第7話 理解の及ばぬ強さ
魔物に追われ、猛スピードでこちらへ突進してくる馬車が、突如として視界に飛び込んできた。
車輪が地面を抉り、砂煙が高く巻き上がる。空気そのものが震え、衝撃が遠くにいるはずの私の肌にまで伝わってくるほどの勢いだった。
馬車越しに捉えた魔物の体躯は、想像していたよりもはるかに巨大だ。
地面を揺らし、重い轟音を響かせながら、その巨体がこちらへ迫ってくる。
小さな馬車は、圧倒的な脅威に押し潰されそうになりながらも、それでも必死に前へ進んでいた。
「……なんてことだ」
緩衝地帯に近い土地柄のせいか、王都周辺に出没する魔物よりも、明らかに体格が大きい。
あのクラスともなれば、討伐には最低でも五人――いや、それでも足りるかどうか。
私は彼女を連れ戻すために来た。だからこそ、ここで無理をするわけにはいかない。
けれど、それでも救えるものなら救いたい。
だが、相手は単独で太刀打ちできるような存在ではない。
身軽さを優先し、護衛を連れてこなかった判断が、今になって鋭く胸を刺してくる。
――見殺しにするしかないのか。
無論、そんなことをするつもりはない。だが――どうすればいい……。
そう思いながら、馬車の軌道を目で追った瞬間、胸の奥に小さな違和感が引っかかった。
あの馬車には、見覚えがある。
艶やかな黒で統一され、随所に金の文様が施された、一目で高貴と分かる造りの馬車。
前の人生で、確かにこの目で見た。
リュミエール嬢を見送った、あの日。
彼女が乗っていた馬車と、同じものだと瞬時に悟る。
つまり、あの中にいるのは――。
結論に辿り着くよりも早く、私は剣を抜いていた。
迫り来る巨大な魔物へと向き直り、無意識のうちに足が前へ出る。
だが――あれを、どう止める。
地を震わせながら迫る魔物と、逃げ場を失いつつある馬車。
その距離は刻一刻と縮まり、思考する時間を容赦なく削っていく。
作戦を練る猶予など、もはや残されていない。
どうする――。
その時、馬車が大きく傾いた。
速度に耐えきれなかった車輪が悲鳴を上げるように軋み、次の瞬間、砕け散る。
投げ出された馬と御者が地面を滑り、横倒しになった馬車が鈍い音を立てて止まる。
その背後で魔物は大きく口を開き、為す術もない御者をひと息に呑み込んだ。
短い悲鳴が途切れ、あたりに不気味な静寂が落ちる。
その静寂を断ち切るように、私は前へ踏み込んだ。
救える命が、まだある。そう信じて魔物の脚へ剣を振るう。全力の一撃だった。
だが、返ってきたのは甲高い衝撃音と、弾き返される刃の感触。
腕に走る痺れが、残酷な現実を告げる。
――硬い。
確かに傷は与えた。
だが、致命傷には程遠い。
突然現れ切りつけた私に、魔物は動きを止め、ぎろりと睨みつけてくる。
低いうなり声が空気を震わせ、怒気を孕んだ咆哮が鼓膜を激しく打った。
この体格、この魔力反応。
どこを取っても、単独討伐の範疇を超えている。
ここは逃げるしか――。
「リュミエール嬢! 中にいますか!」
横倒しになった馬車へ声を張り上げる。
上を向き、沈黙していた扉が、鈍い音を立てて軋んだ。
「扉が歪んでいます。窓から脱出を。私はその間、この魔物の注意を――」
言い終える前に、轟音が響いた。
巨大な岩同士が激突したかのような衝撃とともに、馬車の扉が空高く吹き飛ぶ。
私も魔物も、対峙していたことを忘れ、空の彼方へ飛んでいく扉を呆然と目で追った。
……いま、なにが飛んでいった?
