第3話 四つの証明
夜明けの光が、帝国司法局の窓を白く染めていた。
アウラ・ロングスモンスは、第三捜査室の机に向かっていた。
倉庫から戻ったのは、まだ暗いうちだった。
着替えはしたが、眠ってはいない。
ペンを持つ右腕を上げるたび、脇腹の奥で鈍い痛みが広がる。
肩は、腕を横へ開くと違和感が残った。
それでも、彼女は手を止めなかった。
記憶が新しいうちに、全部を紙へ移さなければならない。
倉庫の構造。
正面口と、裏手の荷受け道。
小部屋の位置。
商談区画の板壁が、天井まで届いていなかったこと。
ブルが現場の男と交わした言葉。
四という人数。
先方の船。
支払いの半分を先に。
皇弟ウィリディスが裏手から入ってきた時刻。
護衛の数。
交わされた会話の一語一語。
そして、自分が桜花章を起動した瞬間。
ペン先が紙の上で止まった。
――そのあとのこと。
メリックスに見つかった経緯。
ウィリディスが護衛に囲まれて裏口へ向かった姿。
追える位置にいて、追わなかった判断。
彼女はそこを、削らずに書いた。
小部屋にいた四人。
目の前のメリックス。
胸元の記録。
司法局が来るまで現場を維持する必要。
その四つを秤にかけ、皇弟の背中を見送ったこと。
正しかったかどうかを書く欄はない。
何をどう判断したかを書く欄があるだけだ。
ペンを置いたとき、窓の外はすっかり明るくなっていた。
倉庫で結び直した銀の髪も、いつの間にかいくらか緩んでいる。
アウラはそれを解き、いつもの高さで結び直した。
きつく。
うなじの線が出るように。
メイドではなく、捜査審問官として今日を始めるために。
◇
「封印の確認をお願いします」
証拠担当の司法官が、机の上へ小さな箱を置いた。
中には、銀の桜。
昨夜、メイド服の胸元にあったものが、今は司法局の封印紙に包まれていた。
「真正性の検証は、鑑定担当で行います。使用者認証、記録時刻、連続性。改竄の有無。この場では封印を解きません」
「お願いします」
アウラは、封印紙へ署名した。
それを最後に、桜花章は彼女の手を離れた。
――ここから先、あの記録は自分の物ではない。
司法局の証拠だ。
◇
司法局長官室には、すでに人が集まっていた。
ブラオン・ロングスモンスが、机の上に押収品の目録を広げている。
その横にアーレス・ブロウ。
証拠担当が一人。
アウラが入ると、ブラオンは顔を上げず、目録を指で叩いた。
「四十七包。移送名簿三冊。裏帳簿らしきもの一冊。国外の取引先との書面が数点。それと、お前の報告書」
「はい」
「皇弟を見たと書いてある」
「見ました」
ブラオンはようやく顔を上げた。
「皇弟を見たという報告だけで動けば、こちらが潰される」
「では、動かないのですか?」
「逆だ。報告ではなく証拠で動けるよう、今から全部押さえる」
彼は目録の一枚を、アーレスの前へ滑らせた。
「エイティゴ商会の本店。残る二つの倉庫。令嬢たちがいた屋敷。会計の保管場所。全部同時に入れ。向こうが帳簿を燃やす前にだ」
「承知しました」
「倉庫から現物と帳簿が出た以上、商会への捜索は正当だ。皇弟の名前は、令状のどこにも書くな。まだ書ける段階ではない」
アウラは一歩、机へ近づいた。
「私も捜索に――」
「駄目だ」
即答だった。
「お前は今日、その報告書を正式な証言調書にする。それから医務室だ」
「動けます」
「動けるかどうかを聞いておらん」
ブラオンは、彼女の脇腹のあたりへ一度だけ視線を落とし、すぐに目録へ戻した。
「お前は、この事件で皇弟を直接見た唯一の司法官だ。その証言の重みを、疲労と負傷で減らすな。記憶が濁れば、あの夜の価値が落ちる」
言い分に、隙がなかった。
娘を案じているのかもしれない。
だが口から出ているのは、証人の保全という職務上の判断だけだ。
「――承知しました、長官」
アウラは頭を下げた。
◇
医務室で脇腹に包帯を巻き直されているあいだ、アウラは考えていた。
昼過ぎ、彼女はアーレスを呼び、長官室へ戻った。
「捜査方針について、提案があります」
ブラオンが眉を上げた。
「桜花章は、本審問まで開示しません」
アウラは言った。
「それから、本審問まで、私はブルと皇弟殿下の前には出ません」
部屋が静かになった。
アーレスが眼鏡の位置を直した。
