第1話 銀髪のメイド
全4話。
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帝国司法局、第三捜査室。
窓から差し込む午後の光が、机の上に並べられた書類の束を白く照らしていた。
アウラ・ロングスモンスは、その一枚目を手に取った。
高い位置でまとめた長い銀髪が、身をかがめた拍子に肩から滑り落ちた。
それを無造作に背中へ払い、彼女は書面へ目を落とした。
「五件目です」
向かいの席で、アーレス・ブロウが淡々と言った。
平民出身、司法局勤務七年目の捜査官だ。
彼は書類の束を三つに分け、それぞれの上へ指を置いた。
「いずれも没落寸前、あるいは財政難の貴族家。いずれも令嬢が家を出ています。そして、いずれも――行き先が分かりません」
「失踪届は?」
「出ていません。出す理由がないからです」
アーレスは一枚を引き抜き、アウラの前へ滑らせた。
「商会の紹介で奉公に出た。国外で長期の雇用契約を結んだ。家の債務を返すため、本人が納得して家を出た。ご家族はそう説明されていますし、実際、そう信じておられます」
アウラは書面を読んだ。
雇用契約書。
奉公先の記載は「商会指定先」。
期間は「協議による」。
給与額の欄には、月額が書かれている。
悪くない額だ。
ただし、その下に細かな文字で但し書きが続いていた。
諸経費の控除。
前渡金の返済。
契約更新時の手数料。
差し引けば、ほとんど残らない。
「悪質ですね」
「悪質です。ですが、違法ではありません」
アーレスは眼鏡の位置を直した。
「これだけで人身売買だと断定できれば、私たちも苦労はしません」
アウラは書類の最後の一枚をめくった。
署名欄に、若い娘の筆跡があった。
丁寧に、一文字ずつ、確かめるように書かれている。
この娘は、自分の意思でここに名前を書いたのだ。
家を救うために。
「共通点は?」
「エイティゴ商会です」
アーレスは別の束を開いた。
「五件のうち四件、家がエイティゴ商会から融資を受けています。残る一件も、仲介した商人が商会の取引先でした」
「エイティゴ商会……」
「帝都の商会です。三年前までは、通りに一軒の店を構えているだけの小規模な商会でした」
アーレスは指で書類を叩いた。
「それが今は、交易区に倉庫を三つ持っています」
アウラは椅子の背に体を預けた。
銀の髪がひとふさ、頬にかかる。
三年で倉庫を三つ。
急成長だけなら罪ではない。
だが、これだけ不自然な契約が同じ時期に重なれば、偶然として片づけるには出来すぎている。
「その五件の令嬢は、今どこに?」
「分かりません」
アーレスは静かに言った。
「奉公先を追いました。商会がご家族へ別途伝えていた勤務先にも照会をかけました。回答は、『そのような者は来ていない』です」
アウラは書類の束をそろえた。
紙が机の上で乾いた音を立てた。
◇
司法局長官室の扉は重かった。
押し開けると、机の向こうでブラオン・ロングスモンスが顔を上げた。
五十代。
ロングスモンス侯爵家当主にして、帝国司法局長官。
そして、アウラの父である。
「報告は聞いた」
挨拶もなかった。
アウラも期待していなかった。
「エイティゴ商会への強制捜査を申請します」
「却下だ」
即答だった。
アーレスがアウラの半歩後ろで、わずかに息を吐いたのが分かった。
「理由を」
「証拠がない」
ブラオンは書類を机に置いた。
「令嬢が家を出た。行方が知れない。家は商会に借金がある――それだけで商会の帳簿を押さえられるなら、この帝国の商会は明日には全部潰れておる」
「潰れて困る商会ではないと思いますが」
「思うかどうかを聞いておらん。証明できるかを聞いておる」
アウラは口を閉じた。
父の言うことは、正しい。
それが最も腹立たしかった。
「商会側の回答は?」
アーレスが引き取った。
「『当商会は就労先を斡旋しただけ』『本人も家族も同意している』。以上です、長官」
「だろうな」
ブラオンは椅子に深く座り直した。
「向こうは書面で身を固めておる。だが、こちらにはそれを崩す材料がない。今のところはな」
アウラは一歩、机へ近づいた。
「では、契約の先を見ればよいでしょう」
ブラオンの眉が動いた。
娘が何を言い出すか、この男は正確に察したらしい。
