第9話 半分の携帯食
「……まいったな」
たどり着いた村の中心近くにある、比較的損傷の少ない民家へ彼女を残し、私はひとり村を見回った。
道なりに点在する民家は、どれも無残に荒れ果てている。
割れた食器、倒れた家具、踏み散らされた衣類。
だが、人の姿はどこにもない。
家の奥、床下、物置の陰まで確かめてみても、息づかいひとつ聞こえなかった。
私は深く息を吐いた。
道中、回り道をしながらいくつもの村や町に立ち寄ってみた。
だが、どこも同じだった。魔物を恐れて逃げ出したのだろう、人の気配は完全に消え失せている。
こんな防御力も持たぬ村に留まっていれば、待つのは死だけだ。
だからこそ人々は、城塞都市である王都を目指し、家も畑も思い出も、すべてを捨てて逃げ出したのだろう。
何軒も確認してきたが、目にするのは似たような破壊の跡ばかりだ。
先ほど川の水で潤したはずの喉が、ひどく乾いていくのを感じた。
前回の記憶では、この時点ですでに王都の内部にも、それなりの強さを持つ魔物が侵入していたはずだ。
ということは、ロウヒル領から王都へ至る街道沿いのどの村にも、すでに魔物が出没しているということになる。
つまり――どの道を辿ろうと、人が残っている可能性は限りなく低い。
「馬車が壊れたのが痛かったな」
壊れかけた民家の壁に、背を預ける。
ひび割れた石壁の冷たさが、じわりと背中越しに伝わってきた。
私は瞳を閉じ、胸に溜まった息をゆっくりと吐き出す。
彼女が乗っていた馬車は魔物に襲われ、大破した。馬も御者も命を落としている。
私の馬だけが運よく難を逃れたが、休みなく走らせた代償は大きい。
すでに脚を痛め、もはや全速力で駆けることはできない。
彼女を乗せてゆっくり進む分には問題なかったため、今は私が手綱を引き、徒歩で移動している。
つまり、この速度では王都に辿り着くまでに、それなりの時間を要する。
時間がかかれば、その分、食料も早く尽きる。
そして――今が、まさにその状況だった。
行きは、彼女の馬車に追いつくため、身軽なまま馬に飛び乗った。
帰りは当然のように馬車があるものと考え、馬が潰れても構わないとばかりに急がせた。
だが、その前提だった馬車は、もう存在しない。
ならばと、帰路に点在する街や村で食料を分けてもらおうと立ち寄ったが、すべて空振りだった。
人影はなく、食料も根こそぎ持ち去られていた。
「詰んだ……」
口にした瞬間、その言葉がやけに現実味を帯びた。
手元に残る携帯食へ視線を落とす。
もう、これしかない。
明日からは獣でも狩るしかないか。
自然と、村の境目に立つ柵の向こうへ目が向く。
その向こうには、不気味なほど静まり返った森が広がっていた。
魔物が徘徊するような場所に、食用になる獣がいるとは思えない。
それでも、他に選択肢はない。
そう考えながら、村中を歩き回った。
家屋の中や物陰まで念入りに確かめてみたが、やはり成果はなかった。
小さく息を吐き、私はリュミエールが待つ、比較的無事な民家へと引き返した。
そこでは彼女が、破壊された台所から使えそうな材料を見繕い、庭で即席の竈門を組み、静かに湯を沸かして待っていてくれた。
侯爵令嬢とは思えぬ手際の良さだ。
あれほど冷静に戦況を見極められる彼女だ。野営や、厳しい訓練の経験があったとしても不思議ではない。
感心しながら、壊れて大きく開いた玄関から中へ入る。
ダイニングに残っていた壊れていない椅子へ腰を下ろすと、彼女も庭から戻り、向かいの椅子へ静かに座った。
彼女は竈門で温めたのだろう白湯の入ったコップを手に、ひとつを私へ差し出した。
片手でありがたく受け取りながら、残っていた携帯食を取り出す。
あれだけ村中を回っても成果はなかった。
胸の奥に重いものを抱えたまま、それを彼女へと示す。
「すみません。今日も携帯食しかなくて……」
私は携帯食を半分に割り、片方を彼女へ手渡した。
彼女は「ありがとう」と小さく礼を述べ、それを受け取る。
