第2話 秘密倉庫
馬車が二台、日の落ちた通用門に着けられた。
令嬢が四人。
付き添いは、アウレリアひとり。
アウレリアは最後に乗り込む前、門柱の脇の石にかがみ、靴紐を直すふりをして、決められた形に小石を三つ並べた。
一度目の合図。
これでアーレスたちは追跡を始める。
立ち上がったとき、二台目の御者台に大きな影が座るのが見えた。
メリックスだった。
男は短棍を膝の上に横たえ、こちらを見ていた。
(やはり、見張られている)
アウレリアは目を伏せて馬車へ乗った。
あの男は屋敷の警備が仕事のはずだ。
それが移送の護衛に回っている。
偶然かもしれない。
偶然でないかもしれない。
馬車が動き出した。
石畳の音が変わり、やがて街の灯りが窓の外を流れ始めた。
向かいの席で、カリーナが両手を膝の上で固く握っていた。
その隣で、エルナとリーゼが身を寄せ合っている。
誰も喋らなかった。
窓から差し込む街灯の光が、規則正しく車内を横切っていく。
光が来るたび、アウレリアの銀の髪が白く輝き、また闇に沈んだ。
カリーナがふと顔を上げ、その髪を見た。
アウレリアは身を寄せ、耳元で囁いた。
「何があっても、わたしから離れないでください」
メイドの声ではなかった。
自分でも、そう思った。
カリーナは一瞬、不思議そうに彼女を見た。
問いは、返ってこなかった。
代わりに娘は、小さく頷いた。
◇
馬車が止まったのは、交易区の外れだった。
石造りの大きな倉庫が、闇の中に黒く沈んでいる。
港へ続く水路が、すぐ裏を流れているらしい。
倉庫との間には、荷馬車が通れる荷受け道が一本走っている。
奉公先ではない。
どんな貴族の屋敷でも、商家の店でもない。
馬車を降りた時点で、アウレリアは一度だけ周囲を見た。
二度目の符牒を残せる場所を探す。
だが、正面口には商会の人間が立ち、馬車から小部屋まで途切れなく視線がある。
外から確認できる場所へ小石を置くには、あまりにも目立ちすぎた。
(――二度目は無理ね)
ならば、刻限までに証拠を取る。
合図がなければ、アーレスは必ず入る。
商会の男が、令嬢たちを倉庫の脇の小部屋へ通した。
「出発の手続きが済むまで、ここでお待ちください」
アウレリアはカリーナたちと共に一度部屋へ入り、それから戸口で振り返った。
「お嬢様方のお水を、用意してまいります」
男が頷くのを確かめてから、扉が閉められる前に外へ出る。
背後で、閂の下りる音がした。
――カリーナたちは、今この瞬間から、あの部屋の中だけの人間になった。
自分は、まだ外にいる。
倉庫の内部は広かった。
天井まで届く棚。
積み上げられた木箱。
荷札の束。
油と、麻と、埃の匂い。
アウレリアは水差しを手に、通路を歩いた。
荷を運ぶ人足たちが行き交っている。
誰も、メイドを気に留めない。
通路を三つ折れたところで、彼女は足を止めた。
他の荷箱と、明らかに違う一角があった。
箱が小さい。
数が多い。
厳重に封がされ、荷札には数字しか書かれていない。
その脇で、男が二人、一箱を開けていた。
中身は、油紙に包まれた包みだった。
男の一人がそれを取り出し、匂いを嗅ぎ、頷いた。
「これはこっちの便だ」
アウレリアは歩調を変えないまま通路の陰へ入り、胸元の桜花章へ指をかけた。
親指で縁を押す。
わずかな熱が、指先へ返った。
――記録開始。
「人の荷に混ぜろ」
「同じ馬車か?」
「同じ馬車だ。積み方はいつも通り」
アウレリアは、水差しを持ち直してその場を離れた。
これが何なのか、まだ分からない。
だが、人を運ぶ便へ正体不明の荷を混載している。
それを示す言葉は残った。
◇