「理由を伺っても?」
「あの二人には、あの夜の女が何者だったのか分からないままでいてもらいます」
アウラは、机の上の目録を見た。
「ブルは、潜入者がいたことを知っています。皇弟殿下も、銀髪のメイドと、胸元の桜を見ました。ですが、どちらも、それが誰で、何を持ち帰ったのかは知りません」
「知らないままにしておく、と」
「ええ。自分たちが何を知られているか分からなければ、人は自分に都合のよい嘘を選びますから」
ブラオンが、指で机を一度叩いた。
「聴取には出ないのだな?」
「出ません。ブルの聴取も、皇弟殿下の事前聴取も、アーレスに任せます。私は書面と証言の整理に回ります」
「主任捜査官が、被疑者の前に一度も出ない捜査か」
「主任捜査官が、最後に出ます」
ブラオンはしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「――悪くない」
それだけだった。
アーレスが小さく息を吐く。
「では、実務はこちらで組みます。聴取の担当、記録の分離、殿下側への通知内容。ロングスモンス捜査官の名が、被疑者側へ届かないように」
「お願いします」
アウラは、机の上に紙を一枚置いた。
「それと、証明しなければならないことを、四つに分けました」
紙には、簡潔に四つの項目が書かれていた。
一、令嬢たちが、奉公ではなく、本人に隠された目的で移送されていたこと。
二、ブルが、現場任せではなく、事業を主体的に管理していたこと。
三、秘密倉庫の正体不明の荷が何であり、どの輸送網で運ばれていたか。
四、皇弟殿下が、どこまで犯罪を認識し、金を何に使っていたか。
「四番目については、まだ何も分かっていません。金が動いていることは推測できますが、どこへ流れたのかは、追ってみなければ」
「追うのは私の仕事ですね」
アーレスが紙を取った。
「何を証明するかは、あなたが決める。何で証明できるかは、私が探す」
「ええ」
「桜花章は?」
「四つの外側に置きます」
アウラは、すでに証拠保管へ回された桜花章を思い浮かべた。
「桜花章を中心にしてはいけません。あれは、最後にそれぞれの証拠をつなぐためのものです」
アーレスは、四つの項目が書かれた紙を丁寧に折り、懐へ収めた。
四つの項目を、証拠で埋めていくのは、ここからだった。
◇
屋敷の捜索から、押収品の第一報が届いていた。
カリーナたち四人は、司法局の保護室にいた。
聴取は、アーレスと記録担当の司法官が、一人ずつ別々に行った。
アウラは同席しなかった。
顔見知りの自分が横にいれば、証言を無意識に誘導しかねない。
四人が別々に語り、それでも内容が一致することにこそ意味がある。
彼女は、廊下の向こうの部屋で、聴取の記録を読んでいた。
四人の証言は、細部の言い回しこそ違ったが、骨格は一致していた。
家の債務を減らすための奉公だと説明された。
奉公先を具体的には知らされていない。
給与の額を把握していない。
手紙は商会の者へ預けるしかなかった。
先に出た令嬢たちから、返事は一通も来ていない。
出発は、当初の予定より突然早められた。
倉庫の小部屋へ、外から閂を掛けられた。
証言だけでは、まだ事件にならない。
だがアウラは、それらの隣に、押収された予定表を並べた。
カリーナ・リンドの欄には、当初の出発予定日がそのまま残っている。
その隣に、移送名簿。
同じ夜の便に、四つの番号。
名前は、どこにもない。
◇
聴取が終わったあと、アウラは保護室の扉を叩いた。
カリーナが顔を上げた。
入ってきたのは、濃い色の司法官装束を着た若い女だった。
高い位置で結い上げた、長い銀髪。
緑色の瞳。
カリーナの目が、その髪に止まった。
「……あなた」
声が出るまで、少し時間がかかった。
「アウレリア……?」
アウラは扉を閉め、椅子に座った。
そして懐から、黒い革張りの小さな手帳を取り出した。
開いて、カリーナへ向けた。
内側には帝国司法局の紋章と認証印。
その下に、名と官職が記されていた。
――アウラ・ロングスモンス。
帝国司法局、捜査審問官。
「アウラ・ロングスモンスです」
アウラは言った。
「あの屋敷では、アウレリアと名乗っていました」
カリーナは司法官証と、目の前の銀髪の女を何度か見比べた。
「侯爵家の……」
