第8話 答えのない会話
思いがけず遭遇した魔物との戦いを経て、私は彼女を馬に乗せ、来た道を引き返すように帰路についていた。
腕の傷は、あのときポーションでどうにか塞いだ。
簡単な応急処置を施している最中、ポーションを持参していたことを思い出し、慌てて流し込んだ。
熱が傷口へと広がり、裂けていた皮膚はゆっくりと閉じていった。
おかげで、今は問題なく歩ける。
だが、油断はできない。
魔物が再び現れない保証はどこにもないのだから。
しばらくは無言のまま進む。
規則正しい蹄の音だけが、荒れた道に静かに響いていた。
やがて、その静寂を破るように、背後から落ち着いた声が届いた。
「行き先が間違っていましてよ? ロウヒル領は反対側ですわ」
あまりにも平静な声音に、私は息を詰める。
彼女はすでに受け入れているのだ。魔物の巣食うロウヒル領への追放を。
自らにかけられた冤罪を、抗うことなく背負おうとしている。
それを止められなかった自分の至らなさが、鈍い重みとなって胸の奥へ沈んでいく。
だが、その感情を悟られるわけにはいかない。
私は視線を前へ向けたまま、あえてぶっきらぼうに告げた。
「……いいんだ。あなたは冤罪で、こんな僻地に追いやられた。それを私が証明する。だから一旦、王都へ戻る」
「そうでしたの」
彼女はそれだけを呟き、促されるまま馬の背に静かに身を委ねた。
それ以上は何も言わない。
再び、沈黙が落ちる。
道には魔物に襲われた爪痕が点々と残っている。
荒れた地面や砕けた柵が、ここが決して安全な場所ではないことを雄弁に物語っていた。
その荒涼とした光景の中を、私たちは言葉もなく進んでいく。
この先も、きっと同じような理不尽が繰り返されるのだろう。
そう思うと、この沈黙を抱え続けることが、どうしようもなく耐え難かった。
聞きたいことは山ほどある。
だが、どこから、どんな言葉で切り出せばいいのか分からない。
冤罪で追放されたというのに、彼女の表情は、私が王都で遠くから見ていた、あの穏やかな横顔と何ひとつ変わらなかった。
兄上に対して、怒りはないのか。
悲しみは。恨みは。
けれど――。
馬上で風を受ける彼女の横顔は、相変わらず澄みきっていて、静かで、そして美しかった。
「何か、仰りたいことがおありで?」
無遠慮に視線を向け続けていたせいだろう。
彼女のほうから、先に声をかけてきた。
「いや……その……あなたは、兄上の判決を、どう思っているのかと……」
自分でも考えをまとめきれないまま、言葉が途切れ途切れに零れ落ちる。
問いかけながらも、何を聞きたいのか、自分自身が分かっていなかった。
それを聞いた彼女の表情は、やはり何ひとつ変わらない。
「あなたの兄上……。ああ、あなた、フェリオン殿下ですのね。お久しぶりですわ」
そこで、ようやく自分がまだ名乗っていなかったことに気づく。
――いや、そもそも私のことを覚えていなかったのか。
その事実に、胸の奥がわずかに沈む。
けれど、王宮でもほとんど言葉を交わしたことはないのだ。
いつも遠くから眺めていただけなのだから、無理もないのだろう――そう自分に言い聞かせる。
私は気を取り直すように小さく咳払いをし、改めて彼女へ向き直った。
「申し遅れました。お久しぶりです、リュミエール嬢。フェリオンです」
「あんな状況でしたもの。構いませんわ」
彼女は淡々と答えると、視線を前へ向けたまま、静かに先ほどの話を続けた。
「フロリアン殿下の判決のことは、別に、なんとも思っていませんわ」
――何も、思っていない?
