評判は壁を越える
見難い火傷の子710
評判は壁を越える
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
張良は、あの夜のことを記録の中へ埋めてしまいたかった。
正式記録には、皇妃の言う通り
「客人歓迎のための小歌会」
とだけ残された。
参加者の名はある。
曲目も簡略には記されている。
だが、誰が主唱だったかまでは曖昧にぼかされた。
張良自身が、そうするよう手を入れたからだ。
「余計な名目を増やす必要はありません」
そう言って淡々と記録係へ指示し、
ついでに当夜の座順や進行まで政務文書の体裁へ落とし直した。
その手際の良さは見事だった。
実際、文面だけ見れば、宮中の一夜の余興に過ぎない。
少なくとも、後から読み返した者が、わざわざそこへ妙な意味を見出す余地は薄いはずだった。
だが、世の評判というものは、正式記録より先に人の口で走る。
しかもよりにもよって、その場にいたのは、
皇帝承明、皇妃、セイレーン姉妹三人、重臣たち、侍従たちである。
秘密が守られる顔ぶれではなかった。
守る気がないという意味ではない。
守る前に誰かがうっかり興奮して喋る種類の面子だった。
三日も経たぬうちに、宮中の奥ではもう囁かれていた。
「張良どのが歌われたらしい」
「それもただ歌ったのではなく、セイレーンの姉妹方と」
「いや、主唱だったそうだ」
「しかもお上手だったとか」
噂は語る者の数だけ盛られる。
五人しか聞いていない場でも、翌日には五十人が知っている。
まして今回は、聞いた者の大半が
“あれは黙っているには惜しい”
と思ってしまう出来だった。
張良がその気配を察したのは早かった。
景国宮中へ折衝で登城するたび、行き交う若い書記たちの視線が妙にさっと逸れる。
侍女たちが礼をしたあと、なぜか少しだけ口元を押さえる。
そして何より、皇妃付きの女官がやけに機嫌よく
「次のお支度はいかがなさいますか」
などと言ってくる。
最悪だった。
ある朝、景国側との案件確認で登城していた張良は、
ついに顔見知りの侍従の一人を呼び止めた。
「何が広まっている」
侍従は一瞬だけ固まり、それから観念した。
「……張良どのの、歌のことが」
「どの程度だ」
「宮中内、ほぼ一通り」
張良は目を閉じた。
重症だった。
「誰が」
「複数です」
それはそうだろう。
犯人が一人ならまだ止めようがある。
複数ならもう流れそのものだ。
しかも悪いことに、承明が面白がっていた。
歌便と景国宮中の調整案件で呼ばれ、張良が承明のもとへ入ると、
承明は文書を見たまま、何でもない調子で言った。
「張良」
「は」
「近ごろ、宮中の者どもがお前を妙な目で見るそうだな」
「陛下が面白がっておられるからです」
承明は否定しなかった。
むしろ、わずかに口元が動いた。
「評判というものは止めにくい」
「止められるうちに止めるべきです」
「なぜだ」
「私が静かに仕事をするためです」
「今もしているではないか」
「周囲が静かではありません」
至極もっともだった。
だが承明には、その切実さが半分しか届いていない。
なにしろ本人もまた、歌禍の中心人物の一人だからだ。
そこへさらに追い打ちをかけたのが皇妃だった。
「張良どの」
昼下がり、皇妃はあまりにも軽い調子で呼んだ。
この軽さの時は危ない。
張良はもう知っている。
「何でしょう」
「先日の歌会、外の方々にも少しお聞かせしたら喜ばれると思うの」
「思いません」
即答だった。
皇妃は楽しそうに続ける。
「宮中の内輪だけでは惜しいわ」
「惜しくありません」
「せっかくあれほどお上手なのに」
「上手いかどうかは本件と無関係です」
「無関係ではないでしょう」
押し問答が始まりかけたその時、女官が新しい来訪名簿を持って入ってきた。
皇妃は受け取り、ぱらりと目を通し、ふと顔を上げる。
「まあ」
