第13話 見えない盾
「もうすぐ王都につきます」
その言葉どおり、視線の先には、すでに王都の城壁が見えていた。
遠目にも分かるほど高くそびえる石壁が、淡い光を受けてくっきりと輪郭を浮かび上がらせている。
幾重にも積み上げられた重厚な石が、長い年月を経てなお揺るがぬ威容を保ち、王都という名に相応しい威厳を放っていた。
あの巨体の魔物に襲撃された日から、すでに数日が過ぎている。
深手だったはずの傷も、ポーションと彼女の回復魔法のおかげで順調に癒え、今では歩くのにも支障はない。
あのとき、彼女が口にした衝撃の言葉は、今も胸の奥に小さな棘のように引っかかっている。
だが、早く王都へ向かわなければならない。そう思い、私はあえてそのことを深く考えないようにしていた。
考え始めれば、答えの出ない疑問に囚われてしまう。
そもそも、そんなことがあるはずがないのだ。
前の人生で死んでしまったはずの彼女が、そのとき私が口にした言葉を覚えているなんて。
それでも、思い返すたびに胸の奥が冷たくなる。
それに、私がこの世界に再び戻ってきた理由さえ分からないのだ。
幾重の偶然か、それとも幾万の奇跡か。
――たぶん、その答えは出ないのだろう。
ならば、今の私がやるべきことは、前の人生の検証ではない。
この世界で、王都を救うことだ。
頭の奥に残る疑問を、半ば強引に引きはがすようにして思考の外へ追いやる。
膨れ上がろうとする感情も、無理やり心の奥底へ沈めた。
そうして気持ちを押し殺したまま、私たちはこの場を離れる支度に取りかかる。
王都へ向かうべく、近くの木に繋いでいた馬を引き寄せ、私は彼女に乗るよう勧めた。
しかし――
「あなたの方が怪我人ですわ」
その一言で、あっさりと拒まれてしまった。
だが、うら若き乙女に手綱を引かせ、自分は馬上に揺られて王都へ凱旋するなど、どうしても受け入れ難い。
王子としての体裁以前に、絵面があまりにも酷すぎる。
想像するだけで、居たたまれない。
さすがに、それだけは避けたかった。
兄上ならば、何の躊躇もなく馬に乗り、女性を歩かせるのだろう。
だが、私の心情としては――どうあっても、ああはなりたくない。
私の様子を見て、彼女はしばらく黙っていたが――わずかにため息をついてから渋々と頷いた。
その上、私が本当に痛みを感じなくなるまで、何度も念入りに回復魔法をかけてくれた。
彼女の掌から流れ込む温かな魔力が、ゆっくりと身体の奥まで染み渡っていく感覚を、私は今も覚えている。
身体の傷が完全に癒えたのを確かめて、私たちはあの場をあとにした。
それから王都までの道中は、驚くほど順調だった。
あの巨体の魔物以外に、命の危険を感じるような襲撃は、ほとんどなかったのだ。
もっとも、その「例外」は何度も現れた。
性懲りもなく、リュミエールに求愛するためだけに襲いかかり、そして毎回、彼女に吹き飛ばされていく。
知能を持ちながら、あれほどはっきり拒絶されても折れない精神力は、ある意味では見習うべきものなのかもしれない。
そうした出来事もあったが、私たちは想定より早く王都へ辿り着くことができた。
何事もなく城門をくぐり、内部へと入る。
城門付近にも、すでに魔物に踏み荒らされた痕跡が点々と残っていたが、実際に遭遇しなかったのは幸運だったのだろう。
――いや。
前の人生では、王都周辺にはもっと魔物がいたはずだ。
今のほうが明らかに少ない。そんなことが、あり得るのだろうか。
もしかして、騎士団が奮闘して追い返しているのか。
あるいは、国がようやく巻き返しを図り始めたのか――。
そんな淡い期待が胸に芽生えた、その瞬間だった。
「マズいですわね」
馬上から遠くを見据えたリュミエールの無表情が、ほんの一瞬、かすかに歪んだように見えた。
嫌な予感に導かれるように、私も同じ方向へ視線を向ける。
そして、目を細めた。
王城付近の空に、無数の黒い影が蠢いている。
――王城が、襲われている。
「わたくしが離れていたせいで、王都にこれほど魔物が入り込んでしまったのですね……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に引っかかっていた疑問が、音を立てて一つに繋がった。
「……あなたが王都を離れると、やはり魔物は侵入してくるのですね」
「ええ」
当然のことのように澄んだ眼差しで答える彼女に、私は思わず喉を鳴らした。
そういえば、ここまでの道中で魔物とほとんど遭遇しなかった。それも彼女のおかげだったのか。
「これまで王都が大きな被害を受けなかったのは、あなたが結界のようなものを張っていたからなのですか?」
その問いに、少しだけ首を傾けながら彼女は答える。
「いいえ。そのような魔法は使えませんわ」
「では、なぜ――」
「王都の壁を越えてきた魔物を、毎晩、殴り飛ばしておりました」
なるほど。
物理で。
