?」
筋肉音楽家は時空魔術師を言葉で追い詰めていく。それは図らずも友を持ってしまった魔術師の誤算だった。実際、この問いの答えを田臥は知っていた。タカオは吹き抜ける草の匂いに言葉を乗せる。
「シャムセン寺院に戻るつもりでございます。そして、また百年後に私がこの街を護るのでございます」
その言葉が再度の沈黙を場に呼び起こした。一陣の風が草を僅かに動かし、鳥はそれに乗ってどこまでも飛ぶ。
その沈黙を破ったのは、やはり、田臥だった。
「なあ、おまえはそれでいいのか?」
「どういうことでございますか?」
丁寧な言葉遣いのまま、挑戦的に、――おまえはわかっているのか、と問うような雰囲気で――タカオは田臥に問いかける。その意思に、筋肉は意思を以って応える。
「今からお前さんは魔法を使う。それは百年後の未来に、バン=Aを送る魔法だ」
筋肉音楽家は、優しくゆったりと魔術師に語る。その言葉は確かに魔術師の耳に届いていた。田臥は友への言葉を続ける。
「そして、お前さんは、この春と同じように、百年後に現れて、バン=Aをまた百年後に送る。バン=Aの被害は発生しない。『マシル三国の外憂』の悲劇が繰り返されることもない。全てはその方法で解決される。これがお前さんが行おうとしている魔術だ」
別段、何かを問われたのではないが、魔術師は静かに頷く。
「さっきまでは、お前さんはてっきり『マシル三国の外憂』が解決してすぐに、自分を時空魔法で百年後の現在に送ったのか、と思っていた」
魔術師はその間違いを正す。
「いえ、それは違うのでございます。私は、真実、時が止まった場所――シャムセン寺院――に籠っておりました」
「やはり、そうなのか。もし、お前さん自身に時空魔法が使えるのであれば、この後、百年後に飛べばいい。シャムセン寺院に戻る必要がある、ということは、それができないということだよな」
予想された魔術師の返答に田臥は呟いた。田臥はタカオに確認する。
「自分には時空魔法を使えないのか?」
「使えないのでございます」
それにタカオは答えた。
「音楽魔法は自分に使用することができる。一体、なぜ使えない?」
また、田臥の問いにタカオは答えた。
「おそらく、時空魔法の一部については、使用できると思うのでございます。しかし、おそらく、自分を百年後に飛ばす魔法は使えないのでございます。音楽魔法は、魔術使用中、術者がそのままその場、その時に存在し続けるのでございます。一方で、百年後に私自身を飛ばすような魔法の場合には、術者が使用中にその時刻から消失するのでございます。果たして、それでも魔法は成功するのか、不明なのでございます。また、もし、仮に、自身の時空移動が可能だったとして、その時空魔法がどのように行われるのが不明なのでございます」
そこで、黒衣の魔術師は、長広舌を一旦切った。田臥は考える。そして、それを確認する。
「つまり、体感時間で一瞬の間に時空移動が行われない可能性がある、ということか……それは使えないな」
黒衣の魔術師は、顔を悲愴に染めて説明を続けた。
「もしかしたら、百年後に跳ぶのに、どことも知らない空間を体感時間で一万年以上漂い続けることになる可能性もなくはないのでございます。少なくとも、悪意のない動物に時空を跳ぶ魔術を使うことを祖父によって禁じられて育ったのでございます」
「一万年以上の禁固刑か……それは確かに非人道的に過ぎる。バン=A相手にしか使えないな」
田臥はそう言って寂しく笑った。筋肉音楽家はそこでふと沸いた疑念を質す。
「治安兵からの報告で、レクラシラツ商会大ニゴラス支店で奴隷の治療をした、と聞いているぜ。あれは非人道的でないのか?」
黒衣の魔術師は首を右に傾け、頭を掻きながら答えた。
「知っているのでございますか。あれは、時間を巻き戻したのであって、時間を跳んだわけではございません。存在がある時間から消えたということは一切ございません。また別物なのでございます」
そこで、黒衣の魔術師は、静かに笑い、溜息を吐いた。
「とにかく、私は自らを過去、未来に飛ばす、ということはできないのでございます。ですから、今日、バン=Aを未来に飛ばしましたら、また、シャムセン寺院に戻るつもりなのでございます。次に下界に降りるときは百年後になるのでございます」
田臥が次の提案をする。
「普通に生活して、ある程度の時期に自分を若返らせることはできるよな?」
タカオは首を振ってそれを否定する。
「できるのではございますが、普通の生活には事故死、突然死、などの危険があるのでございます。その場合、子供を作れば良いのではございますが、その場合でも子供が時空魔法を絶対に習得できるのではございませんから……私以外誰もバン=Aの災禍を回避できない以上、やはり、私の取るべき道は一つしかないのでございます」
その言葉によって、また、二人には沈黙が現れた。
※ ※ ※
二人の特殊な人間が、草原で語らっていた時、王は中央通りを走っていた。騎馬も馬車も、今日の混雑では用いることができない。王は供を一人連れて走っていた。
