第12話 覚えているはずのない言葉
身体に鋭い痛みが走り、意識が無理やり現実へと引き戻される。
――自分は、死んだのか?
いや、違う。
私は、死を知っている。
死とは、あれほどまでに静かで、冷たく、何も感じないものだった。
もし本当に死んでいるのなら、こんなふうに全身を引き裂かれるような痛みを覚えるはずがない。
まして――こんなにも身体が、温かいはずがない。
となると、あの巨体の魔物との戦いは、まだ終わっていないのだろうか。
彼女は……無事なのだろうか。
胸の奥を掴まれるような不安に急き立てられ、重いまぶたを必死に持ち上げる。
視界はひどく揺れ、焦点が定まるまでに、しばらく時間がかかった。
どうやらここは、私が殴り飛ばされ、叩きつけられた木の根元らしい。
そう理解した次の瞬間――目の前に、リュミエール嬢の顔があった。
彼女は寝転ぶ私の上から、輝く銀の髪をさらりと揺らしながら、静かに覗き込んでいる。
「意識が戻ったみたいですね。傷口は、あなたが持っていたポーションと、わたくしの回復魔法で、できるだけ塞ぎました。ですが、まだ完治には至っていませんわ。動けるとは思いますが……痛いでしょう?」
相変わらず無表情だ。
けれど、その声音には確かな気遣いが滲んでいる。
無表情な彼女が、私を案じている。
その事実が、どうしようもなく嬉しいのは、なぜなのだろう。
そう思いながら手を動かそうとした瞬間、全身に鋭い痛みが走った。
思わず喉の奥からうめき声が漏れる。
あの巨体に、文字通り吹き飛ばされたのだ。こうして生きているだけでも、出来過ぎというものだろう。
それよりも――。
仰向けで横たわる私の頭上に、彼女の顔がある。
それが意味することは……。
「あの……この体勢は、もしかして」
「膝枕、というものですわね」
――やはり、そうか。
一気に、照れくささが胸の奥からせり上がってくる。
後頭部に触れている柔らかな感触の正体に、ようやく合点がいった。
申し訳なさと気恥ずかしさが同時に込み上げ、慌てて起き上がろうとする。
だが、彼女はすぐさま私を制止した。
「傷口は塞ぎましたが、内部はまだ断裂していると思います。動けば、激痛が走りましてよ?」
「ですが、この体勢はいささか……」
「動いてはなりません。まだ回復魔法をかけている最中ですわ」
私よりもよほど力の強い彼女に、片手で頭をしっかりと固定されてしまう。
抵抗は、これっぽっちも叶わなかった。
観念してその言葉に甘え、柔らかな彼女の脚へ、そっと頭を預ける。
後頭部に彼女の温もりが伝わってくる。
その温かさが、現実に生きている証のようで、胸の奥が静かに震えた。
そして、ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にする。
「あの巨体の魔物は? あなたは……大丈夫なのですか?」
「追い払いました」
あまりにも平然とした口調で、彼女はさらりと言う。
彼女自身が言っていたように、人間の身体に入った状態では、分が悪い戦いだったはずだ。
それを察したのか、彼女は私を見つめながら、丁寧に言葉を重ねる。
「この身体になったからといって、能力まで人間になったわけではありません。以前と違って防御力はほぼ皆無ですから、殴られれば死にますが、魔法で攻撃する分には、特に不自由はありませんわ」
その言葉を聞いた瞬間、ふと脳裏に兄上の姿が浮かぶ。
彼女の魔法適性について、自分より優れていると知った兄上が、嫉妬を滲ませながら罵っていたあの日のことだ。
「そういえば、あなたは全適性の魔法が使えましたね。しかも、かなり強い魔法だとお聞きしました」
「覚えていてくださったの? でも、強い、なんて言われると恥ずかしいですわ」
「恥ずかしがることはないでしょう。あなたは、並の魔物など及ばないほど強いのですから」
痛みがいくらか和らいできたせいか、つい軽口が出た。