「それは、この事件には関係ありません」
アウラは静かに言った。
「帝国司法局の捜査審問官として、あの屋敷へ入りました。あなたの世話係になったのも、捜査のためです。それは、正直に申し上げます」
カリーナは膝の上で指を組んだ。
「……ご令嬢が、メイドとして」
「司法官が、です」
アウラは訂正した。
「メイド服を着て掃除をしていたのは、侯爵令嬢ではなく、捜査官です」
カリーナの表情が、わずかに変わった。
驚きの質が変わったのだと、アウラは思った。
「お願いがあります」
アウラは言った。
「特別審問廷が開かれます。そこで、あなたに証言をお願いすることになるかもしれません」
「……特別審問廷」
「相手は、皇弟殿下です」
カリーナの手が、きつく組み直された。
「あなたが屋敷で経験したこと、倉庫で経験したことを、殿下とブルの前で、もう一度話していただくことになります。つらい話です。断っても、あなたの保護は変わりません」
アウラは、そこで言葉を切った。
急かさなかった。
カリーナは、長いあいだ窓の外を見ていた。
あの屋敷の窓辺で、そうしていたときと同じ姿勢だった。
やがて、彼女は言った。
「ミーナ様は、返事をくださいませんでした」
「はい」
「ソフィ様も……あの方たちが、どこへ行かれたのか、まだ分からないのですよね?」
「分かりません」
カリーナは、視線をアウラへ戻した。
「私が黙れば、あの方々は最初から存在しなかったことにされます」
震えてはいなかった。
「証言します」
アウラは頷いた。
「ありがとうございます」
彼女は、少し間を置いて続けた。
「一つだけ、お願いがあります。私がアウレリアだったことは、審問廷の日まで、どなたにも」
「……分かりました」
アウラは立ち上がり、扉を開けた。
廊下へ出る前に、一度だけ振り返った。
カリーナは、もう窓の外を見ていなかった。
真っ直ぐに、こちらを見ていた。
◇
同じころ、アーレス・ブロウはエイティゴ商会の本店で、帳簿を読んでいた。
表帳簿は、整いすぎているほど整っていた。
融資。
奉公先の斡旋。
商品輸送。
国外取引。
どれも合法で、どれも帳尻が合っている。
彼は、秘密倉庫から押収した移送名簿を横に置き、日付を一つずつ突き合わせた。
半刻ほどで、線がずれ始めた。
表帳簿に存在しない夜間の輸送便。
奉公先として家族へ伝えられた土地と一致しない引き渡し先。
同じ日付に二重計上された馬車。
裏帳簿を開く。
令嬢の名前はない。
あるのは番号と略号だけだ。
だがその番号を、国外取引先との書面へ当てると、同じ日付、同じ人数、同じ船便が対応した。
表では「奉公人の雇用」。
裏では、引き渡し人数と、対価。
アーレスは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
令嬢本人へ示した契約とは別に、第三者へ身柄を引き渡す契約が存在している。
書面の上でも、それが確認できた。
◇
「四十七包、すべて同一です」
鑑定担当が、報告書をアーレスの前へ置いた。
「帝国法で禁制対象となっている薬物に間違いありません」
アーレスは、包みに付けられた番号の一覧を裏帳簿と並べた。
一致する。
同じ記号は、輸送記録にもあった。
令嬢たちを運ぶ馬車と、この四十七包が、同じ便に載る予定だった。
「人の荷に混ぜろ」という言葉が、書面でも裏づけられた形だ。
もう一つ、アーレスは別の一枚を取り出した。
アウラの正式報告書に記されていた、ブルの一言。
――先方の船が明後日には。
港湾の記録を照会させると、該当する定期輸送便が一隻あった。
国外側の荷受け人の名。
過去の寄港履歴。
その履歴の日付は、屋敷から令嬢が「奉公へ出た」とされる日付と、いくつも重なっていた。
過去に送られた者たちの、行き先の手掛かりになる。
アーレスは、その船便の名を、別の紙に書き写した。
今すぐには使えない。
だが、いずれ必要になる。
◇
ブル・エイティゴの聴取は、司法局の聴取室で行われた。
担当はアーレス。
記録担当が一人。
アウラは、いない。
ブルは、拘束されている人間とは思えないほど落ち着いて座っていた。
「当商会は、正規の雇用斡旋を行っただけです」
彼は言った。