彼女を追放へと追い込んだ相手だというのに。
思わず振り返る。
だが、その横顔は驚くほど静かだった。怒りも悔しさも、わずかな揺らぎすらない。
まるで、本当に何も感じていないかのように。
その無表情が、胸の奥をざらりと掻き立てた。
何に対する怒りなのか、自分でも分からない。
彼女か、兄上か、それとも――何もできなかった自分か。
気づけば、声は低く落ちていた。
「ですが、あれはどう見ても冤罪です。根拠のない作り話で罪を着せ、アデリーヌ伯爵令嬢と結ばれたいがために、あなたを切り捨てた」
私の切羽詰まった声に、彼女はわずかにこちらへ身を寄せる。
やがて、風に揺れる髪を指先で押さえながら、ちらりとこちらへ視線を向ける。
「それは……フロリアン殿下が、私を必要ないと思われた。それだけのことですわ」
風に溶けるような声音だった。
そこに怨嗟はなく、ただ事実だけが静かに置かれていた。
必要ない。
だから終わり。
それほど単純な話なのだろうか。
胸の奥で、何かが軋む。
彼女が怒らないことが、なぜこんなにも許せないのか、自分でも分からなかった。
「兄上だけではない。あなたの父上――侯爵でさえ、罪の内容を確かめもせず、あなたをこんな場所へ送った。……それでも、あなたはなぜ怒らないのですか」
気づけば、彼女へ向けて強い口調で言葉をぶつけていた。
詰め寄るような声音だったはずだ。
だが、彼女の声も態度も変わらない。
ただ静かに、私へ向き直ると口を開いた。
「私が怒れば、何か変わるのでしょうか?」
その一言が、胸の奥深くへ突き刺さる。
――変わらない。
彼女が何を言おうと、何を思おうと、兄上の判断が覆ることはない。
弟である私ですら、己の無力さに吐き気を覚えるほどなのだ。
それを、十八歳の少女ひとりの言葉で変えられるはずがない。
その事実が胸に重くのしかかり、私は思わず視線を落とした。
背後で、わずかに息を整える気配がした。
何かを決めたような、静かな間。
「私は、上手くやっていたと思っていました」
表情を崩さぬまま、彼女は言葉を紡ぐ。
「家族との接し方も、フロリアン殿下との関わり方も、すべて学び、覚え、ちゃんとできていると思っていました」
それでも――と、わずかに間を置く。
「フロリアン殿下には追放を言い渡され、父には見放され、私は間違っていたのだと知りました」
胸が締め付けられる。
相手の都合で振り回されているだけなのに、彼女はそれを自分の過ちだと言うのか。
「ですから、大人しくロウヒル領へと向かおうと思ったのです」
その声音には、波ひとつ立たない。
まるで自分の運命ではなく、遠い誰かの話をしているかのようだった。
「ですが、その途中で先ほどの魔物に遭遇しました。私はすべてを諦めていましたので、ここで死ぬ運命を受け入れました。護衛の騎士は早々に倒され、御者は逃げるために馬を酷使しました」
静かな語り口のまま、彼女は続ける。
恐怖を思い出しているはずだろうに、声は不思議なほど平坦だった。
「それでも、魔物は諦めませんでした。私を奪うために、執拗に追ってきたのです。御者も馬も限界で……もう少しすれば、私はすべてを奪われる。そう思っておりました」
その光景を想像しただけで、胸の奥がきしむ。
彼女は、本当にそれを受け入れていたのか。
そんな彼女の言葉が、ほんの一瞬途切れる。
「けれど――あなたの声が聞こえました。『大丈夫か』と」
それまで光のなかった彼女の瞳に、かすかな明かりが宿る。
それは、闇の底に差し込んだ細い一条の光のようだった。
「そんな言葉をかけられたのは、何年ぶりでしょうか。私を心配する声など、ここ十年ほど覚えがありません」
微笑みは浮かばない。
だが、その瞳の奥で、確かに何かが揺れた。
「だから興味が湧きました。すべてを受け入れるのは、もう少し後でもいいかと思ったのです」
表情は変わらない。
それでも、その声の奥に、ほんのわずかな熱が混じったように感じられた。
「それで馬車を降りました。すると、怪我をしている御仁がいらっしゃいました。あなたが私を気にかけてくださったのだと思うと……少しだけ、嬉しくなったのです」
抑揚のない口調で、彼女はそう言った。
――嬉しかった、と。
その言葉が、胸の奥を静かに揺らす。
私は勝手に、彼女を遠い存在にしていた。
冷ややかで、揺るがず、誰の言葉にも心を動かさない人だと。
誰にも心を許さぬように見えた彼女が。
私のたった一言を、そんなふうに受け取っていたなど。
思い描いていた彼女像が、足元から崩れていく。
彼女は感情を持たぬ氷の令嬢ではない。ただ、それを表に出す術を持たなかっただけの――十八歳の少女ではないか。
私は、こんな少女に嫉妬していたのか。
兄上は、こんな少女に罪を着せたのか。
「なので、魔物はぶっ飛ばしました」
彼女はこんなにも――
ぶっ飛ばす?
