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第14話 引き止める手、送り出す覚悟

 思わず掴んでしまった彼女のドレスから、私は慌てて手を離した。

 指先に残る布の感触がやけに鮮明で、私は取り繕うように小さく咳払いをする。


「その……確かに、あなたに頼むしかこの国を救う術はない。だから、お願いするべきなのだろうが……」


 言葉が、続かなかった。

 

 こうしている間にも、国民は危機にさらされている。

 王城には、すでに魔物が雪崩れ込んでいるはずだ。

 

 前の人生で、私はその光景を目にした。

 燃え上がる城壁、崩れ落ちる塔、逃げ惑う人々――あれは幻ではない。

 間違いなく、現実の光景だった。


 ならば、今すぐ彼女を向かわせるべきだ。


 理屈では分かっている。

 それでも、私の態度も言葉も、その結論に追いつかない。


 胸の奥にある何かが、強くその選択を拒んでいた。


 馬上で立ち上がろうとしていたリュミエールは、私の様子を見て、そっと座り直した。

 そして、うつむき加減になっている私へ、静かに手を伸ばす。


 ドレスから離したばかりの私の手を、彼女は両手でそっと包み込んだ。


 驚くほど柔らかく、そして確かな温もりだった。


「わたくし、心配されていますのね」


 言葉を探すあまり俯いていた私は、彼女の表情を見ることができなかった。

 けれど、その声音から察するに、きっとあの無表情のまま、ほんのわずかに柔らかく微笑んでいるのだろう。


「私の身を案じてくださったのは、幼い頃の両親くらいですわ。母は今も気にかけてくれますけれど……最近は義弟につきっきりでしたので。本当に、久しぶりです」


 その言葉に、恨みも怒りも滲んではいない。

 ただ事実を述べただけの声音だった。


 それでも、彼女の不遇を思うたびに、私の胸には、重い石が沈むような感覚が広がる。


 兄上は、人を思いやれる性分ではない。

 彼女は家でも王城でも、ずっと一人で耐えてきたのだろう。

 頼ることも、弱音を吐くことも許されずに。


 私は顔を上げ、表情を崩さないリュミエールの顔をじっと見つめた。

 

 これまで私は、侯爵家の赤子が魔物に奪われたのだと思っていた。

 そして、その身体を奪った魔物が、ただ好き勝手に生きてきたのだと。


 だが、違った。


 握られている手を、今度は私が優しく、それでも強く握り返す。


 彼女を真に心配したのは、幼い頃の両親だけ。

 

 人間の世界を知らぬ魔物が、赤子の名を背負い。

 言葉を学び、礼儀を学び、感情を押し殺しながら努力を重ね――

 第一王子の婚約者と認められるまでになった。

 

 その努力を、誰が想像できただろう。

 

 無表情だという理由だけで、誰一人、彼女の内面を知ろうとしなかった。

 その孤独を思うと、私の胸はさらに重みを増す。


 いつもどおり沈着な態度でこちらを見るリュミエール。

 だが、心配されたことがよほど嬉しかったのか、彼女の纏う空気はどこか柔らいでいる。


 無表情の奥底には、こんなにも豊かな感情が息づいているというのに。


 ――ああ、そうか。


 私は――彼女に、傷ついてほしくないのだ。


 だから、進もうとする彼女を、無意識のうちに引き止めてしまった。


 人間の世界に溶け込もうとし、兄に婚約を破棄され、父に見捨てられ――すべての関係者に背を向けられた彼女。

 あれほど強かった彼女が、あの緩衝地帯で、死を選んだ。


 一人きりで。


 兄上だけの罪ではない。

 嫉妬心から目を逸らした私もまた、彼女を死に追いやった一因だ。


 その事実を思い出すたびに、胸の奥が鈍く痛む。


 それでも彼女は、ただの魔物ではなかった。

 きっかけが魔物同士の争いであろうと、死んだ赤子の名誉のため、人として生き抜くため、命を削るほど努力してきたのだ。


 それを知った今、私は、彼女に死んでほしくないと思ってしまった。


 どれほど強くても――彼女は、一人の女性なのだから。


「安心してください。わたくしは大丈夫ですわ」


 優しい声色で、彼女はそう告げる。


 けれど、心配で心臓が締めつけられるような思いに駆られ、私は思わず強い語気で言い返してしまった。


「そんなの、分からないだろう。君より強い魔物がいるかもしれないじゃないか!」


 ほとんど八つ当たりだった。

 自分でも幼いと分かっている。分かっているのに、それでも口をついて出てしまった。

 胸の奥で渦巻く不安が、言葉となって零れ落ちたのだ。


 そんな私に、それでも彼女は、まるで包み込むようなやわらかさを湛えながら、まっすぐにこちらを見つめてきた。

 