「令嬢方の細かな移送先は、現場の責任者に任せておりました。倉庫へ行ったのは、国外輸送の確認のためです。違法な荷が混ざっていたとすれば、輸送担当の者が勝手にやったことでしょう」
「メリックスという用心棒が、ですか?」
「彼か、あるいは他の者か。私には分かりません」
アーレスは頷き、机の上へ書面を一枚置いた。
「カリーナ・リンド伯爵令嬢が署名した奉公契約です」
もう一枚。
「国外の取引先との書面です。同じ日付、同じ人数、同じ船便」
ブルは、それを見た。
表情は動かなかった。
「奉公契約には、賃金と返済が書かれています。こちらの書面には、引き渡しの対価が書かれています」
「商品の輸送契約です。令嬢方の荷物も一緒に運びますから」
「四人分の荷物に、これだけの対価が?」
「国外は物価が違います」
アーレスは、次の紙を置いた。
裏帳簿。
「この番号の欄に、あなたへ入る利益が記されています」
「私の商会の帳簿ですから、当然です」
「その番号は、令嬢方の番号です」
ブルは、少しだけ沈黙した。
「……帳簿の細部は、会計担当が」
アーレスは、表情を変えなかった。
彼は、桜花章のことを一言も口にしなかった。
記録の内容も、あの夜に潜入者が何を聞いたかも。
書面だけを、一枚ずつ重ねていく。
移送名簿。
船便の日付。
四十七包の押収事実。
ブルの返答は、少しずつ短くなっていった。
言い逃れをやめたわけではない。
次の言い逃れを、頭の中で組み直しているのだ。
◇
メリックスの聴取は、短かった。
「俺は命じられたから運んだだけだ」
男は、腕の傷に包帯を巻いたまま言った。
「誰に」
「商会長だ。屋敷の見張りも、夜の移送も、全部な」
「令嬢たちが、通常の奉公人ではないと知っていましたか?」
メリックスは鼻を鳴らした。
「普通の奉公じゃねえことくらいは、こっちも知ってた。だが売り先がどこかなんて、俺は聞かされてねえ」
アーレスは、それだけを記録した。
メリックスは、自分の刑責を軽くしたいだけだ。
だがその供述は、ブルが言う「現場が勝手に逸脱した」という筋書きと、明確に食い違っていた。
現場は、勝手に逸脱してなどいない。
命じられて、そう動いていた。
◇
三度目の聴取で、ブルが口を開いた。
「――取引をしたい」
アーレスは、ペンを置いた。
「私には、誰の指示で動いていたかを示す資料があります」
ブルは、初めて身を乗り出した。
「商会の本店でも倉庫でもない場所です。私しか知らない。それを出せば、この事件の本当の指示者が誰か、司法局にも分かる」
その目には、ようやく取引を持ちかける者の色が浮かんでいた。
「その代わりに――私は皇弟殿下に逆らえなかった。それを、考慮していただきたい」
アーレスは、しばらく彼を見ていた。
「免責は約束できません」
「それでも」
「資料は、証拠保全のために回収します。あなたの刑責については、審問廷が判断します」
ブルは、ゆっくりと椅子に背を預けた。
「――結構です」
アーレスは、ペンを取り直した。
取引の申し出があったこと、免責を約束しなかったこと。
その二つを、そのまま記録へ残す。
ブルが差し出そうとしているものが何であれ、まず紙に固定しておく必要があった。
◇
ブルが示した場所は、交易区の外れにある、商会とは無関係な名義の小さな家だった。
床板の下に、鉄の箱があった。
アーレスは、司法官二人の立ち会いで、それを開けた。
書面の束。
一番上には、ブルが「殿下からの指示」として保管していた書面があった。
次の分を急がせよ。
例の荷の期限。
あちらへの支払いを止めるな。
予定を遅らせるつもりはない。
符号と略語が多く、「人身売買」とも「反乱」とも書かれていない。
真にウィリディス本人が書いたものかどうか、この場では判断できない。
筆跡の鑑定は、これから回すことになる。
だが、その下に――ブル側から提出された報告書が、何枚も綴じられていた。
今月の取引で得た金額。
自分の取り分。
殿下側へ回した額。
次の便で人数を増やせるという提案。
取引先を増やせば収益が上がるという見込み。
アーレスは、その一枚を灯りにかざした。
「命じられた者にしては、利益の増やし方までずいぶん熱心に提案されていますね」
隣の司法官が、小さく息を呑んだ。