倉庫の奥に、商談用の区画があった。
板壁で仕切られただけの、粗末な部屋だ。
板壁は、天井まで届いていない。上には荷を積み上げるための梁が渡され、隙間が空いている。
そこへ、恰幅のいい男が入っていくのを、アウレリアは見た。
仕立てのいい外套。
指に大ぶりの指輪。
似顔と特徴は、司法局の資料で頭に入っている。
ブル・エイティゴ。
商会長本人だった。
アウレリアは水差しを棚の陰に置き、積み上げられた荷をよじ登った。
荷の陰から、胸元の桜花章にも二人の姿が直接入る位置を取る。
「今夜の人員は?」
ブルの声は、思いのほか静かだった。
現場の男が答える。
「四です」
「四か。先方は五で聞いている」
「一人、屋敷でまだ手続きが」
「間に合わせろ。次の便の分から回してもいい」
アウレリアは、荷の陰から見下ろした。
ブルは怒鳴らなかった。
声も荒らげなかった。
帳面をめくり、指で数字を追い、部下に指示を出している。
商人が、商いの話をしているのと変わらない。
だから――寒かった。
「引き渡しは?」
「先方の船が明後日には」
「支払いは前と同じ形でいい。半分を先に」
人員。
四。
回す。
支払い。
名前は一度も出なかった。
カリーナ・リンド伯爵令嬢という娘は、この部屋では「四」のうちの一つだった。
この男は、知らずにやっているのではない。
知ったうえで、帳面をつけている。
胸元の桜花章は、記録を続けている。
◇
それから四半刻ほどのちだった。
倉庫の裏手、水路沿いの荷受け道で馬車が止まる音がした。
人足たちの動きが変わった。
慌ただしくなり、そして――静かになった。
誰かが、道を空けている。
アウレリアは荷の陰から、その男を見た。
護衛が四人。
多すぎず、少なすぎない。
その中央を、長身の男が外套の裾を揺らしながら歩いてくる。
顔は、知っていた。
帝都の者なら、たいてい知っている。
――皇弟ウィリディス。
現皇帝の弟。
アウレリアは荷の陰で、息を止めた。
司法局は、エイティゴ商会の背後に有力者がいる可能性を疑っていた。
貴族の誰かだろうと考えていた。
――皇族だとは、掴んでいなかった。
ブルが商談区画から出て、深く腰を折った。
「殿下。このような場所へ、わざわざ」
「時間がない」
ウィリディスの声は高く、よく通った。
二人は商談区画へ入った。
アウレリアは、荷の陰に伏せたまま、位置を動かなかった。
胸元の銀の花が、真下の二人へ向くように、体の角度を保つ。
「次の分を急がせろ」
ウィリディスが言った。
「例の荷は、まだ揃わんのか」
「手配は進めております」
ブルの声。
「ただ、あちらの都合もございまして」
「都合など聞いておらん。あちらへの支払いを止めるな。止めれば話が流れる」
「もちろんでございます」
「予定を遅らせるつもりはない。私は、いつまでも待てる立場ではないのだ」
しばらく紙をめくる音がした。
「今月は、予定以上に回しております」
ブルが言った。
「ただ、便を早めた分、現場に少々無理が出ておりまして。屋敷の方も、支度が慌ただしくなっております」
「構わん。急がせろと言ったのは私だ」
アウレリアは、荷の陰で身を伏せたまま、二人を見下ろした。
(――だから、予定を早めたのか)
十日後だったはずの出発が、今夜になった理由が、ここにあった。
この男が金を急かした。
だからブルが便を前倒しした。
だからカリーナは、今夜この倉庫にいる。
悪党の都合が、そのまま少女たちの日程を動かしている。
「兄上は、私を飾りだと思っておられる」
ウィリディスが不意に言った。
声の質が変わっていた。