「エイティゴ商会は、奉公へ出る前の令嬢たちを一箇所へ集めています。商会が管理している屋敷です。アーレスの調べでは、令嬢たちはそこで数週間から数か月を過ごし、それから『奉公先へ出発』している」
「それで?」
「そこへ入ります」
沈黙が落ちた。
「私が、メイドとして」
「馬鹿を言うな」
ブラオンの声が低くなった。
「お前はまだ二年目だ」
「二年目でも捜査審問官です」
「二年目の捜査審問官だから言っておる。商会には用心棒がいる。裏の仕事をしている人間だ。それがどういう連中か、お前は書類でしか知らん」
「ですから、書類ではなく――」
「聞け」
ブラオンは手を上げた。
「もう一つある。背後が分からん。三年で倉庫を三つだ。商人一人の才覚ではない。誰かが後ろにいる。それが誰なのかを掴む前に、身分を隠した捜査官を一人で放り込むのは、捜査ではない。ただの博打だ」
言い分に、隙がなかった。
娘を案じているのではない。
長官として、危険と成果を秤にかけて話している。
だからこそ、押し返せる。
「証拠が足りないから、調べるのでしょう」
アウラは父の目を正面から見た。
「背後関係が不明だから捜査できないと仰る。ですが背後関係は、内側へ入らなければ分かりません。順番が逆です、長官」
ブラオンの顎の線が硬くなった。
アウラは続けた。
「正規の捜査官が身分を明かして商会の屋敷へ立ち入れば、その日のうちに帳簿は消え、令嬢たちは別の場所へ移されます。次に見つけたときには、また『奉公に出ました』と言われるだけです」
部屋が静まった。
やがてブラオンは、アーレスへ視線を移した。
「お前はどう思う、ブロウ」
「私も潜入には反対です」
アーレスは即座に答えた。
アウラが横を見ると、彼は表情を変えずに立っていた。
「危険が高すぎます。潜入捜査は、通常なら二人以上で行うものです」
「では代案は?」
「ありません」
「では決まりですね」
「……そういう結論になると思っていましたよ」
アーレスは軽く息を吐いた。
ブラオンが指で机を二度叩いた。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「――正式な潜入捜査として、許可する」
「長官」
「ブロウ。お前が後方だ。契約、資金、輸送、商会が持っている馬車と倉庫。全部お前が外から洗え。中の人間が持ち帰れる情報には限りがある」
「承知しました」
「それから――」
ブラオンはアウラを見た。
「お前が娘だから許可するのではない。他に手がないから許可する。取り違えるな」
「承知しております」
アウラは頭を下げた。
下げながら、少しだけ思った。
少なくとも、長官として口にした反対理由を、親心だけで片づけることはできない。
二年目の部下を単独で敵地へ入れることに反対した。
少なくとも、それは間違いない。
そして、それでも許可した。
――現状で、それが最も合理的だからだ。
◇
司法局の支度部屋で、アウラはメイド服の前紐を締めた。
濃紺の生地に白い前掛け、飾りのない襟。
鏡の中に、見慣れない女が立っていた。
髪だけが、いつも通りだった。
長い銀髪を、高い位置でひとつにまとめている。
うなじの線が出るように、きつく。
鏡越しに、アーレスが問うた。
「髪は染めないのですか?」
「染めません」
アウラは結び目の位置を指で確かめた。
「鬘も使いません」
「銀髪は目立ちますよ」
「目立ちます。だから使います」
彼女は振り返った。
まとめた髪が、動きに遅れて肩の後ろで揺れた。
「染料は汗と水で落ちます。鬘はずれます。潜入先で最も避けたいのは、変装そのものが崩れることです。それに――」
アウラは前掛けの裾を軽く払った。
「人は、身分で人を見ます。メイド服を着た女がお茶を運んできたとき、誰もその女の顔を覚えていません。覚えているのは『メイドが来た』ということだけです」
「髪の色は覚えられるのでは?」
「覚えられるでしょうね。『銀髪のメイド』として」
アウラは静かに言った。
「侯爵令嬢の捜査審問官としては、覚えられません」
アーレスは少しのあいだ黙り、それから小さく頷いた。
「――なるほど」
彼は机の上へ小箱を置いた。
開くと、銀の細工物が収まっている。
手のひらに収まる大きさの、桜をかたどった徽章だった。
