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見難い火傷の子  作者: 清風
709/723

張良リサイタル、開幕してしまう

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子709


張良リサイタル、開幕してしまう


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


張良は、あの一曲のあと、全力で逃げようとした。


正確に言えば、逃げるべき火種を即座に認識し、

それを制度と日程と理屈で押し返そうとした。

景国宮中において、彼はそういうことができる男だった。

実際、政務の場でならだいたい押し返せる。


だが今回の相手は悪かった。


皇帝承明。

そして皇妃。

この二人が揃って、しかも同じ方向へ面白がっている時、

まともな理屈は大抵、娯楽として消費される。


「張良どの」


あの一件の三日後、皇妃は朝からやけに上機嫌だった。

この時点でろくなことではない。

張良はそう察したが、察したところで退出できるわけではない。


「何でしょう」


「小さな歌会を開きましょう」


「どうぞご随意に」


「主唱はあなたで」


「お断りします」


間髪入れなかった。

それくらいの速度で断らねば危なかった。


皇妃は笑みを崩さない。


「謙遜は結構よ」


「謙遜ではありません。

私は歌手ではなく、政務補佐です」


「政務補佐が歌ってはいけない決まりはないでしょう」


「歌ってよい決まりもありません」


言い返しも滑らかだった。

いつもの張良である。

だが皇妃は引かない。


「では歌会の余興として」


「それでも出ません」


「一曲だけ」


「先日その言葉で押し切られました」


皇帝承明が横で肩を震わせている。

完全に面白がっていた。


「張良」

承明は、いかにも穏当な提案をする顔で言った。

「宮中の空気を和らげるためだ」


「陛下、宮中の空気を最も乱しておられる一因は、現在その歌唱装置そのものです」


「言うようになったな」


「事実です」


正論だった。

しかし正論だけでは、この流れは止まらない。


問題は、その少し後に起きた。


景国宮中へ、鉄道国から新しい歌詞帯と映像帯が届いたのである。

皇妃が追加を所望し、匠ーが面白がって増やした結果だった。

沿線歌だけではない。

夜景帯、春花帯、雨音帯、さらには多人数和声向けの構成まで入っていた。


「何で和声用まであるの……」


レイラが鉄道国側で呆れたという話も、もちろん後に伝わる。

だが景国側にとって大事なのはそこではない。

その追加一式に、ちょうど別便で届いた別の知らせが重なった。


メソポタミヤ側から、セイレーン四姉妹のうち本国に残っていた三人が、

景国を通る予定だというのである。


正確には、鉄道国歌便のその後を見物し、

ついでに景国宮中の“発声調律装置騒ぎ”も見てみたい、

という、どう考えても面白半分の来訪だった。


知らせを読んだ皇妃の目が輝いた。


張良は、その場で嫌な予感を通り越して、確信した。


「やりません」


まだ誰も何も言っていないのに、先に断った。

だが遅かった。


「ちょうどよいではないの」

皇妃は嬉しそうに言った。

「セイレーンの姉妹方をお迎えする歌会。

しかも景国には、張良どのという素晴らしい声の持ち主がいる」


「なぜそこで私が前へ出る話になるのです」


「国の威信よ」


「歌で?」


「歌で」


承明まで頷いた。

「歌でだ」


張良は天を仰ぎたくなった。

だが宮中でそれはできない。

代わりに目を閉じて、短く息を吐いた。


「お言葉ですが、相手はセイレーンです」


「ええ」


「歌で競って勝てる相手ではありません」


「競わせるのではないわ」

皇妃は、いかにも名案だと言わんばかりに微笑んだ。

「共演よ」


最悪だった。

競争ならまだ理屈で避けられる。

共演は“友好”の名目が立ってしまう。


数日後、景国宮中の一角は、半ば本気の演奏会場に改装されていた。


本来なら小規模の内輪の歌会で済むはずだったものが、

皇妃の指示で布が替えられ、灯りが増やされ、座席配置が見直され、

発声調律装置――つまりカラのオーケストラ小型版――まで中央に据え直された。

しかも後方には控えの楽士まで置かれている。

もはや「少人数の余興」ではない。


張良は名簿を見て、しばらく黙った。


前列。

皇帝承明。

皇妃。

その左右に、来訪したセイレーン姉妹三人。

さらに奥には、呼ばれた重臣たち。

完全に逃げ道がない。


「これは何ですか」


低い声で問うと、準備係が気の毒そうに答えた。


「張良どのリサイタル、とのことで……」


「誰がそんな名をつけた」


「宮中ではもう皆そのように……」


張良は無言で額を押さえた。

ついに名称まで固定された。

最悪である。


開演前、来訪したセイレーン姉妹は、いかにも楽しそうだった。

四姉妹のうち長女テレースはゴレムのもとにいるため不在だが、

残る三人だけでも十分すぎる存在感がある。


「景国には面白い方がいらっしゃるのね」

「歌がうまいのに嫌がっているのでしょう?」

「そういう人、舞台へ上げるとだいたい映えるのよ」


完全に獲物を見る目だった。