「陛下、筋肉音楽家は、祭りが始まった少し後に、西の立ち入り禁止区域を通って、大ニゴラスの外に出た、と治安兵から報告が上がっております」
王の側近が王に報告を上げる。王はその言葉を聞き、ただ一言、
「然様か」
とだ言った。困惑と焦燥にある臣下は王に意見を求める。
「いかがいたしましょうか。開演時刻まで僅かでございます」
その言葉に、王は応える。
「音楽家には大衆より個人を優先して演奏することがある。それが今日であることは疑いない。急げ!」
美丈夫王は人を掻き分けながら走っている。それを民衆は奇異と好奇、ちょっとした憧憬の目で見ていた。
「田臥殿が何をしに行ったのか、ご存知なのですか?」
王の訳を知った口調に、臣下は当然の問いを王に発した。
「知っておる。しかし、それは、そなたには言えぬ。そなたの想像を超えた難事に立ち向かいに行ったのだ。それは朕にも立ち向かえぬ。立ち向かうことができるのは、ただ、黒衣の魔術師と筋肉音楽家のみだ」
その王の答えに、側近は思案顔をした。王の走行に側近も従う。
「では、どこに向かって走っているのですか?」
そして、王にその行き先を問うた。息も切らさず、王は走りながら答える。中央通りの先を指差す。
「演奏会会場だ」
「何をされるのです? 演奏会中止の伝達ですか? その程度のことでしたら、私がします」
側近が王に進言した。王はそれを否定する。
「否、魔術師一人が百年ごとに耐えれば、我が民は平穏に暮らすことができる。朕はその犠牲を避けるため、国の民を彼の代わりにすることはできぬ。であれば、せめて、それを避ける機会を彼らには与えたい……」
王の独白に側近は理解が及ばない。しかし、側近はその王に何らかの意図と覚悟を見出し、それに従った。ただ、走ることに集中して、会場を目指す。
「民衆に触れを出せ。今日の演奏会は朕が指揮を振る」
王は側近に命令を出した。側近は、それに驚く。もう演奏会の会場が見えていた。田臥の音楽魔法は、一般的な魔法とは異なり、人を幸せにすることに長けている。当然に、エインツ祭の人気演目の一つであり、大勢が集まっていた。
「できるのでございますか?」
側近はその王の行動に疑問を呈した。それに王は答える。
「朕が音楽を奏でても何も現れぬ。しかし、それでも良い。筋肉音楽家は、本当のエインツ祭に向かっておる。であれば、朕とても何かを為さねばならぬ。であれば、朕がこちらのエインツ祭で音楽家の代理を務めよう」
王の実行に、臣下は反しない。
「曲目はご存じなのですか?」
側近は王に確認をした。王は走りながら、それに力強く頷いた。
王は演奏会の会場に到着した。多くの若い女性は、その美丈夫の姿に歓声を挙げる。その歓声は王への注目を集め、緩慢に大衆へ王の存在を伝えた。
王は最前の演壇に設置された指揮台へと駆け上る。思いがけない人物の登場に、楽団員は目を白黒させている。指揮台に立った王は演奏者たちに指揮者の交代を告げた後、それを観衆に伝えるべく振り向いた。
「本日はエインツ祭音楽会にお集まりいただき、まことにありがとうございます。本来であれば、ここに立っているべきは、かの高名な音楽魔法の使い手であり、ハルバーツ学園の音楽教師でもある田臥龍一郎《タブセ=リュウイチロウ》です。しかし、本日、急遽、極めて重要な所要ができたため、ここで指揮棒を振るうことができません。代わりに朕が指揮を振らせていただきます。音楽魔法は行使することができませんが、本来の音楽が持つ素晴らしさを味わっていただければ、と思います」
そこまで一息に言って、王は演奏者の最前にいる弦楽器奏者に視線を送った。その演奏者は頷く。最も弦楽器の扱いに慣れているその奏者は、自分が音で周囲を先導する、という気合と覚悟を持っていた。ヴァイオリン第一奏者は立ち上がり、一礼すると、また座った。
「では、演奏者の準備も整いましたので、一曲目の演奏を始めたいと思います。一曲目は、ジョルジュ・ビゼー。戯曲『アルルの女』組曲第二番より『ファランドール』」
演奏する曲目を大きく宣言すると、王は聴衆から演奏者に向き直る、右手を上げる。田臥は、自身が留学していたフランスの民謡を基としたこの曲を、大変気に入っていた。また、演奏時間も短く、祝宴の曲であるために華やかであり、技術的にも容易く、チューバ以外の全ての編成楽器を登場させることができるので、演奏会の最初の曲としてよく用いていた。何より、田臥が指揮を振ると、演奏中、楽しく踊る人々が魔法の効果によって現れる。ゆえに、聴衆を幸せにする、という音楽魔法の神髄を表す一曲である、とも言えた。
王は右手を振りおろす。それとともに、最初の一音が奏でられた。
作中に扱われている楽曲は総て権利者の死亡からの時間経過により、著作権が消滅しています。
・ジョルジュ・ビゼー 戯曲『アルルの女』組曲第二番より『ファランドール』