扉だという事実は視界に映っている。
だが、それを理解することを脳が拒んでいた。
魔物も同様なのだろう。明らかに動揺している。
その扉があった場所から、まるで宙から浮かび上がるかのように軽やかに、一人の女性がゆっくりと姿を現した。
長い銀髪が背に流れ、光を受けて白銀に輝く。
その姿を視界に捉えた瞬間、胸の奥がわずかに熱を帯びた。
冷静な光を宿した瞳が、静かにこちらを向く。
それだけで、鼓動がひとつ強く打った。
近寄りがたいはずの存在が、なぜか今は眩しい。
静かな気配を纏った、美しい人――。
「…………あなた、怪我をしているのではなくて?」
その一言で我に返る。
同時に、腕に鋭い痛みが走った。
先ほどの一撃の際、鋭い爪に引っかかれたらしい。
思っていた以上に出血がひどい。傷口から熱が逃げていく感覚に、視界がわずかに揺らいだ。
だが、ここで膝をつくわけにはいかない。
彼女を助けなければ。
「私が囮になります。向こうに私の馬を繋いであります。あなたは逃げてください」
私は――今回、ここで死ぬのだろうか。
彼女を助けて命を落とすのが、この世界での私の役目なのか。
次も生き返れるとは限らないというのに。
そもそも――なぜ私は、あの時生き返ったのか。
神の気まぐれか、ただの偶然か。
今になっても、その理由は分からない。
この先の世界を見ることが叶わないのは心残りだ。
それでも、胸の奥でそっと祈る。
彼女を助けたという選択が、この国にとって正しいものでありますように、と。
混乱していた魔物が我に返り、反撃の機会を窺う。
先ほどの一撃が効いたのか、踏み込むことを躊躇しているようだった。
これなら、彼女が逃げる時間くらいは稼げる。
私は魔物に剣を向けたまま、彼女の方へ顔だけを向けて叫ぶ。
「さぁ、リュミエール嬢。一気に走って――」
次の瞬間、彼女の姿が、ふっと掻き消えた。
私の周囲に旋風が巻き起こる。
背後から、先ほど扉が吹き飛んだ時を遥かに上回る轟音が響いた。
続いて、喉の奥を潰したような異様な咆哮が大地を震わせる。
恐る恐る、ゆっくりと魔物がいた方向を振り返る。
そこに、魔物の姿はなかった。
立っているのは、彼女だけ。
――あり得ない。
私が目を凝らして探した魔物は――はるか遠くの岸壁に叩きつけられ、崩れ落ちていた。
「大丈夫? あなた、顔色が悪いわ」
……いま、何が起こった?
理解が、完全に追いつかない。
「怪我のせいかしら。簡単な回復魔法ならわたくしもできますが、まずは止血をしましょう。血が止まれば、顔色も戻るはずですわ」
そこで、応急処置に使える道具が何もないことに気づいたらしい。
彼女は周囲を見回す。
壊れた馬車。息絶えた馬。魔物に噛み砕かれた御者の名残。
それ以外には、何もない。
仕方がないと言わんばかりに、小さく息をつき、ドレスの裾を迷いなく引き裂く。
「腕をお出しになって。縛るわ」
「あ……はい……」
手当てを受けながら、私は今起きた出来事を必死に反芻する。
彼女の馬車が魔物に襲われかけていた。
助けようとした私が怪我を負った。
その直後、馬車の扉が空を舞った。
――まず、そこだ。
なぜ、馬車の扉が飛ぶ?
その馬車の中から現れたリュミエール嬢。
私では歯が立たないと感じた魔物へ向かって、彼女は私を追い越し、一瞬で通り過ぎていった。
何をどうしたのか分からない。
気づいた時には、魔物は遠くの岩場で潰れていた。
彼女の動きは、まったく目で追えなかった。
剣術も体術も優秀だとは聞いていた。
戦略眼も、私が悔しさを覚えるほど鋭かった。
だが――聞いていない。
こんなにも――強すぎるなんて、聞いていない。