「だが、いざとなれば分かる。私が立てば、諸侯は動く。皆、口に出さぬだけだ。今も私のもとへ人が来る。挨拶に、進物に。――皆、待っているのだよ」
「さようでございましょうとも」
ブルの相槌は、一拍遅れていた。
その一拍を、アウレリアは聞き逃さなかった。
少なくとも、心から熱狂している者の返事には聞こえない。
(――記録できているのは、ここまで)
アウレリアは冷静に整理した。
皇弟ウィリディスが、この夜、この倉庫にいた。
ブル・エイティゴと直接会話した。
金と、荷と、支払いと、予定について指示した。
――それだけだ。
「荷」が何なのか。
「支払い」が誰への何なのか。
「回している金」がどこから出ているのか。
この記録だけでは、証明できない。
この男は一度も、武器とも、兵とも、反乱とも言わなかった。
(これは、証拠の一片にすぎない)
だからこそ、持ち帰らなければならない。
残りの断片は、司法局が集める。
アーレスが追っている。
自分の仕事は、この一片を無事に法廷まで運ぶことだ。
アウレリアは荷の上から下り、通路へ戻ろうとした。
――そのとき、すぐそばで床が軋んだ。
◇
振り返ると同時に、退路が読めた。
通路の奥――商談区画とアウレリアの間を塞ぐように、大きな影が立っていた。
「やっぱり、ただのメイドじゃなかったか」
メリックスだった。
短棍を手にぶら下げ、ゆっくりと近づいてくる。
「屋敷にいるときから妙だと思ってたんだ。足音への振り返りが早すぎる。桶を片手で持つ。人と話しながら、必ず出口の位置を見てる」
男は歩を止めた。
「おまけにその髪だ。目につきすぎる。忘れようにも忘れられねえ」
アウレリアは、ゆっくりと両手を下ろした。
言い逃れる段階は、終わっていた。
彼女は一歩、横へ動いた。
小部屋の方向――カリーナたちがいる方向を、背にする位置へ。
この男を、あちらへ行かせるわけにはいかない。
「ここで何を見た」
「掃除をしておりました」
「まだ言うか」
メリックスが短棍を持ち直した。
その瞬間、板壁の向こうで椅子の鳴る音がした。
「――何事だ」
ウィリディスの声。
「誰かおるのか」
商談区画の扉が開いた。
ブルが出てくる。
その後ろに、ウィリディスの姿が見えた。
アウレリアは半歩下がりながら、体をひねった。
結い上げた銀髪が、その動きに遅れて宙を裂いた。
倉庫の吊り灯の光が、髪の一房と、胸元の銀の花を、同時に撫でていった。
ウィリディスの視線が、そこで止まった。
銀髪のメイド。
胸元の、桜の徽章。
――その二つだけを、彼は見た。
それが何であるのか、彼は知らない。
「潜入者か」
ブルの声が硬くなった。
「殿下。お下がりください」
護衛の一人が素早く動いた。
「殿下、ここは危険です。裏口へ」
「――何だと。あの女は誰だ」
「後ほど。まずはお下がりを」
護衛たちがウィリディスを囲んだ。
皇弟は不服そうに何か言いかけたが、それ以上は抗わなかった。
当然だ、とアウレリアは思った。
この男は、こんな場所で騒ぎに巻き込まれるわけにはいかない。
皇弟が、夜の倉庫で、潜入者の捕縛に立ち会っていた。
それだけでも、厄介な疑いを招くには十分だった。
外套の裾が翻り、護衛に囲まれた背中が、通路の奥へ消えていく。
アウレリアは、それを視界の端で追った。
追うことはできる。
だが、そのためには目の前のメリックスを突破し、カリーナたちを背後に残さなければならない。
――その一瞬で、彼女は数えた。
カリーナたちは、まだ倉庫の中にいる。
閂の下りた小部屋の中に。
目の前にはメリックスがいる。
自分がこいつを置いて皇弟を追えば、メリックスはまっすぐあの小部屋へ行く。
胸元には、たった今記録したばかりの断片がある。