だが、その言葉に対し、リュミエール嬢は無表情のまま、ほんのわずかに落胆の気配を滲ませる。
「……あなたには、わたくしが魔物だと知られてしまいましたね」
表情は変わらない。
それでも、正体が露見したことを悲しんでいるのだと、不思議と分かってしまう。
気まずい空気が、静かに流れた。
私はしばし悩んだ末、公爵から聞かされた話を口にすることにした。
「侯爵から伺いました。瀕死の赤子を助けるために、取引をしたと」
「取引……。そうですわね。取引をいたしました」
彼女は視線を落とす。
遠い記憶を手繰るように、ゆっくりと息を吐いた。
「魔物の世界のことは、ご存じかしら? 力が……強さが、すべてだということを」
大体は、と答える。
魔物は本能に支配されながらも、純粋な力によって序列が決まる存在だ。
物理的に強い魔物もいれば、魔法に秀でた魔物もいる。
だが、根底にある価値観は同じだと、これまで教えられてきた。
「それは、婚姻についても同じことが言えます。力の弱いものは、力の強いものに組み敷かれる。それが、当然なのです」
それは初耳だった。
獣の求愛であれば、多くの場合、選ぶ側は雌のはずだ。
だが魔物の世界では、相手が女性であっても、力こそが絶対なのか。
先ほどのゾルドという魔物が、似たようなことを口にしていたのを思い出す。
「わたくしは魔力が強く、知能も高かったため、誰のものにもなりませんでした。全員、わたくしより弱かったのですから、当然ですわ」
当たり前のことのように告げる彼女の言葉に、喉の奥がひりついた。
強いとは思っていた。
だが、魔物の中でも頂点に近い存在だったとは、さすがに想像していなかった。
「ですが、わたくしが強ければ強いほど、力を誇示したい挑戦者は現れます。そんな状態でしたから、幼少の頃から、迫ってくる相手を片端から薙ぎ倒しておりました」
彼女は私から視線を外し、ゆっくりと虚空を見つめる。
無表情の奥で、幼い頃から繰り返してきた戦いの日々が、静かに連なっているのだろう。
休む間もなく挑まれ、退け、また挑まれる――その果てしない循環が、淡々と語られる声の裏に滲んでいた。
「そんなことを、数百年と繰り返したでしょうか……」
数百年。
思わず、その年月の重みに息を呑む。
魔物の寿命がそれほど長いという事実に、場違いにも感心してしまう自分がいた。
短い沈黙ののち、彼女は過去を静かに閉じるように、再び私へと向き直る。
「わたくしは……疲れてしまったのです」
その言葉とは裏腹に、声はあくまで穏やかだった。
困ったような気配をまといながら、彼女は無表情のまま私を見つめる。
だが、その視線の奥には、長い時間をかけて擦り切れてしまった何かが、確かに沈んでいた。
「身体も能力も全盛期でしたが……人で言うところの、精神的に疲れてしまった、という状態だったのでしょうね。」
膝枕をされたままの私の髪を、彼女は無意識に、考えごとをするような手つきで梳いていく。
指先が髪をすくうたび、規則正しい静けさが流れた。
「だから、わたくしは戦わなくてもいい場所を探しました。挑戦者を退けながら、隠れられる場所を探していたのです」
私を見つめながらも、どこか遠くを見ているような目で、彼女は優しく髪を撫でる。
「ですが、魔物の身体では、すぐに見つかります。大きさの問題だけではなく、魔力で居場所が露見してしまうのです」
「魔力で……?」
そんな違いがあるとは、考えたこともなかった。
魔物と人は、生き方や価値観の違う存在だと思っていた。
だが、身体そのものが根本から異なるのだと、今さらながら思い知らされる。
「魔物の体は人とは違い、魔力を多く通す構造をしています。言い換えれば、魔力を使わずとも、体表に魔力が滲み出てしまうのです」
その説明を聞き、以前彼女が軍に提出した戦略書を思い出す。
