第11話 彼女が誰であっても
今、目の前にいる――王都への帰路の途中で出会った、この巨体の魔物。
奴は彼女――リュミエールに向かって、確かにこう言い放った。
――ゼフィリア、と。
そして当の彼女は、その名を否定しなかった。
私の中で、混乱が幾重にも積み上がっていく。
背中を伝う汗は、止まる気配もない。
彼女は魔物と知り合いなのか。
ゼフィリアとは誰のことなのだ。
君は、いったい――何者なのだ。
思考が定まらないまま、目の前で魔物がリュミエールに一歩近づいた。
その迫りくる威圧に、私は思わず一歩後ずさる。
だが彼女は姿勢を崩さない。
鋭い瞳で、威圧的な魔物を真正面から迎え撃っていた。
「今のお前が、俺に勝てると思うか?」
魔物はそう言って、確信に満ちた笑みを浮かべる。
自らの巨体と溢れる魔力を疑うことなく、目の前の少女を取るに足らぬ存在と断じている。
その視線は、すでに勝敗が決した後のものだった。
「……そうですわね。負けるかもしれませんわね。あなたにとっては、喜ばしいことでしょうけれど」
その言葉を、降伏にも等しい賛辞だと受け取ったのだろう。
巨体の魔物は、腹の底から響くような豪快な笑い声を上げた。
勝利を疑わぬその笑みには、もはや警戒心の欠片もない。目の前の存在を踏み潰したつもりでいる、余裕だけが満ちていた。
「ふはは! このまま逃げて終わると思っていたぜ。十八年間、まったく姿を現さなかったんだからな」
低く笑いながら太い腕を組み、微動だにしない彼女を、にやけた表情で睨みつけている。
「どこに雲隠れしたかと思っていたが……。あれほど最強と謳われ、同属の中でも恐れられていたお前が、そんな弱い人間の身体に入っちまうとはな」
――なんだって?
私の耳に、聞き捨てならない言葉が届いた。
人間の、体の中だと?
思わず喉が鳴った。
背筋を這う冷気は、さらにその強さを増す。
私はその言葉の先にいる彼女を、恐る恐る振り返る。
彼女は小さく、だが隠そうともせずに、ため息をついた。
「わたくし、ずっと求婚され続けて疲れてしまったのですわ」
当時を思い出すように、彼女は遠くを見る。
「そこにちょうど、中身のない赤子の身体がありましたの。人の身体は魔物としての魔力を遮断してくれますし、隠れ家として申し分ありませんでしょう?」
立て続けに告げられる衝撃の事実に、唾を飲み込むことすらできない。
その言葉は、出立前に侯爵が語っていた話と、ぴたりと重なった。
死んだ侯爵の娘に魔物が入り込み、令嬢として生きていた――そういうことなのか。
魔物が、人の世界の中に――?
思考が追いつかない。
これまで私が知る魔物の多くは、知能を持たず、本能のままに暴れる災厄だった。
知能持ちの存在も確認されてはいるが、その数は少なく、友好的とは言い難い。
人と交渉する魔物もいるが、利益がなくなれば平然と人を殺す。そんな存在ばかりだ。
魔物と人は、相容れない。
その認識は、揺るがないはずだった。
それなのに、目の前の美しい人は、自らを魔物だと言った。
人の赤子に入り込んだ魔物だと。
そんなことが、本当に――あり得るのか。
凛と佇む彼女の姿を見つめながら、私の手は微かに震えていた。
「あの強い身体を捨ててまで、人間なんぞになったお前の考えは分からねぇが……中身がお前なら話は別だ。俺のものになれ」
「――お断りいたしますわ」
その一言が、開戦の合図だった。
巨体の魔物が地を蹴り、彼女へ襲いかかる。
馬上にいた彼女は即座に跳び、巨体の魔物の顔面を軽く打ち据えた。
そのまま私と馬から距離を取るように、少し先の開けた場所へと誘導する。
次の瞬間、激しい衝撃音とともに、閃光が走った。
空気が裂けたような衝撃が、遅れて鼓膜を叩く。
魔物は硬質な身体を活かし、力任せに殴りかかる。
リュミエールはそれを軽やかに躱し、隙を見て魔法で反撃していた。
互角――いや、それ以上に見える攻防。
二人の戦いが生む風圧が、こちらまで押し寄せてくる。
それでも私は、彼女から目を離すことができなかった。
あの巨体の魔物と一人で渡り合うなど、人間にはできない。
彼女は本当に、魔物なのか。
リュミエールは、自分が人ではないと言った。
それでも、私の脳裏に浮かぶのは――
美しい横顔。
半分しか残っていなかった食料を差し出した手。
無表情でありながら、どこか微笑んでいるように見えた、あの顔。
今、力強く戦う彼女と。
不器用に言葉を選び、どこか優しさを滲ませていた彼女。
君は、いったいどちらなのだ。
振り上げられた巨体の拳が、あり得ない力で地面を叩き割る。
砕けた地面に足を取られ、リュミエールの体勢が一瞬崩れた。
その姿が、まるでスローモーションのように私の目に映る。
体が、勝手に動く。
――ああ、私は。
彼女は、強い魔物だ。
出会い頭に襲われた魔物も、一人で倒していた。
今思えば、玄関先に山と積まれていた獣の肉も、きっと彼女が狩ってきたものだろう。
私が密かに意識していたほどに聡く。
比べるのも烏滸がましいほど、圧倒的に強い。
だから、私が選ぶべき最善は――ここから逃げることだった。
それが、正しいはずだった。
――それなのに。私は、なんて愚かなのか。
「……フェリオン殿下?」
リュミエールの目の前にいた巨体の魔物の姿が、一瞬、黒い影に覆われるようにして、視界から消えた。
その異変を、リュミエールは理解するよりも早く、本能で察した。
視界が遮られたのだと気づいた、その瞬間。
赤く、生温かい液体が、嫌な水音を立てて頬を伝う。
骨の軋むような鈍い音が響き、鮮血が無数に飛び散った。
リュミエールは広い視野の隅で周囲を見渡し、先ほどまでいた場所に馬が一頭取り残されているのを確認する。
けれど。
――先ほどまで馬と共にいたはずの、彼の姿がない。
今、目の前で。
巨体の魔物に殴り飛ばされ、
反対側の樹木へと叩きつけられた、あの塊が。
それが、彼のはずがない。
足下から、嫌な寒気が一気にせり上がる。
胸の奥が、音を立てて凍りつく。
「なんだ、人間。邪魔をするな。後で食ってやるから、じっとしていろ」
巨体の魔物は吐き捨てるように言い、樹木へ叩きつけられたフェリオンを一瞥した。
幹に貼りついた身体が、力なくずるりと滑り落ち、地面に崩れ落ちる。
その衝撃で、フェリオンは激しく咳き込んだ。
口の中に鉄の味が広がる。
溢れた血が、地面へと滴り落ちた。
内臓をやられたかもしれない。
こうなることは、分かり切っていたはずだ。
それなのに、なぜ私は彼女を庇った。
どう考えても敵わない。
それどころか、完全な足手まといだ。
――ほら。
彼女が、無表情のまま私を見ている。
目を見開き、口を半開きにして。
驚きと動揺を隠しきれていない顔で。
――ああ、なんだ。
そんな表情も、するんだな。
いつか、笑っているあなたを――
見てみたかった。
そこで私は、意識を手放した。