私は、残った半分を口に運びながら、自然と明日からの食事のことを考えてしまう。
私は野営訓練で食事を抜くことにも慣れている。
だが、彼女は侯爵令嬢だ。
これまで携帯食への不満を口にしたことはないが、この味が決して美味とは言えないことを、私はよく知っている。
そんなことを考えながら唸っていると、不意に視線を感じた。
顔を上げると、彼女が携帯食を手にしたまま、じっとこちらを見つめている。
――しまった。半分では足りなかったか。
だが、残りはすでに食べてしまった。
あとは川で汲んできた水しかない。
「あー……すみません。食料は、もうそれしかなくて……」
言葉を探していると、リュミエールはためらいもなく、自分の分をこちらへ差し出してきた。
「あなたは私を馬に乗せ、その間ずっと歩いていたわ。わたくしより体力を使っているでしょう? わたくしは構いませんから、あなたが食べて」
思いもよらぬ申し出に、言葉を失う。
王城ではほとんど言葉を交わしたことがない。
兄上の態度や彼女の雰囲気から、どこか冷淡な人物だと勝手に決めつけていた。
だが今、彼女は迷いなく腕を伸ばし、携帯食を私へと勧めている。
ありがたい気持ちはあるが、女性の分の食料を奪うわけにはいかない。
「とても嬉しいのですが、それが最後の食料なんです。もらうわけにはいきませんよ」
その言葉に、彼女は小さく首を傾げた。
「でも、足りないのではなくて? わたくしなら、まだ平気ですわ」
「いえ、あなたが食べてください」
「嫌ですわ」
きっぱりとした拒絶に、少し驚く。
こんなふうに感情を押し出してくるとは思わなかった。
「あなたが食べるまで、わたくしは拒否いたしますわ」
彼女が空腹でないはずがない。
食事を切り詰めてきたのは、私だけではないのだから。
「どうして、そこまで……」
理由を問うと、彼女は何かを言いかけて、ふと止まった。
視線を伏せ、戸惑ったような表情を浮かべる。
「なぜ……なのかしらね」
本当に自分でも分からない、と言いたげな声音だった。
それでも、彼女は顔を上げる。
まっすぐに私を見つめ、携帯食を掲げる。
「でも、私は――あなたに食べてほしいの」
その一言に、胸がわずかに震えた。
表情は乏しい。
だが、その奥に、かすかな寂しさと――期待のようなものが滲んでいる。
紳士として、女性の食事を奪う真似はしたくない。
だが、この静かな願いを突き返すこともできなかった。
「……ありがたく、いただきます」
彼女の手から携帯食を受け取る。
その瞬間、彼女の瞳がほんのわずかに和らいだ気がした。
目に見えるほどではない。それでも確かに、喜びが宿ったように見えた。
◇
夜も更け、物音ひとつしない静寂が村を包み込む。
人は眠らずに行動し続けることはできない。
魔物の脅威はあるが、比較的無事な民家の奥でリュミエールが寝静まったのを確認してから、同じ部屋の隅で私も仮眠を取ることにした。
馬は入口付近につないである。
魔物が現れれば、真っ先に狙われるだろう。
心苦しいが、生存率を上げるためには仕方がない。
今のところ、魔物の姿も気配も感じられない。
そのわずかな油断があったのか、私は思いのほか深く眠ってしまった。
規則正しい寝息が、静かな室内に響く。
それを確かめるように、リュミエールは薄く目を開けた。
しばらくのあいだ、眠る彼をじっと見つめる。
フェリオンが目を覚ます気配がないことを確かめると、音を立てぬよう静かに身を起こした。
そして、物音ひとつ立てず、足音さえ消して玄関へ向かう。
玄関にいるのは、つながれた馬だけだ。
彼女は軽くその頭を撫で、口元に指を立てて鳴き声を出さぬよう示した。
馬はそれを理解したのか、わずかに耳を揺らしたが、声を上げることはなかった。
「いい子ね」
小さく呟き、もう一度だけ馬を撫でる。
そして、リュミエールは玄関を抜けた。
村の外れへ――その先に広がる、静まり返った森へと。
そして彼女は夜気に溶けるように、音もなく姿を消した。




