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第6話 後悔を越えて

 侯爵の告白を聞いた私は、かける言葉も見つからないまま、書類を無造作に鞄へ詰め込み、屋敷をあとにした。


 すでに出立してしまった彼女を、今さらどうすることもできない。


 失意を抱えたまま城へ戻り、誰とも口を利かず、自室へ閉じこもった。


 私は、この後王都がどうなるか知っているというのに――何もできないまま、時間だけが過ぎていった。

 

 だが、どれだけ目を背けようとしても――嫌でも思い知らされる。

 前の人生で王都に魔物が襲来したあの騒動も、きっとあの令嬢が関わっていたのかもしれないと。


 なぜなら――。


「城門付近に魔物が三体出現しました!」

「騎士を出せ。一体につき三名で連携して迎撃しろ」


 鋭い報告と同時に、私は即座に号令を下した。

 その瞬間、城内の空気が一気に張り詰め、控えていた騎士たちが一斉に動き出した。


 ――やはり、来た。

 今回も魔物が王都へ侵入し始めたのだ。


 外交に出ている父上に代わり、兄上が臨時の執政を任されているのだが、気にすることもなく例の伯爵令嬢と共に毎日外出していた。

 仕方なく、私は城の執務室で兄上の代理として政務を取り仕切る。


 魔物が王都を襲いに来るなど、彼女が関係しているかもしれないという予感など、ただの思い過ごしであってほしかった。


 それでも――やはり、前回と同じ流れだ。


 違っているのは、日付。

 私が書類作成を引き延ばしたせいで、彼女の出立は三日遅れた。

 そして、魔物の出現も同じだけ遅れている。


 的確に指示を出しながらも、背筋を冷たいものが這い、次の瞬間、心臓がひやりと縮む。


 ――これが、偶然のはずがない。


 この符合の意味が分からぬほど、私は鈍感ではない。


 侯爵の話からしても、彼女にはなにかあるのだろう。

 それを知らなければ、今回もこの国は滅びの運命をたどる可能性が高い。


 だが、考えるよりも先に、身体があの記憶を思い出してしまう。


 また、死の間際に味わった、あの底知れぬ寒さを味わうのではないかと。


 あの時の記憶が鮮明によみがえり、身体が小さく震える。

 痛みには耐えられる。刃が肉を裂く痛みも、骨が軋む痛みも、いずれ慣れる。


 だが、身体の先から感覚が薄れていくあの感覚だけは、どうしても慣れることができなかった。

 指先から力が抜け、視界の端が暗く染まり、最後には、あれほど耳を刺していた人々の悲鳴さえ遠のいていく。


 世界から、自分だけが切り離されるあの孤絶。

 あの感覚は、死を経験した者にしか分からない。


 私は、もう二度と、あの孤独を味わいたくない。


 その記憶を振り払うように、私は勢いよく顔を上げた。


 分かっている。


 彼女を追うしかない、と。


 それでも足が震えた。

 彼女の秘密を知ることが、恐ろしい。


 知らなければ済んだものを、暴いてしまうのではないか。

 触れてはならぬ何かに手を伸ばすのではないか。


 喉がひりつくように乾く。


 それでも――死の恐怖に比べれば、ましだ。


 そう自らに言い聞かせながら、胸の奥へ力を集める。

 込み上げる震えを押さえ込むように、私はゆっくりと背筋を伸ばした。


 王族としての立ち方を、身体に思い出させる。

 迷いを奥へと沈め、私はまっすぐ前へ視線を向けた。


「今後の魔物の対応は――兄上に任せようと思う」

「フェリオン殿下?」


 私の発言に、その場にいた騎士たちは一瞬言葉を失った。


 その反応は当然だ。

 兄上に前線指揮が務まらぬことなど、城に仕える者なら誰もが知っている。


 ――そして、それを一番よく知っているのは、他ならぬ私だ。


 前回の人生で、兄上が決して戦おうとしなかったことを、この身で知っているのだから。


 あの時の兄上の姿が脳裏をよぎる。

 胸の奥に、落胆と怒りが同時に湧き上がる。


 その湧きあがった感情を無理やり飲み込み、深く息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。


「すまない。だが、この戦いを終わらせるために、私には行かねばならぬ場所がある。あとは……兄上のことは頼んだぞ」


 広間に重い沈黙が落ちる。

 やがて、騎士たちの悲壮な叫びが空気を震わせた。


 その声を背に受けながら、私は静かに歩き出す。


 行く先は、彼女が追放された地――ロウヒル領。

 魔物が跋扈する危険地帯へ、私は向かう。


 ◇


 兄上と騎士たちに王都の守備を任せてから、何日、馬を走らせただろうか。


 彼女が乗っていったのは馬車とはいえ、すでに数日も前に出発している。

 そう簡単に追いつけるはずがないことは、私自身も理解していた。


 思っていたよりも時間がかかっている。

 その事実が、じわじわと焦燥に変わり、胸を締めつける。


 もしや、すでに魔物に襲われてしまったのではないか。


 この、立ち寄った村のように――。


 屋敷も店も崩れ、誰も住んでいない廃墟と化した村に、私は馬を休ませるため立ち寄った。

 壁は抉れ、屋根は崩れ、通りには打ち捨てられた荷車が横倒しになっている。


 その惨状は、魔物の襲撃を物語っていた。


 だが幸いなことに、井戸の水は澄んでいる。

 桶を下ろせば、水音が静かに響いた。


 私は馬を井戸の傍らへ繋ぎ、しばし休ませることにした。