「そうですわね。けれど、今のわたくしなら……負けることはありませんわ」


 その言葉とともに――初めて、彼女が笑った。


 ほんのわずか、口角が上がる。

 それでも、それは確かな笑顔だった。

 

「だって、あなたが、わたくしを見てくださっていますもの」


 彼女は、間違いなく私に微笑んでいる。

 その笑みは静かで、けれど確信に満ちていた。


 そんな顔を向けられてしまえば――もう私には、彼女を引き止めることなどできない。


「それに、数は多いですが、すべてを相手にする必要はありませんのよ。ですから、どうかご安心を」


 握っていた手を、彼女は一度だけ強く――そして名残惜しむように握り返し、そっと離した。

 離れる瞬間、さらりと零れた銀髪が私の手に触れ、すぐにひんやりとした空気の中へとほどけていく。


「わたくしは、必ずあなたの元へ戻ってきます」


 そう言い残し、彼女は魔術で静かに浮上した。

 次の瞬間には、王都の中心――王城へと向かって、一直線に飛び立っていった。


 声をかける間もなく、彼女の姿はみるみる小さくなっていく。

 私はただ、その背を見つめることしかできない。


(……空まで飛べるのか。本当に、規格外だ)


 先ほどまでの焦燥は、いつの間にか形を変えていた。

 彼女が、私に心配をかけまいと笑ってくれたからだ。


 やがて彼女の姿は空の一点となり、そのまま大空へと溶けるように消えていった。


 彼女は、大丈夫だと言った。

 私は、それを信じるしかない。


 そう思い、馬の手綱を引き寄せ、時間がかかろうとも王城へ向かおうとした――その時だった。


 すぐ近くで、鋭い悲鳴が上がった。


 反射的に振り返る。

 少し離れた道の端で、ひとりの男が小型の魔物に襲われそうになっていた。

 

 私は腰に差した剣を抜き放ち、地を蹴る。

 肺が軋むほど息を吸い込み、一気に間合いを詰め、迷いなく斬りつけた。


 鈍い手応えとともに魔物が崩れ落ちる。

 倒れたことを確認しながら周囲を見渡すと、崩れた建物の下から助けを求める声が聞こえ、路地の奥では別の小型の魔物が子どもを追い回しているのが目に入った。


 ――待つだけでは、駄目だ。


 彼女の恥とならぬように。

 私は、私にできることをする。


 子どもを救い出し、瓦礫の下敷きになった者を引き上げ、息を切らしながら街を駆け回る。

 彼女が王城へ向かった途端に魔物が姿を現すなど、あまりにも聞いていたとおりで、皮肉にも乾いた笑みが漏れた。


 その光景が、別の記憶と重なった。


 ――前の人生。


 彼女が最初からいなかったあの時、今よりもはるかに多くの魔物が王都を蹂躙していた。

 それでも私は、王国民を守るために騎士を率い、今と同じように街を駆けずり回った。


 とめどなく押し寄せる魔物。

 斬っても斬っても、減らない影。

 騎士は次々と倒れ、血を流し、動かなくなっていく。


 私もまた、肺に焼けつくほどの空気を取り込みながら、剣を振るい続けた。

 動かし続けた手足はやがて鉛のように重くなり、握力は限界を訴える。


 それでも――。


 私たちが国を守らねば、誰が守るというのだ。


 その一念だけで、私は精神を擦り減らしながら剣を握っていた。


 やがて、王城が襲撃されたとの報が入った。

 王城は国の要だ。私は現場を残った騎士に任せ、兄上のもとへ向かった。


 到着した城内は、すでに蹂躙されていた。


 王城を守っていた騎士たちは命を落とし、その彼らと、彼らが倒したであろう魔物の死体だけが、廊下や部屋のあちこちに、点々と転がっている。

 中には、魔物に食いちぎられた者たちも――。


 その凄惨な光景に込み上げるものを必死に飲み込みながら、私は城内を駆けた。

 壁は砕け、窓も扉も破壊され、床はまるで赤い絵の具をぶちまけたかのように染まっている。


 行く先々で魔物が我が物顔で徘徊していた。

 無駄な戦闘を避けるため、私は息を殺し、気配を抑えながら内部を探る。


 一部では火の手が上がり、焦げ臭い匂いが城内に充満している。

 汗が全身から噴き出し、走る足は震えた。

 