張良はその“まあ”を信用しない。
「何ですか」
「鉄道国側から、使節が来るそうよ」
「それは通常業務の範囲です」
「歌便の関連で」
嫌な方向へ曲がった。
皇妃は名簿を見ながら、いかにも偶然見つけたような口調で言った。
「歌便の映像帯と歌詞帯の交換試案。
それに、景国宮中での運用状況も聞きたいそうよ」
張良は沈黙した。
匠ーが余計なところまで仕事をしている気配が濃い。
「……で?」
皇妃はにっこりした。
「せっかくなら、実演をお見せした方が早いでしょう?」
「やりません」
「張良どの」
「やりません」
「まだ何も頼んでいないわ」
「頼まれる前に断っています」
だが、先手を打っても流れは変わらなかった。
数日後、鉄道国の使節が宮中へ入る。
名目はあくまで機材確認と文化交流。
だが来た面々の目が、どう考えても
“噂の張良を見に来た”
目だった。
中には歌便の運用担当もいる。
歌って踊れる案内嬢の教育に関わった者まで混じっていた。
つまり、聞き手としては最悪に手強い。
「景国には、すばらしいお声の方がいらっしゃるとか」
使節の一人が、にこやかに言った時、張良は本気で帰りたくなった。
だがここは景国宮中であり、調整役として同席している以上、
自分だけ席を外すわけにもいかない。
しかも下がれば、匠ー技研側の顔まで潰れる。
承明が横で咳払いをする。
皇妃は完全に面白がっている。
逃げ場がない。
その日の夕刻、結局また場が整えられた。
前回ほど大仰ではない。
だが“ただの確認”で済ます気も感じられない。
灯りが整えられ、装置が磨かれ、帯は見栄えのよいものが選ばれた。
しかも皇妃は今回は最初から宣言した。
「小さな披露です」
張良は心の中でだけ、
小さくない、
と返した。
来訪使節の前で、張良は再び装置の前へ立たされた。
前回と違うのは、今回はもう“偶然歌った人”では済まないことだった。
宮中内で評判が広まり、外からもそれを聞きつけて人が来た。
この時点で、張良という個人の意思とは別に、
「景国宮中には歌のうまい張良という者がいる」
という輪郭ができ始めている。
最初の一曲を歌い終えた時、鉄道国の使節たちは露骨に顔を見合わせた。
「……これは」
「話以上ですね」
「歌便に乗せたら面白いでしょうね」
張良はその最後の一言を聞かなかったことにした。
聞いたら負ける。
だが次の瞬間、承明が拾った。
「ほう。歌便に、か」
「陛下」
張良は珍しく低く釘を刺した。
承明は少しだけ面白そうに目を細める。
「冗談だ」
冗談に聞こえなかった。
二曲目は、鉄道国側の使節の求めで、景国古謡だった。
三曲目は、景国側からの意地で、少し難しい節回しの曲になった。
張良はどちらも崩さなかった。
そして崩さなかったことが、さらに評判を固めてしまう。
演奏が終わる頃には、使節たちの間で完全に結論が出ていた。
「張良どのは、本当にお上手だ」
「宮中内だけでは惜しい」
「一度、公の場でも――」
張良はその“公の場”という単語を聞いた瞬間、胃の奥が重くなるのを感じた。
嫌な予感は、たいてい当たる。
数日後、宮中外の市中でも噂が立ち始めた。
景国宮中には、歌のうまい高官がいる。
皇帝と皇妃に引っ張り出され、セイレーンの姉妹とまで歌を合わせた。
しかも鉄道国の使節まで唸らせたらしい。
話はいつものように盛られた。
どこかでは「夜ごと宮中で秘かに歌会を開く名士」となり、
どこかでは「景国を代表する新しき歌人」となり、
ひどいものになると「近く正式に歌手としてお披露目される」とまで言われた。
それを聞いた張良は、さすがに机へ手をついた。
「誰がそんなことを……」
すると横で書記が小声で答える。
「もう、市場ではそういう話に」
張良は長く息を吐いた。
否定したい。
否定したいが、いちいち打ち消しに回るほど暇でもない。
しかも打ち消しに回れば回るほど、かえって本当らしく見える。