花弁の一枚一枚が薄く打ち出され、中心にごく小さな石が嵌まっている。
帝国司法局認証・桜花記録章。
通称、桜花章。
「起動中の映像と音声を記録します。時刻と、使用した司法官の認証も一緒に封じられる。記録したあとは書き換えられません」
「知っています」
「知っていても言います」
アーレスは指を一本立てた。
「起動していない時間は残りません。壁の向こうも記録できません。離れた声も拾えません。映った人間が誰なのか、この徽章は教えてくれません」
「それも知っています」
「では最後にもう一つ。これ一つで事件は立証できません」
アウラは桜花章を摘み上げ、メイド服の胸元へ留めた。
銀の花が、濃紺の生地の上で小さく光った。
少し凝った装飾品にしか見えない。
そう見えるように作られている。
「連絡の取り決めを確認します」
アーレスが言った。
「大きな動きがあった場合――特に、令嬢の移送が始まった場合。あなたは決めた形の合図を残す」
「小石を三つ、並べて置きます」
「それを見つけたら、私たちは追跡と監視を開始します。この段階では突入しません」
「はい」
「移送先で潜入を続けられそうなら、外から見える場所に、同じ符牒をもう一度」
「二度目の合図、ですね」
「ええ。追跡を始めてから、決めた刻限までに、その二度目の合図がない場合――」
アーレスはアウラを見た。
「私の判断で、強制的に突入します」
「――お願いします」
「一度目の合図が来れば追う。刻限までに二度目が来なければ入る。この二つだけです。他の取り決めは作りません。増やせば増やすほど、現場で間違えますから」
アウラは頷いた。
ナイフを一本、衣服の内側へ収める。
刃を布で二重に包み、金属の音が出ないようにした。
扉が開いた。
ブラオンが立っていた。
彼は娘の姿を上から下まで見て、それから短く言った。
「証拠を取ることと、命を捨てることを混同するな」
アウラは背筋を伸ばした。
「長官命令として、承知しました」
ブラオンは何も言わずに扉を閉めた。
アーレスが、最後に一枚の書類を差し出した。
「潜入先で使う名前ですが」
アウラは受け取り、そこに書かれた空欄を見た。
「本名を名乗るわけにはいきませんからね。呼ばれても咄嗟に反応できる名前にしてください。凝った偽名にして、自分で忘れられても困ります」
「では――」
アウラは少し考え、ペンを取った。
紙の上に、一つの名を書いた。
アウレリア。
アーレスがそれを読み上げた。
「アウレリア、ですか」
「ええ。アウラと音が近いでしょう。突然呼ばれても、聞き逃しません」
「ずいぶん単純な決め方ですね」
「偽名に芸術性は必要ありません。使えれば十分です」
「それはごもっともで」
アーレスは書類を受け取り、確認の印を押した。
「では潜入中、あなたはアウラ・ロングスモンスではありません」
「分かっています」
「侯爵令嬢でも、捜査審問官でもない」
アウラは胸元の桜花章へ目を落とした。
銀の花は、何も知らない者が見れば、少し珍しいだけのブローチにしか見えない。
「――エイティゴ商会に雇われた、新入りのメイド。アウレリアです」
そう答えた声は、すでに先ほどまでのアウラのものとは少し違っていた。
姿勢をわずかに低くし、視線を控えめにする。
侯爵令嬢でも司法官でもない、一人の使用人の顔。
アーレスがそれを見て、わずかに眉を上げた。
「切り替えは早いですね」
「潜入前に褒められても、何も出ませんよ」
「褒めてはいません。確認です」
「相変わらずですね」
アウラ――いや、アウレリアは、メイド服の裾を整えた。
◇
エイティゴ商会が管理する屋敷は、帝都の西、静かな区画にあった。
中に入って、アウレリアが最初に感じた違和感は――違和感がないことだった。
牢獄ではない。
窓に鉄格子はなく、扉に錠も見えない。
玄関には花が生けられている。
廊下は磨かれ、階段の手すりに埃はない。
豪奢ではないが、貴族の屋敷として整っている。
若い娘たちが、鎖につながれてもいなければ、痩せ細ってもいない。
食事は三度出る。
パンも肉もある。
使用人もいる。
料理番も、洗濯女も、庭師も。
だから、一見すれば、ここは犯罪の現場には見えない。
アウレリアは新入りのメイドとして働きながら、三日をかけて屋敷の内側を見た。
見えてきたものは、地味だった。
