第10話 ゼフィリアという名
「……これは、一体、なんなんだ?」
寝床にしていた民家の玄関先に、数体の獣が無造作に転がっていた。
いや――転がっている、という表現は正しくない。
どれもすでに息絶え、ぴくりとも動かない。
つい先ほどまで生きていたと分かる、生々しい血の匂いが、朝の冷たい空気にかすかに混じっている。
背後から、足音もなく声が落ちる。
「おはようございます」
まだ寝起きの気配を残したままのリュミエールが、玄関の惨状を前にしているとは思えないほど穏やかな声音で声をかけてきた。
「これだけあれば、当分は食料を心配しなくてもよさそうですわね。ですが、肉ばかりでは身体に良くないと聞いたことがありますの。村の畑に残っていた、食べられそうな野菜も取ってきました。さっそく調理いたしましょう」
あまりに当然の調子で告げられ、私は言葉を失った。
「え……あなたが、調理するのですか?」
「はい。肉は生ではいけないと聞いていますから、このまま竈門に投げ込めばよろしいのですよね。野菜は生でも問題ないでしょうから、土を払って盛り付ければ十分かと」
彼女は倒れている獣の脚を指差し、毛も皮も剥がさぬまま火へ放り込むように手を動かす。
さらに、拾ってきたらしい野菜も、水で洗うという発想すらないまま、そのまま皿に並べようとする。
その豪快さ――いや、不器用さに、私は思わず笑みが零れそうになる。
野営に慣れているのだと思っていた。
だが、どうやら違うらしい。
今までの知識は、実地ではなく、書物や講義で得たものなのだろう。
理屈は知っている。だが、実際に手を動かした経験はない。
――やはり彼女は、侯爵令嬢なのだ。
何もかも完璧にこなす人間だと、どこかで思い込んでいた。
だが、こうして世間知らずな一面を見せられると、不思議と胸の奥が温かくなる。
それが妙に、人間らしく思えて――胸の奥が、少しだけ軽くなった。
私は解体用のナイフを手に取り、転がっている獣を何体か掴む。
「私が解体しますよ。近くに川がありましたから、血抜きもできますし。これだけあるなら、日持ちするように燻製も作りましょう。ついでに野菜も洗いましょう」
川へ運ぶため肩に担ぎ上げると、ずしりとした重みが肩に食い込んだ。
野菜は民家に転がっていた籠に入れ、腕に引っ掛ける。
「野菜は芋類以外は日持ちしませんから、傷みやすいものは今日中に食べましょう。あとは道中で見つけたら採りましょう」
彼女の、令嬢らしい――ある意味で可愛らしい一面を知ったせいか、いつもより言葉が自然と軽くなる。
表情を作れないだけで、この人はただの美しい令嬢なのだと思うと、理由もなく心が温かくなった。
そんな私の背に、彼女が疑問を投げかける。
「……血抜き?」
一拍置いて、彼女は首を傾げる。
「血は飲まないのですか?」
「……血が残っていると腐るのが早くなります。すべて抜いて流水で洗い流します。冷水で肉の熱も奪えますし、匂いも抑えられますから、猛獣を引き寄せる危険も減るんです」
初めて聞く話だと言わんばかりに、リュミエールは目を瞬かせ、ゆっくりと頷いた。
「そうなんですのね。でも、血も飲めば喉を潤しますし、美味しいと思いますのに」
その発言に、先ほどまでの和やかな気持ちが一気に現実へ引き戻される。
理屈としては理解できなくもない。
だが、血を口にするというのは――少々どころではなく、かなり過激だ。
もっとも、実際に野営を経験したことがないのなら、そこまで思い至らないのも無理はないのかもしれない。
川へ着くと、私は靴を脱ぎ、袖とズボンの裾をまくった。
獣を流水の中へ運び入れ、刃を入れる。流れる水が血をさらい、赤い筋が川下へと溶けていく。
慣れた手つきで皮を剥ぎ、内臓を取り除き、手早く肉を分けていく。
冷たい水の感触が指先を痺れさせるが、構わず作業を続けた。
その様子を、リュミエールは黙って見つめている。
表情は相変わらず乏しいが、わずかに目を見開き、刃の動きを一瞬たりとも逃すまいとしていた。
「……すごいですわ」
ぽつりと漏れた声には、隠しきれない感嘆が滲んでいる。