そこへ追い打ちのように、皇妃付きから呼び出しが来る。
行けば、案の定、皇妃は楽しそうだった。
承明までいる。
嫌な組み合わせである。
「張良どの」
皇妃は、あまりにも軽く言った。
「市中での評判、聞いたでしょう?」
「聞きたくはありませんでした」
「でも聞こえてしまった」
「ええ」
「ならもう、いっそきちんと整えた方がよいと思うの」
張良は目を細めた。
「何をです」
承明がそこで、妙に落ち着いた声で言った。
「次の歌会だ」
やはり来た。
「宮中だけでこそこそ騒がれるより、
きちんとした席で、きちんと聞かせた方が妙な尾ひれも減る」
張良は思わず言い返す。
「増えます」
「減る」
「増えます」
皇妃が楽しそうに頷いた。
「では確かめてみましょう」
まるで話が決まった後みたいな言い方だった。
張良は、その瞬間はっきり理解した。
自分はもう、なし崩しに“歌のうまい宮中人”として扱われ始めている。
匠ー技研へ籍を移した今でさえそうなのだ。
まだ正式な名も、役も、看板もない。
だが人々の認識の中では、輪郭ができてしまった。
歌手としてデビューする気など、本人には欠片もない。
それなのに周囲が勝手に舞台を作り、客を呼び、名を広めていく。
あまりに理不尽だった。
だがもっと理不尽なのは、そのすべての始まりが、
皇帝の「お前もやれ」の一言だったことである。
張良は静かに目を伏せた。
逃げ切れるだろうかと、最後に一度だけ考える。
そしてすぐに、その問い自体がもう遅いことを悟る。
評判は、もう宮中の壁を越えていた。
次は、壁の外から人が来る。
聞きに。
見物に。
あるいは、勝手に“景国新名物”として消費するために。
張良の静かな生活は、いよいよ音を立てて遠ざかり始めていた。
それでも、景国側の引き継ぎだけは乱れなく進んだ。
張良は思いつきで景国を離れたわけではない。
以前から、自らがいつ退いても政務が滞らぬよう手を打っていた。
文書系統も、折衝窓口も、判断の順序も、可能な限り人に渡せる形へ整えていた。
後継の育成も進め、その筆頭として立てたのが諸葛景明である。
ゆえに評判がいかに騒がしかろうと、実務の継ぎ目そのものは崩さなかった。
崩さないまま、張良は自分の席を降りた。
景国の執政を辞したあとも、数日は細かな確認が残った。
だがそれも終われば、あとは旧縁ゆえの呼び出しを除けば、ようやく静かになる。
少なくとも張良自身は、そう思っていた。
甘かった。
ある日の午後、匠ーが来た。
まるで近所へ顔を出すような気軽さで現れ、通された部屋へ当然のように入り、
当然のように張良の向かいへ座る。
供も控えも最低限で、妙な威圧感はない。
だが、その自然さがかえって逃げ道をなくす類の男だった。
張良は礼を取りつつ、嫌な予感を覚えた。
この男が、わざわざ今ここへ来る理由など一つしか思い浮かばない。
匠ーは挨拶らしい挨拶もそこそこに、単刀直入に言った。
「そうか、張良。辞めたか」
「……ええ」
労いの言葉が先に来るかと思ったが、来なかった。
匠ーはそこで感傷に付き合う気がまったくない顔をしていた。
「思い残す事は無いか」
張良は一瞬だけ言葉を止めた。
思い残しが皆無と言えば嘘になる。
だが、それを口にしたところで戻るつもりもない。
「ありません」
匠ーは頷いた。
次の問いはさらに短かった。
「引き継ぎは出来ていたか」
「済ませました。後任も立っています」
「滞りなく回るな」
「回るようにしてあります」
そこで初めて、匠ーは少しだけ満足そうに笑った。
それは慰めの笑みではなく、品定めが終わった時の顔に近かった。
「よし」
嫌な予感が、確信に変わった。
匠ーはあまりにも軽く、あまりにも当然のように言った。
「今日から張良は鉄道国の左大臣だ。頑張ってね」
張良は沈黙した。
意味は分かる。
言葉の一つ一つは分かる。