「お前にも無理をさせてすまないな」


 王都からほとんど休みなく走らせてきた馬の首を、労わるように撫でる。

 脚の運びは鈍く、吐く息も荒い。疲労は隠しようもなく、その身の隅々にまで深く刻み込まれていた。


 それでも――まだ頼らねばならない。


 道中のどこかの街で馬を替えることも考えた。

 だが、この辺りはすでに魔物が出没する地域だ。

 道中の町や村も襲撃を受けたのだろう。家々の戸は閉ざされ、人影はどこにも見当たらない。


 仮に人が残っていたとしても、馬は避難や逃走のために使い尽くされているはずだ。

 交換できるかどうかも分からぬ馬を探して足を止める余裕は、今の私にはなかった。


 焦る気持ちを押しやるように、腹の奥からゆっくりと息を吐く。


 当面の食料は携帯食でどうにかなるだろう。

 問題は馬だ。この先も休ませずに走らせ続けることはできない。だが、止まれば時間を失う。


 井戸水を汲み、馬に与えながら、私はふと王都の方角を振り返った。


 ――まだ、大丈夫だ。

 私の知る限り、あの城壁はそう簡単には崩れない。まだ持ちこたえているはずだ。


 ……兄上が、余計なことをしなければ、だが。


 兄上も、リュミエールから戦の知恵を学んでいればよかったのに――そう思わずにはいられない。

 それほどまでに、彼女の戦略は際立っていたのだ。


 今思い出しても、背筋に冷たいものが走る。


 侯爵家の令嬢という立場でありながら、軍の指揮官すら唸らせる作戦を組み立てる。


「令嬢ごときが口を出すことではない」


 そう陰で囁かれていたことも、私は知っている。


 だが、当の本人は気にも留めていなかった。

 指揮官の座を望んで進言したのではない。

 ただ、自らが導き出した最適解を、当然のものとして差し出しただけなのだろう。


 私も、彼女が提出した戦略案を読んだとき、思わず息を呑んだ。

 それは単なる城壁防衛の布陣ではなかった。


 魔物が強い魔力を感知する性質を逆手に取り、王都外縁に高出力の魔導装置を配置する。

 そして、侵入経路を意図的に一本へと絞り込む。

 そのまま市街地へ誘い込み、入り組んだ細い路地で分断し、各個撃破する。


 それは、王都そのものを巨大な檻へと変える戦略だった。

 人が考えたとは思えないほど魔物の生態に精通し、それを巧みに利用した、極めて完成度の高い戦略だった。


 なぜ、ここに気づかなかったのか。

 なぜ、この発想がこれまで誰の頭にも浮かばなかったのか。


 その案を十八歳の令嬢が考えたものだと告げられたとき、私は信じられず、その場で言葉を失った。

 いつも静かに立ち、鋭い眼差しで物事を見つめているあの令嬢が。

 近寄りがたい氷のような空気を纏う彼女が、ここまで戦場を見通していたというのだ。


 胸の奥に溜まっていた熱を逃がすように、ゆっくりと息を吐く。

 それでも鼓動は収まらない。

 高鳴っていた思考が、ようやく少しずつ現実へと引き戻されていく。


 ああ、そうだ。

 兄上の婚約者だからと無関心を装っていたが――違う。


 ――私は、悔しかったのだ。


 あの冷えた瞳の奥に、自分より遥かに遠くを見通す視界があることが。

 

 それに気づいた瞬間、喉の奥がひりつき、奥歯がぎりりと軋んだ。

 情けないほど子供じみた感情だと理解していながら、それでも抑えきれなかった。


 私は、自分の判断力や洞察力に少なからぬ自信を持っていた。

 それでも、私が考えつかない戦略を、彼女はいとも容易く思いつく。

 

 しかもそれを、軍の指揮官へためらいなく提出してしまう。

 私が躊躇して踏み出せない一歩を、彼女は何の迷いもなく越えていく。


 わずかに息を整え、胸の内の感情を押し鎮める。

 だが思考は静まるどころか、自然と過去へと遡っていく。


 妃教育で彼女が王城に通っていた頃も、私は意識して顔を合わせないようにしていた。

 理由は単純だ。


 私は、彼女の類まれなる才に嫉妬していたからだ。


 だから前回、私は彼女を助けなかった。

 自分には関係ないと言い聞かせ、目を背けた。


 その選択が、どれほど取り返しのつかないものだったのかを、私はもう知っている。


 自分の心の醜さに気づいた瞬間、視界から色が抜け落ちたように感じた。

 私でさえこうなのだ。婚約者である兄上なら、なおさらだろう。

 

 頭脳も、礼儀も、所作も、立ち居振る舞いも。

 あらゆる面で、彼女は一段上にいた。


 剣術の腕も相当だと聞く。

 真偽は定かではないが、もしそれが事実なら――兄上の劣等感は、想像に難くない。


 王位を背負う者としての焦燥は理解できる。

 その重圧の重さも、分からぬではない。


 だが。

 

 それと今回のことは話が別だ。

 冤罪を着せ、追放してよい理由には決してならない。


 思い出すのは、あの冷えた瞳。

 誰にも媚びず、ただ真っ直ぐに物事を見据える視線。

 近寄りがたい空気を纏いながら、それでも決して揺らがなかった姿。


 彼女がどんな人物なのか、避け続けてきた私には、まだ分からない。


 それでも――必ず見つけ出し、連れて帰る。


 そう決意し、休憩を終えて鐙に足をかけた――その時だった。


 風がわずかに揺れた。

 次の瞬間、前方から切迫した叫び声が届く。


 顔を上げた私の視界に、魔物に追われながら猛然とこちらへ向かってくる一台の馬車が飛び込んできた――。

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