殴って。
飛ばす。
私の思考が、見事なほどに停止した。
「人間の身体は脆いので、風魔術を応用して周囲の空気に圧力をかけ、薄い膜を形成するのです。目には見えませんが、軽くて硬い鎧のようなものになりますわ」
馬上から淡々と補足されるのを聞きながら、私はつい真似できないかと魔力を動かしかけた。
その気配を察したのか、彼女は下の様子を見やりながら、涼しい顔で静かに言葉を重ねる。
「もっとも、人間の魔力では再現は難しいと思いますが……」
試そうとした瞬間、静かに止められた。
できないと分かっただけで、理由もなく少し落ち込む。
見抜かれていたと思うと、少し気恥ずかしい。
そんな私を見つめながら、彼女は続けた。
「王都に入り込む程度の魔物でしたら、その膜をまとって、数発殴れば終わります」
数発で、終わるのか。
再び思考が止まりかけるが、衝撃は二度目なので、今度は辛うじて耐えられた。
「この身体を借りた以上、この子が生きる場所は守ろうと決めましたの。ですから毎晩、巡回して、見つけ次第――こうですわ」
無表情のまま、どこか柔らかな雰囲気をまとい、拳を軽く突き出す。
動きはあまりにささやかだったが、その拳圧に、身体がわずかによろけた。
侯爵が語っていた、夜中に姿を消し、時折血に塗れて戻る理由。
その真実を思い知り、私は内心で侯爵に同情した。
「……今まで王都が守られてきたのは、あなたがいたからなのですね」
歴史書で学んだ。
魔物は太古より、人の領域を侵し、災厄をもたらす存在だと。
魔物は天災。
目を付けられれば、命はない。
知能を持つ者もいるが、結局は本能に従って生きる存在。
弱き人は、餌であり、弄ぶ対象にすぎない。
だから人は群れ、抗い、均衡を保つ術を身につけてきた。
複数で戦えば、強大な魔物にも対抗できるからだ。
そうして、辛うじて成り立っている国々の中で――
二十年ほど前、魔物との戦いにおいて、明確な勝利を収めた国があった。
――我が国だ。
王都周辺の魔物は激減し、現れても小型で弱いものばかりになった。
原因は地脈の変動、神の加護、英雄の存在……様々に語られたが、どれも決定打に欠けていた。
要するに、理由不明のまま、不思議な力で護られる国になったのだ。
その力を求め、諸外国から使者が訪れた。
我が国も原因究明に尽力し、仮説を立て、理論を積み重ねてきた。
結果として、確かに魔物は減少した。
同じことをすれば、他国も救われる――。
――そう、信じていた時期が、私にもありました。
膝から力が抜けそうになる。
魔物が王都に出なくなった理由が――
彼女が、毎夜一人で守っていたからだったとは。
だからこそ、前の人生では、彼女がいなくなり、王都は滅んだのだ。
十八年間、魔物と戦わなかったことで戦法を学ばなかった我が国は、あまりにも無力だった。
……なんということだ。
胸の奥に、冷たい重みが沈み込んでいく。
栄光に彩られていたはずの過去の記憶が、ただの思い込みだったと気づいた瞬間、誇りにしていたものすべてが、音もなく色褪せていった。
けれど今回は違う。
彼女は生きている。
ならば、彼女に頼めば、この国はまた守られるのではないか。
――だが、本当に、それでいいのか?
胸の奥に、鈍い問いが静かに沈む。
――また、彼女一人に背負わせるのか。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がじくりと痛む。
これまでずっと、彼女は一人で戦ってきたのだ。
今の彼女は人の身体を持ち、傷つけば血を流し、殴られれば死ぬ。
それを、他でもない彼女自身が淡々と口にしていたではないか。
私は王城の上空を見つめる彼女の横顔を、思わず強く見据えた。
研ぎ澄まされた刃物のように凛としたその横顔は、あまりにも頼もしく、同時に、危ういほどに脆く見える。
「この子が生きる場所は守る」と、彼女は簡単に言った。
だが、魔物が跋扈するこの世界で、それがどれほど困難なことなのかを、私は嫌というほど知っている。
私の視線に気づいたのか、それとも王城を覆う魔力の乱れを感じ取ったのか――
リュミエールの目が、わずかに細められ、鋭い光を宿した。
「このままでは、この子の国が滅びてしまいますわ。ですから、わたくしは先に王城へ向かい、侵入した魔物を――」
その言葉が途切れる。
私が、馬上から飛び立とうとした彼女のドレスを、思わず掴んでしまったからだ。
「どうなさいましたの?」
無表情のまま、困惑した気配を纏い、彼女は私を見る。
「……いや……その……ドレスを掴んでしまった。すまない」
自分でも、なぜそうしたのか分からない。
魔物を倒せるのは、彼女しかいない。
人の味方でいてくれるのも、彼女だけだ。
頼るしかない。
頭では分かっている。
彼女しか、この状況を止められない。
それでも――
私は、彼女を、戦場に送り出したくなかった。