令嬢たちは、一人で外へ出られない。
外出そのものは禁じられていない。
だが必ず「付き添い」がつく。
付き添いは商会の人間だ。
手紙は書ける。
書いていい。
ただし投函は使用人が引き受ける。
封をした手紙を渡した令嬢が、翌朝もう一度同じ手紙を書き直しているのを、アウレリアは一度だけ見た。
そして――誰も、自分の行き先を知らない。
「奉公先はどちらです?」
そう尋ねると、返ってくる答えはいつも同じだった。
「出発前に、詳しく説明していただけるそうです」
給与の額も、正確に知る者はいなかった。
アウレリアは、掃除の手を止めずに考えた。
鎖はない。
錠もない。
見張りらしい見張りもいない。
――檻は、この屋敷ではない。
あの契約書だ。
あの紙の上で、彼女たちはすでに逃げられなくなっている。
◇
四日目に、アウレリアはひとりの令嬢の世話を命じられた。
「カリーナ・リンド様よ。伯爵家のお嬢様。粗相のないように」
女中頭にそう言われて通された部屋は、屋敷の二階の東側にあった。
扉を開けると、窓辺に娘が座っていた。
十八歳。
栗色の髪を肩のあたりで切りそろえている。
膝の上で手を組み、外を見ていた。
アウレリアが入ると、娘は立ち上がって会釈した。
メイドに、である。
「カリーナ・リンドと申します。今日から、お世話になります」
「アウレリアと申します」
アウレリアは膝を折り、深く礼をした。
背筋の角度。
視線の高さ。
手の重ね方。
この三日で、屋敷の使用人たちに合わせて微調整してきた礼だった。
侯爵令嬢の礼ではなく、雇われて日の浅いメイドの礼。
顔を上げると、カリーナが少し目を見張っていた。
「――きれいな髪ですね」
「え?」
「銀の髪。珍しいわ」
アウレリアは自分の背の髪へ手をやった。
高く結った銀髪が、窓からの光を受けて白く見えているのだろう。
「田舎の生まれですので、村では気味悪がられました」
用意していた答えを、用意していなかったような間で返す。
カリーナは慌てて首を振った。
「ごめんなさい。悪い意味ではないのです。……失礼なことを言いました」
娘は、疲れていた。
化粧では隠しきれない目の下の影。
アウレリアは荷物の整理を始めた。
鞄から取り出される衣類は、どれも上等だが、幾度も繕われていた。
「リンド家は、遠方でいらっしゃいますか?」
「北の方です……もう、あまり大きな家ではありませんけれど」
カリーナは薄く笑った。
「昔は、もう少し豊かだったそうです。今は、父がずっと家を保たせようとしています」
少しずつ、話が出てきた。
三年前、リンド伯爵家はエイティゴ商会から融資を受けた。
最初の一年は、返せていた。
二年目に、契約の更新があった。手数料がかかった。
その年は家の収入が大きく落ち、返済が滞った。
延滞金がついた。
商会は追加の融資を申し出た。断れば差し押さえだと言われた。
三年目には、債務は最初の三倍になっていた。
「それで、商会の方が」
カリーナは膝の上で指を組み直した。
「私が商会の紹介先で働けば、その分を借金から引いてくださると」
「お嬢様が、ご自分で決められたのですか?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「父は反対しました。母は泣きました。でも、他に方法がなかったのです。私が働けば、家は残ります。弟もまだ幼いですし」
アウレリアは、たたんだ衣類を棚へ入れる手を止めなかった。
止めれば、この娘は何かに気づく。
この娘は、自分が騙されたとは思っていない。
家を救うために自分が選んだのだと、本気で思っている。
だから――今もまだ、耐えられている。
「奉公先は、どのようなお仕事なのでしょう?」
「それが……」
カリーナは言葉を探した。
「詳しくは、出発の前に伺えると」
「では、お給金は?」
「……月に、いくらいただけるのかは」
娘は口をつぐんだ。
そして、自分でその沈黙に驚いたような顔をした。
アウレリアは、何も言わなかった。
◇
六日目の夕方だった。
洗濯物をたたむ手伝いをしているとき、廊下の向こうから、年下の令嬢たちの声が聞こえてきた。
十四、五だろうか。この屋敷で最も若い娘たちだ。
「ねえ、ミーナ様からお返事は?」
「まだよ」
カリーナの声だった。