奪われれば、法廷まで持ち帰れない。
そして、司法局が来るまで、この現場を維持しなければならない。
――四つ。
どれ一つとして、皇弟の背中より軽くはなかった。
アウレリアは、足を止めた。
(追わない)
彼女は正面へ向き直った。
ウィリディスの足音が遠ざかり、裏口の扉が開いて、閉じた。
目の前で、メリックスが短棍を構えた。
「逃げなかったな」
「あなたが、そこにいますので」
アウレリアはメイド服の内側へ手を入れ、ナイフを抜いた。
刃が、灯りを短く弾いた。
◇
最初の一撃は、避けるしかなかった。
短棍が空気を裂いて振り下ろされる。
アウレリアは半身をずらし、棚の柱を盾にした。
木が砕けた。
(――重い)
受けるという選択肢が、これで消えた。
メリックスは大きい。
腕が長く、間合いが違う。
まともに打ち合えば、三合で終わる。
彼女は間合いの外へ滑り、床を蹴った。
右へ。
男の短棍を持つ側とは逆へ。
メリックスの体が追ってくる。予想より速い。
アウレリアはナイフの腹で短棍の軌道を撫でるように逸らし、そのまま男の内側へ入った。
肘。
関節。
腕を取り、体重をかけて捻る。
メリックスの体が傾いだ。
短棍が指から離れかけた。
「――っ!」
男が空いた手でアウレリアの肩を掴んだ。
そのまま、力任せに引き寄せられた。
体が浮いた。
次の瞬間、背中が棚に叩きつけられていた。
肺の空気が全部出た。
視界が白く飛ぶ。
積まれた荷箱が崩れ、床に散らばった。
アウレリアは咳き込みながら、それでも手からナイフを離さなかった。
「どこの犬だ」
メリックスが短棍を拾いながら言った。
「言え。誰に雇われた。商売敵か。それとも役所か」
アウレリアは壁に手をついて立ち上がった。
肩が痺れている。
右の脇腹が熱い。
髪をまとめた結び目が緩み、銀の一房が頬に落ちてきた。
彼女はそれを、乱暴に耳へかけた。
「……申し訳ありませんが」
息を整えて、答えた。
「奉公先については、出発の前に説明していただけるそうですので」
メリックスの顔が歪んだ。
彼女はその一瞬に、また間合いの外へ跳んだ。
◇
勝つ必要はない。
アウレリアは、崩れた荷箱の山を挟んで男と向かい合いながら、自分の目的を数え直していた。
一、令嬢たちを出発させない。
二、桜花章を奪われない。
三、記録を守る。
四、アーレスが来るまで、時間を稼ぐ。
メリックスを倒すことは、その中に入っていない。
だから彼女は、小部屋のある側へは一歩も退かなかった。
自分が退けば、メリックスはそのままカリーナたちのもとへ向かえる。
通路の幅の狭い場所を選び、荷箱を挟み、棚の柱を使う。
男の体格が有利にならない場所へ、場所へと動く。
二度、短棍が肩をかすめた。
一度、ナイフで男の腕を浅く切った。
どちらも決定打ではない。
それでいい。
外の見張りが騒ぎに気づいて駆けてきた。
二人。
三対一になった。
脇腹の痛みが、息を吸うたびに刺さる。
アウレリアは棚の間へ退き、通路の入口を細くした。
一度に来られるのは一人だけ。
(――刻限)
馬車が動き出してから、どれだけ経ったか。
街の灯りが窓を流れた時間。
倉庫での待ち時間。棚の陰の四半刻。
二度目の符牒を残せる機会は、とうに失われている。
そして頭の中で時間を数えれば、刻限もすでに過ぎている。
(あと少し持たせれば、アーレスが来る)
彼女は息を吸い、荷箱の陰で短棍の間合いを測り直した。
◇
倉庫の外で、アーレス・ブロウは懐中時計の蓋を閉じた。
司法局側が押さえているのは、令嬢たちの馬車が入った正面口と表通りだけだった。
人数には限りがある。