一瞬、思考が停止する。
音が遠のき、風が消え、馬の蹄の響きさえ霞む。
言葉の意味を理解するより先に、頭の中が真っ白になった。
……ぶっ飛ばした?
停止したはずの思考の奥で、ひとつの光景がゆっくりと再生される。
空を舞った馬車の扉。
岩壁に叩きつけられ、原形を失った魔物の躯。
喉の奥が、かすかに軋んだ。
違和感を悟られぬよう、ゆっくりと息を整える。
背を伝う冷たい汗を意識しながら、私は静かに彼女を振り返った。
「もう少しだけ、あなたと話がしたくなりましたので、あの魔物は邪魔だと思い、殺しました」
今まで一度も揺らがなかった彼女の口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
それが、彼女なりの笑みなのだと、直感する。
背筋にひやりとしたものが走る。
だが、それを顔に出すわけにはいかない。
私は口角を持ち上げ、努めて穏やかな声を作った。
「……強い、のですね。とても」
「はい。私は強いです。今まで、誰にも負けたことがありません」
迷いのない断言だった。
あの魔物を、文字通り叩き潰す人間など、初めて見た。
この細い腕で、何をどうすればあの破壊が生まれるのか、想像もつかない。
「でも、強いのは疲れます。倒しても倒しても、相手が現れるのです」
抑揚のない声。
ほんの刹那、肩がわずかに落ちたようにも見えた。
――倒しても倒しても現れる相手。
剣術の試合のことだろうか、と一瞬思う。
騎士団の誰かが、彼女に勝負を挑んだという噂を思い出す。
侯爵令嬢という立場ゆえに、すべて断っていたとも聞く。
だが、それほどの腕なら、挑戦者が後を絶たなかったのだろう。
「ですから、もう戦わなくてもいいように。侯爵令嬢らしく振る舞うため、必死に勉強しました」
その言葉は静かに落ちる。
まるで、自分に言い聞かせるように。
「フロリアン殿下との婚姻の話が来たときは驚きましたが……戦わずに済むのなら、それも悪くないと思ったのです」
そして、彼女は小さく息をつく。
ほんの一瞬だけ、表情が曇ったように見えた。
すぐに感情を押し殺すように視線を正し、何事もなかったかのように淡々と続ける。
「でも、私は失敗しました。何がいけなかったのか、分かりません」
その言葉は、静かに地面へ落ちていった。
泣きもせず、怒りもせず、ただ事実として告げる声音。
責める色はなく、恨みもない。ただ、自分の至らなさを探す響きだけが残る。
胸が、強く締めつけられた。
「あなたは……悪くない」
咄嗟に口をついて出たのは、あまりにも陳腐な言葉だった。
分かっている。
そんな一言で覆せるほど、彼女の現実は軽くない。
「けれど、フロリアン殿下も父も、私のことはもう要らないと仰いました」
静かな追撃だった。
否定したい。
怒鳴りたい。
だが、私の怒りは、彼女の傷を癒すものではない。
息が浅くなる。
痛いのは彼女のはずなのに、なぜ私の胸まで抉られていくのか。
少しだけ――いや、途方もなく強いだけの十八歳の少女に、なぜここまで重い罪を背負わせる必要があるのか。
王都を出たときの後悔よりも、さらに深い後悔が胸を締めつけた。
私は、たとえ彼女の冤罪を晴らせたとしても――
彼女の心まで、救えるのだろうか。