「三度お出ししたのだけれど」
「先に行かれた方は、みなさんお返事がないですね」
年下の娘が言った。
そして、すぐに自分で言葉を継いだ。
「きっと、向こうが忙しいだけですわ。新しいお勤めですもの」
「……ええ」
カリーナの返事には、一拍の間があった。
「きっと、そうですわね」
アウレリアは、洗濯籠を持ち上げた。
この数日の聞き取りでは、この屋敷から「奉公先」へ出た令嬢は、この半年だけで十人を超える。
司法局が把握していた五件は、全体の一部にすぎないのかもしれない。
そのうちの一人からも、手紙が戻ってきていない。
――そして、この娘はもう、それに気づいている。
気づいたうえで、年下の娘たちの前では気づいていないふりをしている。
アウレリアは籠を抱えて廊下を歩いた。
◇
メリックスと初めてまともに顔を合わせたのは、その夜だった。
厨房へ続く裏の廊下。
燭台の下に、大きな影が立っていた。
アウレリアより頭ひとつ以上高い。
肩が広い。
腕が太い。
屋敷の使用人たちとは、纏っている空気が違った。
商会の用心棒だと、女中頭が言っていた男だ。
アウレリアは道を空け、頭を下げた。
男は何も言わずに通り過ぎた。
この日はそれだけだった。
――問題は、その二日後に起きた。
夜、洗い場から戻る途中の廊下。
アウレリアは、背後の空気が動いたのを感じて振り返った。
三歩ほど後ろに、メリックスが立っていた。
声をかけようと口を開きかけた形のまま、男は止まっていた。
「……耳がいいんだな」
しまった、と思った。
思ったが、顔には出さない。
「まあ、驚いた」
アウレリアは胸に手を当て、少し息を乱してみせた。
「申し訳ございません。田舎では、足音を聞き分けられませんと仕事になりませんでしたので」
「田舎ってのはどこだ」
「北の方の、小さな村です。狼が出ますもので」
嘘は短く、具体的に。
長く語れば語るほど、綻びが増える。
メリックスは彼女を見ていた。
顔ではなく、足元を見ていた。
それから、視線が上がった。
燭台の火が、結い上げた銀髪の表面を撫でていく。
「珍しい髪だな」
「よく言われます」
「――そうかい」
男は横を通り過ぎた。
角を曲がる直前、もう一度だけ振り返ったのを、アウレリアは廊下の窓ガラスの反射で見ていた。
その翌日、彼女は水を張った桶を二つ、片手ずつで運んでいるところを見られた。
メリックスは何も言わなかった。
言わなかったが、それきり、彼は屋敷の中でアウレリアの近くに立つことが増えた。
用があるわけではない。
ただ、そこにいる。
――疑われている。
アウレリアは、桜花章の位置を指で確かめた。
起動はしない。
まだ、記録すべきものが何もない。
◇
その数日のうちに、洗濯物を運ぶついでに、控えの間の机へ広げられていた紙を目にする機会があった。
令嬢の名が並び、それぞれの隣に日付が添えられている。
カリーナ・リンドの欄には、十日後の日付が入っていた。
アウレリアは、それだけを頭に留めて部屋を出た。
◇
同じころ、帝国司法局。
アーレス・ブロウは、机の上に三年分の書類を積み上げていた。
左に、エイティゴ商会の融資契約。
中央に、失踪した令嬢たちが「奉公へ出た」とされる日付。
右に、商会が所有する馬車の運行記録。
彼は指先で日付を追い、一つずつ突き合わせていった。
半日かけて、線が一本引けた。
「――重なりますね」
令嬢が屋敷を出たとされる日と、商会の特定の輸送便が動いた日が、一致する。
しかも、その便は決まって夜間に出ている。
行き先は交易区。
そこから先は、港へ続く街道だ。
馬車の運行記録と交易区の倉庫登記を照合する。
同じ便が立ち寄っている倉庫のうち二つは、エイティゴ商会の公式な事業記録には載っていなかった。
アーレスは背を伸ばし、天井を仰いだ。
ここまでだ。
ここまでは書面で追える。
だが「その倉庫で人が売られた」までは、書面のどこにも書いていない。
書いてあるはずがない。
「やはり、中と外の両方から詰めるしかありませんね」
誰に言うでもなく、彼は呟いた。
◇
夜。
カリーナの部屋の暖炉の火が、低く落ちていた。
アウレリアは寝台の支度を終え、部屋を出ようとして――足を止めた。
カリーナは、窓辺に立って外を見ていた。
この数日、この娘はよくそうしている。