裏手の荷受け道まで包囲する余裕はない。
刻限を、四半刻過ぎている。
合図はない。
彼の隣で、司法局の捜査官が息を殺して指示を待っていた。
「――突入します」
アーレスは短く言った。
「令嬢の所在確認を最優先に。救出班は倉庫内を捜索。乗ったのは四人、それとうちの人間が一人です。抵抗する者は制圧を。それ以外の捕縛は後回しで構いません」
「ロングスモンス捜査官は?」
「中にいます」
アーレスは剣帯の位置を直した。
「あの方は、令嬢のいる場所から離れません。そういう人です。――行きましょう」
倉庫の正面扉が、外から破られた。
◇
最初に響いたのは、笛の音だった。
帝国司法局の呼子。
メリックスの動きが止まった。
その一瞬に、アウレリアは荷箱を蹴り倒して距離を作った。
通路の向こうから、灯りが押し寄せてきた。
捜査官たちの足音。
商会の人足たちが逃げ惑い、荷が倒れ、怒声が飛ぶ。
「司法局だ! その場を動くな!」
メリックスは舌打ちし、逃げ道を探した。
だが、捜査官は一人ではなかった。
三人、四人と通路を塞ぎ、短棍を持った男を囲んだ。
男は一人目を突き飛ばし、二人目の腕を折りかけた。
三人目が背後から膝を落とし、四人目が腕を取った。
見張りの二人は、逃げようとしたところを入口で取り押さえられていた。
それでようやく、メリックスは床に押さえつけられた。
アウレリアは壁に背を預けたまま、それを見ていた。
一人では、こうはならなかった。
――そういう仕事だ。
「無事ですか?」
アーレスの声が近づいてきた。
彼はアウレリアの姿を上から下まで一瞥し、わずかに顔をしかめた。
「――ひどい格好ですね」
「褒め言葉として受け取ります」
その時、商談区画の方から声が上がった。
ブル・エイティゴは、逃げなかった。
商談区画から出てきた男は、両手を軽く上げ、驚いたような顔を作ってみせた。
「これは何の騒ぎです。当商会は正規の輸送を行っているだけですが」
捕縛されながらも、その口調は落ち着いていた。
この男は、ここで逃げれば「正規の商取引だった」という言い分が一気に苦しくなると知っている。
だから残る方を選んだのだろう。
――ここから先は、言葉で戦うつもりだ。
捜査官たちがブルを連行していく。
その背中が倉庫の外へ消えるのを、アウレリアは見送った。
アーレスが、あらためて向き直った。
「令嬢は?」
「奥の小部屋。閂が下りています。四人。それと――」
アウレリアは、荷箱の一角を指した。
「あちらの箱。中身を確認してください。おそらく、令嬢と同じ馬車に積まれる予定でした」
「……なるほど」
アーレスは部下へ指示を飛ばした。
押収が始まった。
違法薬物と思われる包み。
移送の名簿。
帳簿。取引の書面。
アウレリアは倉庫の奥を見た。
裏口の扉は、閉じたままだった。
「もう一人いました」
彼女は声を落とした。
「皇弟殿下です。メリックスに見つかった直後、護衛と共に裏口から離脱されました」
アーレスの手が、一瞬止まった。
「……確かですか?」
「顔を見ました。人違いではありません」
アーレスは短く頷き、それ以上は何も言わずに部下たちの方へ向き直った。
突入した捜査官の誰も、あの扉から出て行った男を見ていない。
司法局の中で、皇弟ウィリディスがこの夜この倉庫にいたことを直接その目で見たのは――アウラ・ロングスモンス、ただ一人だった。
◇
小部屋の閂が外された。
カリーナが真っ先に飛び出してきた。
エルナとリーゼが、その後ろにしがみつき、ミレーネも遅れて部屋を出た。
カリーナは倉庫の光景を見て、それから、壁際に立つアウレリアを見た。
メイド服は裂け、前掛けは埃と血で汚れている。