魔物の構造を理解していたからこそ、あれほど精緻な戦略を立てられたのか。
魔物の性質を根底に据えた戦術。その理由が、ようやく腑に落ちる。
「ですが、人の魔力は体内を巡ります。威力は制限されますが、暴走しにくく安全で、魔物から感知されることも少ないのです」
ふと、疑問が浮かんだ。
「でも……あなたは、あれほど強い魔法を使っていたではないか……」
人の身体に宿れば、威力が制限されるというなら、魔力は弱まるのではないのか。
私の問いに、彼女はわずかに微笑んだような仕草を見せた。
「……わたくしも、この身体に入ってから気づいたのですが、人は手の先からなら、内包している魔力を最大限に放出できるようなのです。おかげで、わたくしの魔力も弱まることなく、先ほどのように戦えます」
確かに、我々人間は手をかざして魔法を唱える。
なるほど――理にかなっている。
彼女は私の髪を弄びながら、静かに言葉を続けた。
「だからこそ、わたくしはこの身体に入りました。この子……この体の持ち主には、申し訳ないとは思っていますが……」
そこで、言葉がわずかに途切れた。
声音は穏やかなままだが、一瞬だけ迷いの影が落ちる。
「それでも、わたくしはこの子として、人の生を全うするまでは、人として生きようと誓ったのです」
その迷いを振り払うように、彼女は瞳を閉じ、小さく首を振る。
「ただ、貴族の身体とは思っていなかったので、学ぶことも、果たすべき役目も多く大変でしたが……人として生きるのは、楽しかったのです」
その声音は、先ほどまでの淡々とした響きから、わずかに柔らいでいた。
無表情の奥に、確かな肯定が宿っているのが分かる。
だが、そこで一つの疑問が胸に浮かんだ。
「あなたは、求愛から逃げるために、その身体に入ったのですよね? それなら、兄上との婚約は嫌だったのでは?」
「人の婚姻とは、契約で縛るものだと理解しましたので、それはそれで納得しましたわ。わたくしが疲れてしまったのは、休む間もなく戦い続けることでしたから……」
そこで彼女の言葉が、一瞬だけ途切れる。
遠くを見るような、内面を静かに整理しているような瞳が、私へと向けられた。
「それに――不思議と、ずっと胸に残っている言葉があるのです」
考え込んでいるようでもなく、言葉を選んでいる様子もない。
ただ、ふと思い出したことをそのまま口にした――そんな自然さで。
「私を真剣なまなざしで見て、とても辛そうな表情で『前を向き続けられるあなたに、憧れていました。……願わくば、この先もお元気で』と言われましたので、できるだけ元気で生きようと思ったのです」
――その瞬間。
私の周囲から、世界の音が消えた。
呼吸が荒くなる。
全身から汗が噴き出す。
息を吸うことさえ忘れ、私はただ、彼女を見つめることしかできなかった。
――あり得ない。
知っているはずがない。
「……あら? 今のは、誰に言われた言葉だったかしら? 表情は分かるのに思い出せませんわ」
彼女は今気づいたかのように首をかしげる。
記憶を探るように視線をさまよわせるが、どうやら答えには辿り着かないらしい。
その美しい顔に、わずかな困惑が浮かぶ。
――それは当然だ。
なぜなら、それは前の人生でのこと。
彼女が城門から追放されるあの日。
冤罪を背負わされ、孤独に旅立とうとしていた彼女に。
せめて心を軽くしたいと願い、苦し紛れに、私の口から零れ落ちた言葉。
――覚えているはずがない。
それにあのあと、彼女は死んだはずだ。
そして今回は、私が付き添う間もなく、彼女は旅立ってしまった。
だから、その別れの言葉を、私は伝えていない。
今の彼女が生きているのも、私が介入したからに過ぎない。
前回の記憶など、持っているはずがないのに。
――それなのに。
誰に言われたのか思い出せず、小さく唸りながら考え込む彼女を。
私はただ、言葉を失ったまま、見つめることしかできなかった。