外に何があるわけでもない。塀と、その向こうの街の灯りだけだ。
「お嬢様」
アウレリアは声を落とした。
「――もし今夜、この屋敷から出られるとしたら、どうなさいます?」
カリーナが振り返った。
長い沈黙があった。
暖炉の薪が崩れる音がした。
やがて娘は、静かに言った。
「……あなたは、どなたなの?」
問い返された。
アウレリアは答えなかった。
カリーナも、答えを待たなかった。
彼女は窓へ向き直り、それから言った。
「私だけ逃げれば、残った借金は父と母へ戻されます」
声は震えていなかった。
むしろ、何度も自分に言い聞かせてきた者の声だった。
「契約書を読みました。私が奉公を放棄した場合、減額は取り消され、違約金が加わります。家は、それで終わりです。弟は、学院へ行けません」
「――お嬢様」
「それに」
カリーナはようやく振り返った。
「エルナとリーゼが、まだこの屋敷にいます」
年下の令嬢たちの名だった。
「あの子たちを置いて、私が先に逃げることはできません」
アウレリアは、しばらく何も言えなかった。
この娘は、犠牲になろうとしているのではない。
選べる手を全部数えて、そのうえで、残った一本を掴んでいる。
――それを、美しいとは思わなかった。
この娘が今夜こうして立っていることそのものが、あの契約書の成果なのだ。
商会は、鎖を使わずに人を縛る方法を知っている。
娘の善良さと責任感を、そのまま錠前に変えている。
アウレリアは深く息を吸った。
胸元の銀の花が、わずかに上下した。
(――ならば)
彼女は思った。
(逃げなくても済むようにする)
この娘一人を今夜連れ出しても、事件は何一つ終わらない。
やがて、次の令嬢がこの屋敷へ来る。
終わらせるには、契約そのものを、商会そのものを、法の中で潰すしかない。
そのためには――証拠が要る。
「アウレリア?」
「いえ」
アウレリアは頭を下げた。
「差し出がましいことを申し上げました。お忘れください」
部屋を出て、扉を閉める。
廊下は暗かった。
◇
二日後の朝、屋敷が急に慌ただしくなった。
女中頭が階段を駆け上がってくる。
使用人たちが呼び集められる。
「支度をなさい! 今夜、出発ですよ!」
アウレリアは箒を持ったまま、その声を聞いた。
今夜。
――早い。
カリーナの出発は、予定表では十日後になっていたはずだ。
令嬢たちの部屋から戸惑いの声が上がった。
エルナという娘が泣きそうな顔で廊下へ出てきて、女中頭に追い返されている。
「なぜ急に?」
アウレリアが尋ねると、女中頭は苛立たしげに答えた。
「私が知るわけないでしょう。商会からの指示です。荷は最小限、身の回りのものだけ。急ぎなさい」
アウレリアは荷造りを手伝いながら、頭の中で計算していた。
ここで潜入を切り上げれば、今夜の移送そのものを止める道はある。
だが、それでは最終的な移送先も、引き渡し先も、ブル本人の関与も掴めない。
合図を残せば、アーレスたちは追跡を始める。
危険が高まれば、二度目の合図を送らなければいい。刻限を過ぎれば司法局が入る。
カリーナたちを守る手は、まだ残してある。
商会は「奉公の斡旋をしていただけです」と言うだろう。
屋敷の令嬢たちは全員無事で、一人も傷ついていない。
契約書はすべて揃っている。
立件は、できない。
ブルは無傷で、屋敷を一つ畳むだけだ。
三か月後には、別の屋敷ができている。
(――行き先を見なければ)
誰が受け取り、どこへ運ばれ、その先で何が起きるのか。
それを自分の目で見るために、自分はここへ入ったのだ。
アウレリアは、カリーナの鞄の留め具を締めた。
この娘を、これから危険な場所へ連れて行くことになる。
助けられる機会を、自分の判断で見送るということだ。
それを言い訳する言葉を、彼女は探さなかった。
――代わりに、必ず守ると決めた。
「アウレリア」
女中頭の声が飛んだ。
「あなたも行きなさい。道中、お嬢様方の世話をなさい」
アウレリアは顔を伏せ、承知しましたと答えた。
伏せた顔の下で、息をひとつ吐いた。
商会自身の命令で、堂々と同行できる。
これ以上の潜入経路はない。
夜の馬車が向かう先は、令嬢たちの「奉公先」ではなかった。
銀髪のメイドは、その闇の中で思いもよらぬ人物と遭遇する。
次回、第2話「秘密倉庫」