ブルは、皇弟の命令書だけを出したつもりだったのだろう。
だが同じ箱に、自分の商売の記録まで一緒に残していた。
保険は、ブル自身の首も、しっかりと絞めていた。
◇
「ここからが、長いですよ」
アーレスは、第三捜査室の机に、三種類の帳簿を並べた。
裏帳簿。
ブル側の報告書。
そして、司法局が正規の手続きで取り寄せた、資金移動の記録。
アウラは、脇腹を庇いながら椅子に座り、それを見た。
「利益の一部が、殿下の側へ送られている。ここまでは、ブルの報告と裏帳簿で分かります」
「その先は?」
「ここからです」
アーレスは、資金の流れを指で辿った。
殿下側へ入った金が、いくつかの経路へ分かれて出ていく。
その一つは、武器商への支払い。
護衛の装備では説明のつかない量だった。
もう一つは、傭兵団への前金。
さらに、複数の協力者候補とみられる宛先へ、名目の曖昧な送金。
「協力者候補、ということでしょうね」
アーレスが言った。
「実際に協力していたのですか?」
アウラが聞き返した。
「そこは慎重に。金を受け取った者はいます。ですが、受け取った側が反乱への参加を認めた記録は、どこにもありません」
アーレスは、紙を裏返した。
「あるのは、皇弟殿下が金を配っていたという事実だけです。協力者を獲得しようとした形跡。それ以上は言えません」
アウラは、四つの項目を書いた紙を、机の上へ戻した。
一つ目には、契約書と証言と名簿が積まれていた。
二つ目には、ブルの報告書と利益配分と、メリックスの供述。
三つ目には、鑑定結果と裏帳簿の記号と輸送記録。
四つ目に、ようやく、実体が入り始めていた。
「例の荷」とは何か。
「あちらへの支払い」とは誰への支払いか。
「予定」とは、何の予定か。
「まだ、皇弟殿下自身の言葉と、これを結んではいません」
アウラは言った。
「結ぶのは、審問廷で」
「ええ」
アーレスは頷いた。
「それまで、殿下には、ブルの書面と送金記録だけを見せます」
アウラは、四つの項目の紙を綴りへ挟んだ。
脇腹の痛みは、まだ消えていない。
だが、机の上に並んだものは、あの夜に持ち帰った断片より、ずっと重くなっていた。
◇
皇弟ウィリディスへの出頭通告は、ブラオンの名で正式に発せられた。
根拠として示されたのは、三つ。
ブルが自ら提出した指示書面。
殿下側への送金記録。
その先の購入・支払い記録。
桜花章の名は、どこにも書かれていなかった。
通告を受けた皇弟は、その日のうちに返答を寄越した。
――出頭する。
拘束は求められていない。
求める根拠も、まだ司法局の側にはない。
「逃げませんね」
証拠担当が言った。
「逃げれば認めたことになる。それに、商人一人の書面と送金記録程度なら、否定すれば済むと踏んでいるのだろう」
ブラオンは、通告の写しを綴りへ挟んだ。
「皇弟の言葉の方が信用されると、本気で思っておるのだろうよ」
それきり、ブラオンは皇弟の話をしなかった。
綴りを閉じ、特別審問廷の設置に関する書類を引き寄せる。
出頭の日取りは、もう決まっていた。
◇
通告の翌日、長官室へ客が来た。
名乗ったのは、宮廷の関係筋の使いだった。
「皇族への不当な捜査ではないか」
「一商会の事件へ、皇弟殿下を巻き込む根拠を示していただきたい」
「出頭通告の撤回を」
「司法局による、政治的な捜査ではないかという声もある」
ブラオンは、机の向こうで黙って聞いていた。
聞き終えると、書類を一枚取り、相手の前へ置いた。
「根拠がないから処分していない。根拠があるから出頭を求めた」
それだけだった。
「殿下が身の潔白を証明されるのに、審問廷ほど適した場はない。撤回の理由も、ない」
使いは、何か言いかけて、やめた。
ブラオンは、もう次の書類を見ていた。
◇
捜索開始から、数日が過ぎた。
事前の供述聴取は、司法局の一室で行われた。
ウィリディスは、皇弟としての威厳を一切崩さずに現れた。
聴取を担当したのはアーレスと、記録担当。
立会いとして、司法書記が一名。
アウラは、いない。
「エイティゴ商会との関係について、伺います」
「投資だ。将来性のある商会へ出資した。それだけのことだ」
「違法薬物について」
「知らぬ」
「令嬢たちの移送について」
「知らぬ。ブルという商人が、勝手に私の名を使ったのだろう」