 城の損傷具合から見ても、戦闘が激化しているのは明らかだった。

 ここは、もはや守りの要ではない。


 ――この城は、もう持たない。


 断腸の思いが胸を締めつける。


 それでも私は、兄上に撤退を進言するため、中心部へと向かった。

 兄上が守っているはずの、最奥の国王の間。その扉を押し開ける。


 だが、そこには誰もいなかった。


 嫌な汗が背を伝う。

 見渡しても、誰の姿もない。


 兄上はどこだ。母上は。

 すでに撤退したのか。


 ならば、私も退くべきか――。


 魔物に見つからぬよう細心の注意を払いながら、兄上たちが城を出たであろう抜け道へと向かう。

 合流し、今後の対策を立てねばならない。


 兄上は、少しでも国民のことを考えているだろうか。

 そんな不安が胸をよぎりながら、抜け道の先にある廊下への扉を開けた。


 息が止まる。


 あれほど流れていた汗も、ぴたりと止まった。


 ――その先にあったのは、倒れ伏す兄上の姿だった。


 背後から爪を受け、命を落としている。


 その無残な姿に息を呑み、駆け寄ろうとした瞬間――兄上の死を凌駕する光景が目に飛び込んできた。

 

 宝物庫の前。

 倒れた兄上の傍らには、宝を詰め込んだ鞄。

 そして、血に濡れた新しい婚約者の姿。


 全身の血の気が、すっと引いた。


 信じたくなかった。

 いくら兄上でも、王子として、人としての矜持は持っていると、そう思っていた。


 だが――。


 兄上は宝物庫の財宝を抱え、彼女を囮にして逃げようとしたのだ。


 腰に携えているはずの剣はなく、傷は背中のみ。

 背を向けて逃げ出したところを襲われたのは明らかだった。


 ――民も守らず、婚約者をも見捨て、財宝だけを抱えて逃げる王太子。


 あまりの事実に、吐き気が込み上げる。


 騎士たちは皆、兄上を守るために死力を尽くして戦ったというのに。


 ――これが、私の守りたかったものなのか。


 頭が働かない。

 体が動かない。


 手足は震え、心は凍りついたように冷え切っていた。


 その瞬間――。


 呆然と立ち尽くす私の腹部に、魔物の爪が容赦なく突き立てられた。


 腹に深々と食い込む爪が、はっきりと視界に映る。


 ――致命傷だった。


 爪を引き抜いた魔物は、私を襲うよりも先に、兄上が落とした宝の輝きに目を奪われ、そちらへと歩み去っていった。


 その場に、私はゆっくりと崩れ落ちる。


 体内を巡っていた血は外へと流れ出し、身体の末端から温度が消えていく。

 声も出ない。視界は暗くなり、音も遠ざかっていく。

 

 死の間際、脳裏に浮かんだのは、追放したリュミエールの姿だった。


 彼女のせいで、こうなったのではないか。

 彼女がいないから、こんな悲劇が起きたのだと――そう思い込もうとしていた。


 兄上の行動が信じられず、すべてを彼女のせいにしようとした。

 自分の愚かさから目を逸らすために。


 あの追放の日も同じだ。

 自らを正当化するために、死地へ向かう彼女を犠牲にしたのだ……。


 ――胸の奥に残る苦さとともに、私は現実へと意識を戻した。


「本当に……自分は、どれほど愚かだったのか」


 苦い自嘲が、胸の奥にじわりと滲む。


 ――だが、それは過去だ。


 私は、まだ生きている。


 今、悲鳴が響くこの王都で、私は立っている。

 彼女も、きっと戦っている。すべてを殴り飛ばしながら。


 ならば――。


 私は、今度こそ――最後まで希望を捨てないと誓った。

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