張良は聞こえないふりをしたが、皇妃は聞こえるように微笑んでいる。

承明に至っては、もう隠しもしない。


「張良」


「はい」


「観念しろ」


「陛下が観念なさるべき事案はいくらでもあります」


「今はお前だ」


冷酷だった。


やがて案内の声が響く。

本来なら楽士か司会役が出るところを、なぜか皇妃自ら立った。


「本日は、遠来の客人を迎えるにあたり、

景国宮中の新しき歌の楽しみを、ささやかながらご披露いたします」


張良はその瞬間、自分の敗北を悟った。

皇妃が直々に口上を述べた以上、もう後へは引けない。


「まずは――」


皇妃は、嬉しそうに区切った。


「張良どの」


場内の視線が一斉に集まる。

張良は立ち上がった。

処刑台へ向かう囚人のような気分だったが、姿勢だけは崩さない。

そこがまた腹立たしいほど絵になる。


装置の前へ立つ。

灯りが落ちる。

映像帯がゆっくり流れ始める。


最初の曲は、比較的落ち着いた景国古謡だった。

皇妃なりの温情かもしれない。

派手ではないが、張良の声の質に合う選曲だった。


歌い出した瞬間、空気が静まる。


やはり上手かった。


前に一度聞いている承明と皇妃ですら、改めて黙る。

来訪したセイレーン姉妹も、最初の面白半分の顔を少し引っ込めた。

軽んじていい相手ではないと、音で理解したのだ。


張良の歌は、きらびやかではない。

技巧を見せびらかす歌い方でもない。

だが線が美しく、揺れが少なく、言葉の意味がきれいに立つ。

政務で鍛えられた呼吸と節度が、そのまま歌へ乗っているようだった。


一曲目が終わると、場は一拍遅れて息をついた。


次に拍手したのは、セイレーン姉妹の一人だった。

それを合図に、空気が戻る。


「まあ」

彼女は素直に言った。

「本当にお上手」


張良は礼だけして、すぐ退くつもりだった。

だが皇妃が許さない。


「では二曲目は、客人方にも」


来た。


案の定だった。

共演の流れである。


来訪した三人のセイレーン姉妹は、待っていましたとばかりに立ち上がった。

彼女たちは互いに目配せし、張良の左右と後ろへ自然に位置を取る。

三人とも、誰が主旋律を奪うかではなく、どう包むかを一瞬で決めていた。

さすがに慣れている。


「張良どの、主をどうぞ」

「私たちは添えるだけ」

「ええ、ほんの少しだけ」


その“少し”が信用ならない。


二曲目は、鉄道国由来の景観歌を景国風に整えたものだった。

映像帯に山と橋が流れ、拍が少し軽い。

張良が主旋律へ入ると、二句目から三人の和声が乗る。


場がひっくり返った。


美しいとか豪華とか、そういう次元ではない。

もはや小規模な宮中歌会の音ではなかった。

部屋そのものが少し広くなったような、音の層が天井を持ち上げる感覚。

承明が目を見開く。

皇妃は両手を口元へ当て、完全に喜んでいる。

重臣たちは、政務の顔を保ったまま固まっていた。


張良は歌いながら、心の中でだけ深くため息をついた。

これはもう駄目だ。

うまく行きすぎた。

一番避けたい形で成功してしまった。


曲が終わると、今度は拍手どころではなかった。

ざわめきが広がる。

誰もが何か言いたいのに、語彙が追いついていない。


承明が最初に笑った。


「張良」


「……何でしょう」


「見事ではないか」


「不本意です」


「結果が良ければよい」


「よくありません」


だが説得力は薄い。

なにしろ今この場の全員が、聞いてしまったのだ。


皇妃はもう完全に方針を固めた顔だった。


「次は夜景帯でお願いしたいわ」


「やりません」


「では春花帯」


「やりません」


「客人方との再共演は」


「やりません」


張良は断り続ける。

だが断る速度が速すぎるせいで、

むしろ常連芸人が無茶振りを受けているようにしか見えない。


セイレーン姉妹の一人が、楽しそうに首を傾げた。


「そんなに嫌がる方ほど、たいてい続くのよね」


「続きません」


「では今夜だけでも」


「今夜だけならなおさら危険です」


理屈は通っていた。

しかし周囲はもう理屈で見ていない。


こうしてその夜、景国宮中では事実上、

張良リサイタル

が成立してしまった。


表向きの記録には

「客人歓迎のための小歌会」

とだけ残された。

だが実際にその場にいた者たちは皆知っている。

あれは張良を主唱に据え、セイレーン姉妹をゲストに迎えた、

半強制デビューの夜だったと。


後日、宮中の一部では早くも次回を望む声が上がった。

「夜景帯でもう一度」

「今度は対唱を」

「いや、セイレーン姉妹との再演を」

などと勝手なことを言い出す者までいる。


張良はそれらを聞くたびに、きわめて冷静な顔で否定した。


「ありません」


だが承明は面白がり、皇妃は乗り気で、

来訪したセイレーン姉妹は帰り際にまで

「次は長姉抜きではなく四姉妹で来たいわね」

などと残していった。


その一言に、張良はほんの一瞬だけ遠い目をした。

三人でこれなのだ。

長女テレースまで加わったなら、自分の静かな生活は本当に終わる。


宮中の者たちは、その時の張良の顔を長く忘れなかった。

歌が終わった瞬間よりもむしろ、

“次があるかもしれない”

と理解した瞬間の、あの静かな絶望顔を。

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