その一言で、胸の奥に小さな満足感が灯った。
王子として称えられることはあっても、こうして技そのものを見て感心されることは、そう多くない。
彼女は完璧で冷たい存在などではない。
知らないことに素直に驚き、目の前の技を真剣に見つめる――ただ、それだけの人だ。
そんな彼女の料理に関する思わぬ一面に気を取られ、
なぜ獣たちが玄関先に積まれていたのかという疑問は、
いつの間にか私の意識の端へと追いやられていた。
◇
その後の帰路は、拍子抜けするほど順調だった。
食料は十分に確保でき、馬の調子も安定している。
王都までは、あと数日。
不自由な旅路にもかかわらず、リュミエールは目立って疲れた様子を見せなかった。
懸念していた魔物とも遭遇していない。
――だからこそ、私は油断していた。
「ちっこいな、人間ってのは」
王都への街道で、このような知性を持つ高位の魔物と遭遇するなど、運が悪いにもほどがある。
目の前の魔物は馬よりも大きく、下手をすれば民家ほどの高さがあるのではないかと思わせるほどの巨体だった。
全身を覆う黒い体毛は硬質で、口元から覗く太く鋭い牙が不気味に光る。射抜くような眼光には明確な理性が宿り、異様に太い腕には、殴られれば一撃で命を奪われると理解できるほどの筋肉が盛り上がっていた。
しかも、ただ巨大なだけではない。
――知能を持つ個体だ。
知能を持つ魔物は、総じて戦闘能力も高い。
本能だけで暴れる魔物とは違い、状況を見て戦略を組み立てる。
力と狡猾さを併せ持つ相手に、一人の人間が敵うはずもない。
さすがに恐怖を覚えているのか、リュミエールも無言で魔物を見据えている。
その瞳には、恐怖とは別の、どこか懐かしむような色が浮かんでいるように見えた。
徒歩で王都へ戻ろうとした判断は、やはり無謀だったのか。
彼女を生きたまま連れ帰ることは、不可能なのだろうか。
私たちを舐め回すように観察していた巨体の魔物が、ふと思いついたように呟いた。
「そういや人って、腕とか引きちぎったら再生すんのか?」
なぜそんな発想になるのか。
唐突で、あまりにも野蛮な問いだった。
「しないわ」
――あなたも答えるのですか。
今日の天気でも尋ねられたかのような当然の口調に、思わず内心で突っ込む。
「人間は怪我をしたら、ポーションという薬か回復魔法で治すの。それでも、引きちぎられた腕が生えてくることはないわ」
リュミエールは、巨体を前にしても淡々と説明する。
そんな説明で襲撃を思いとどまるとは思えない。
だが、問答が続く限り、わずかな時間は稼げる。
その間に、この場を切り抜ける策を考えなければ。
知能の高い魔物には、交渉が通じる場合もあると読んだ記憶がある。
何か差し出して見逃してもらうことは――。
だが、手持ちを思い返しても燻製肉くらいしかない。
人間を食らう魔物に、獣の肉で交渉が成立するはずもなかった。
結局、手札は何一つない。
その事実だけが、はっきりと突きつけられる。
「ふはは、ずいぶん弱っちくなっちまったなぁ、ゼフィリア。あれほど最強と謳われ同属の中でも恐れられていたお前が人間の身体に入っちまうとはな。今なら簡単に組み敷けるってわけか」
馬上のリュミエールを見下ろし、魔物が下卑た笑みを浮かべる。
「……何度申し上げてもお分かりにならないなんて、相変わらず残念な頭ですのね、ゾルド。わたくしの返事は変わらず――お断りですわ」
二人のやり取りを見て、胸の奥にもやりとした疑問が湧く。
――この二人は、知り合いなのか?
魔物を目の前にしたあの瞬間から、冷や汗は止まらなかった。
皮膚を伝うそれは、死を覚悟した身体が生み出す反応だった。
だが今、背筋を伝う汗は、それとは違う。
理解が追いつかない。
頭の中で何度も状況を組み立て直そうとするのに、形にならない。
思考が、足場を失ったように揺らいでいた。
魔物は彼女をゼフィリアと呼び、
彼女もまた、ゾルドと名を返している。
彼女の名は、リュミエール。
なぜ――
ゼフィリアと呼ばれることを、
一度も否定しないのか。
私には、その理由が理解できなかった。