結い上げていた銀髪は半ば解け、白い房が肩へ流れ落ちていた。
その胸元には、まだ小さな銀の桜が留まっている。
「あなた……いったい……」
カリーナが一歩、近づいた。
「あなたは、誰なの?」
アウレリアは、答えなかった。
答える代わりに、いつものように膝を折った。
メイドの礼だった。
姿勢だけは、最後まで崩さなかった。
カリーナは、その意味を理解したようだった。
この人はメイドではない。
司法局の人間だ。
最初から、そのために来ていた。
安堵のあと、遅れて理解が追いつく。
そして、その表情がまた別の不安へ変わった。
「……先に行った方たちは?」
カリーナが言った。
「ミーナ様は。ソフィ様は。半年前に出て行かれた方たちは、どうなったのですか」
アウレリアは、すぐには答えなかった。
全員必ず助けます、とは言えなかった。
言えば楽になるのは、自分の方だ。
「分かりません」
彼女は言った。
「今、分かっているのは、この倉庫から出る予定だった便のことだけです。それ以前に運ばれた方々については、行き先の記録を追うところからになります」
「……そう、ですか」
「追います」
アウレリアはカリーナを見た。
「必ず追います。ただ、何日で、何人を、とは今は申し上げられません。申し上げれば、嘘になります」
カリーナはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
娘は、そう言った。
嘘をつかれなかったことに対して、礼を言ったのだと分かった。
◇
夜明け前。
倉庫は封鎖され、司法局の灯りだけが残っていた。
押収品が次々と運び出されていく。
アーレスが目録を確かめながら、隣に立つアウラへ言った。
「薬物と思しき包みが四十七。移送名簿が三冊。裏帳簿らしきものが一冊。それと、国外の取引先との書面が数点」
「ブルは?」
「一言も認めていません。全部、現場の裁量だと言っています」
「そして――ロングスモンス捜査官」
アーレスは目録を閉じた。
「あなたの報告にあった殿下ですが、突入した者の中に、姿を見た人間は一人もいません」
アウラは、外した桜花章を手のひらに載せていた。
銀の花弁の中心で、ごく小さな光が一度だけ瞬いた。
記録は、残っている。
あの夜、あの倉庫に、皇弟ウィリディスがいたこと。
ブル・エイティゴと言葉を交わしたこと。
金と、荷と、支払いと、予定について指示したこと。
――それだけが、ここにある。
「荷」が何であったか。
「支払い」が誰への何であったか。
回されていた金がどこから出たものか。
それは、この銀の花には映っていない。
アウラは、緩んだ結び目を解いた。
長い銀髪が背に落ちる。
彼女はそれを両手でまとめ直し、もう一度、高い位置できつく結い上げた。
次にこの髪をあの男へ見せる機会が来るなら、自分はもうメイドではない。
そのときこそ、この桜が何であったかを教える。
「これで終わり、とはいきませんね」
アーレスが言った。
アウラは押収された帳簿の山と、手の中の桜花章を、順に見た。
「ええ」
彼女は答えた。
「ここからです」
桜花章を握る指に、わずかに力を込める。
倉庫で掴んだものは、まだ事件の断片にすぎない。
これから、それらを一つずつ繋ぎ合わせ、誰にも否定できない事実へ変えていかなければならない。
夜の潜入捜査は終わった。
だが、捜査審問官アウラ・ロングスモンスの仕事は、むしろここからだった。
秘密倉庫で掴んだものは、まだ事件の断片にすぎない。
証言、帳簿、契約、資金――司法局は一つずつ、逃げ道を塞いでいく。
次回、第3話「四つの証明」