だが、並び方が理解を拒んだ。
「……は?」
珍しく、そんな声が出た。
張良自身が一番驚いた。
匠ーは気にした様子もない。
「いや、だから左大臣」
「お待ちください」
「待つけど」
「待ってください」
張良は珍しく額へ手を当てた。
景国宮中で歌わされた時より、今の方が理解が追いついていない。
「私に、その……拒否権は」
「ある」
匠ーは即答した。
それで安心するかと思えば、まったくしなかった。
「ありますが」
「あるのですか」
「あるよ。でも思い残す事は無いんだろ」
「それとこれとは別です」
「引き継ぎも終わってる」
「終わっていますが」
「じゃあ問題ないな」
まるであった。
大ありだった。
張良は反射的に言い返しかけて、ふと止まる。
この男は、無茶を言っているようでいて、最低限の確認だけは終えている。
景国に未練がないか。
後任への引き継ぎは済んでいるか。
自分が抜けたことで旧国が傾かないか。
そこだけ確かめたうえで、あとは当然のように次の椅子を持ってきたのだ。
匠ーは椅子に浅く腰かけたまま、気軽な調子で続けた。
「うち、右はいるんだよ」
「……は」
「筆頭秘書。あれは右腕」
張良は嫌なほど素直に続きを察してしまった。
「左が空いてる」
「空いている、で決める役職ではありません」
「でもお前、そういうの向いてるだろ」
雑だった。
雑なのに、外れていないのが腹立たしかった。
「制度、文書、折衝、引き継ぎ、後始末」
匠ーは指を折るでもなく並べる。
「勢いで作る奴の横には、整える奴がいる」
張良はしばらく黙った。
景国で静かに実務をしていた頃なら、
自分の役目をそんなふうに言語化されること自体、好まなかっただろう。
だが今、それを真正面から持ってこられると、否定しきれない。
「景国では、もう静かにはやれんのだろ」
その一言は、思った以上に深く刺さった。
張良は目を伏せた。
宮中での囁き。
侍女たちの笑み。
皇妃の軽やかな追撃。
承明の面白がり。
使節たちの目。
市中へまで流れた噂。
評判は、もう壁を越えた。
そして自分は、その壁の内側だけで仕事をする者ではいられなくなった。
匠ーはそこで追い立てるようなことは言わなかった。
ただ、当たり前のことを言う口調で続ける。
「だったら次だ」
あまりにも簡単に言う。
だが、その簡単さに、妙な救いがあった。
終わったことをいつまでも惜しむでもなく、気の毒がるでもなく、
使える者には次の席があると決めている。
それは乱暴だが、この男なりの信頼でもあった。
張良は長く、静かに息を吐いた。
「……左大臣とは、具体的に何をするのです」
匠ーはにやりとした。
その顔を見た瞬間、張良は質問を間違えたと悟った。
「いっぱい」
「具体性がありません」
「これから一緒に決めよう」
最悪だった。
いや、景国宮中で歌わされ続けるのと、どちらが最悪かはまだ比較できない。
少なくとも、静かな余生のようなものが訪れないことだけは確定した。
匠ーは立ち上がった。
もう話は済んだつもりらしい。
「じゃ、そういうことで」
「どういうことですか」
「張良が今日から鉄道国の左大臣ってこと」
「まだ私は承諾を」
「頑張ってね」
押し切った。
完全に押し切った。
張良はしばらく言葉を失い、その背を見送るしかなかった。
扉が閉まり、足音が遠ざかってから、ようやく現実がじわじわ追いついてくる。
景国の執政を辞した男は、その足で玄州鉄道国の左大臣にされていた。
あまりに性急で、あまりに理不尽で、そしてひどく匠ーらしい話だった。
張良は片手で目元を覆い、しばらく動かなかった。
静かな生活は遠ざかった。
だがどうやら、仕事そのものは遠ざかるどころか、別の形でこちらへ走ってくるらしい。
評判は壁を越えた。
そしてその先で待っていたのは、見物人ではなく、新しい役目だった。
こうして張良は、鉄道国の左大臣に就任した。