「殿下側への送金について」
「投資の配当だ。あるいは、政治活動のための正規の資金だ」
「武器の購入記録と、傭兵への前金について」
「護衛の装備と、私的な警備の契約だ。皇族には敵が多い」
「反乱の準備について」
ウィリディスは、初めて笑った。
「考えたこともない」
アーレスは、次の質問へ進んだ。
「問題の夜、秘密倉庫へ行かれましたか?」
「行っていない」
「その夜、ブル・エイティゴと会いましたか?」
「会っていない」
「エイティゴ商会が管理していた屋敷に、アウレリアという名の使用人がおりました。銀髪の女です。殿下は、その者と会われたことは?」
「ない」
ウィリディスの表情は、動かなかった。
アーレスは、頷いた。
「以上を、調書とします」
ウィリディスは、悠然と立ち上がった。
その背中を見送りながら、アーレスは考えた。
あの方は、まだ勝てると思っておられる。
突入の前に倉庫を離れ、司法局の突入部隊には見られていない。証言し得るのは、身元も知れぬ屋敷の使用人一人。皇弟の言葉と、どちらが信じられるか――そう踏んでおられるのだろう。
胸元の桜については、おそらく何もお考えになっていない。
◇
同じ日、ブルも改めて供述をした。
自分は現場の逸脱を知らなかった。
皇弟には逆らえなかった。
指示はすべて、殿下から来ていた。
メリックスは、前の供述を維持した。
命じられて運んだ。
普通の奉公ではないことは知っていた。
三人の調書が、それぞれ別々の綴りへ収められた。
◇
事前聴取の調書が、アウラの机へ回ってきた。
彼女は、三点に印をつけた。
倉庫にはいなかった。
ブルとは会っていない。
アウレリアには会っていない。
証拠保管庫には、真正性の検証を終えた桜花章が、封印されたまま保管されている。
四つの項目を書いた紙の周囲には、必要な証拠がほとんど揃っていた。
あとは、この三つの嘘を、本人の口でもう一度確認するだけだった。
◇
特別審問廷は、司法局の最も広い一室に設けられた。
中央に、三つの審問官席。
その両脇に、司法書記と記録担当。
正面に、被審問人の席が三つ。
ウィリディスが、中央。
ブルが、その右。
メリックスが、左。
三人は、関連事件の被審問人として、同じ場に着かされていた。
傍聴席には、司法局の関係者と、ごくわずかな立会人。
ブラオン・ロングスモンスは、審問官席にはいなかった。
壁際の長官席に、腕を組んで座っていた。
陪席審問官の二人が、先に席へ着いていた。
主任審問官の席は、まだ空いている。
司法書記が立ち上がった。
「正式開廷に先立ち、事前供述の確認を行います」
事務的な声だった。
「被審問人ウィリディス殿下。事前聴取における供述内容を読み上げます。訂正の有無をお答えください」
読み上げが始まった。
投資関係。
違法薬物を知らない。
移送を知らない。
送金は正規の資金。
武器は護衛用。
反乱など考えたことがない。
「――問題の夜、秘密倉庫には行っていない。同夜、ブル・エイティゴとは会っていない。アウレリアと名乗る者には会ったことがない。以上です」
ウィリディスは、退屈そうに頷いた。
「相違ない」
「訂正はありませんね」
「ない」
「特に最後の三点について、再度確認します。倉庫にはいなかった。ブルとは会っていない。アウレリアには会っていない」
「相違ないと言っている」
ウィリディスは、退屈そうに椅子へ背を預けた。
司法書記は、それを記録した。
「被審問人ブル・エイティゴ」
「相違ありません」
「被審問人メリックス」
「……ああ。変わらねえ」
司法書記は、綴りを閉じた。
「事前確認を終了します」
彼は、扉の方へ向き直った。
「――主任審問官、入廷」
重い扉の向こうから、硬い靴音が一つ、また一つと近づいてきた。
ウィリディスは、椅子へ背を預けたまま、そちらへ視線を向けた。
倉庫にはいなかった。
ブルとは会っていない。
アウレリアには会っていない。
つい先ほど、自らの口でもう一度認めた三つの供述は、すでに調書の上へ残されている。
そして足音は、一歩ずつ、その扉へ近づいてきた。
すべてを否定する皇弟の前に、ついに主任審問官が姿を現す。
あの夜の銀髪と、小さな桜の紋章が、審問廷でもう一度つながる。
次回、第4話「桜の紋章」




