景国宮中、歌禍ひろがる
見難い火傷の子708
景国宮中、歌禍ひろがる
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
歌便から戻ったあと、景国皇帝承明は、しばらく妙に機嫌がよかった。
もちろん表向きには出さない。
朝議ではいつも通り厳めしく座し、報告には短く鋭く応じ、無駄口も叩かない。
だが近習たちは気づいていた。
機嫌がよい時の承明は、怒らないのではない。
むしろ妙なところで声の張りがよく、足取りが軽く、何かを隠している顔になる。
夜更け、小部屋から歌声が漏れていることに最初に気づいた時も、
彼らは見てはいけないものを見た気分になった。
しかも一晩では終わらない。
翌夜も、その次の夜もである。
表向きの名目は、鉄道国から持ち帰った
「発声調律装置」
の試験だった。
だが実際には誰がどう見ても、皇帝が一人で歌っているだけだった。
それが皇妃の耳に入るまで、そう時間はかからなかった。
「……何ですって?」
皇妃は、最初は穏やかに聞き返した。
だがその穏やかさは、嵐の手前の静けさだった。
「鉄道国で、歌いながら景色を見る列車に陛下が乗られた?」
「しかも帰還後、夜ごとにその装置を使っておられる?」
「そして、私は呼ばれていない?」
最後の一言で、侍女たちは一斉に目を伏せた。
そこが本題だからである。
その日の夕刻、承明が私室へ戻ると、皇妃はすでに待っていた。
姿勢は端正、声も静か。
だが目が笑っていない。
「陛下」
「何だ」
「歌便とは、さぞ楽しいものだったのでしょうね」
承明は一瞬だけ言葉に詰まった。
景色と歌と列車と、
ついでに自分が途中からかなり本気で歌っていたことまで思い出したからだ。
「……視察だ」
「視察で、夜ごと小部屋で歌われるのですか」
「発声調律だ」
「では私にも必要ですわね」
あまりにも滑らかな返しだった。
承明は嫌な予感を覚えた。
だがこの時点では、まだ事態を軽く見ていたのである。
「なぜだ」
「陛下だけが鉄道国の新機軸を体験し、
陛下だけが歌便に乗り、
陛下だけがその余韻を楽しまれるなど、あまりに不公平ですもの」
皇妃はにこやかに言った。
「なぜ私も呼ばなかったのですか」
ふてくされていた。
声は静かだが、完全にふてくされていた。
承明はしばらく黙り、やがて小さく咳払いをした。
「……視察だったのでな」
「では次は私も視察いたします」
この手の話で皇妃を言いくるめるのが難しいことを、承明はよく知っていた。
結局、数日のうちに景国から鉄道国へ、かなり丁寧で、
しかし実質的には強い要請が飛ぶことになる。
歌唱装置一式の提供を乞う。
できれば景国宮中でも運用可能な小型仕様が望ましい。
案内役は不要。
ただし映像帯と歌詞帯は複数種希望。
要請文を読んだ匠ーは、しばらく無言だったという。
「……来たか」
ダンが横から覗き込み、肩を震わせる。
「何が」
「皇帝だけで済むわけないと思ってた」
レイラは露骨に顔をしかめた。
「嫌な予感しかしない」
匠ーは要請文を裏返し、机の上の別紙を見た。
景国宮中向け小型機の設計案である。
どうやら、来る前から半分くらい想定していたらしい。
「出すの」
とレイラが訊くと、匠ーは淡々と答えた。
「出す。
ただし据置一式、拡声調整簡略型、夜間使用を前提に防音布付き。
あと歌詞帯は最初から増やす」
「最初から増やすな」
「どうせ足りなくなる」
嫌な確信だった。
こうして景国宮中には、正式には
「宮中音声調律・娯楽補助一式」
という、ずいぶん婉曲な名目で、カラのオーケストラ小型版が搬入された。
最初は承明も、多少の体面を気にしていた。
「皇妃が試すというので、ついでに付き添うだけだ」
などと言っていたのである。
だがその見栄は、初日のうちに崩れた。
皇妃は強かった。
最初に一曲だけ、と言って座ったはずが、
映像帯が流れ、歌詞が進み、自分の声が柔らかく返ってくる仕掛けを覚えた瞬間、
目の色が変わった。
「……もう一曲」
二曲目が終わる。
「この山の歌、もう少し高い調子のものはないの?」
三曲目。
「夜景帯に合うものも入れてちょうだい」
四曲目。
「承明陛下、その入りだと少し遅れますわ」
承明は横で目を見開いた。
自分がはまったのだから、人がはまること自体は理解できる。
だが皇妃の沈み込み方は早かった。
しかも上達しようとする。
ただ気分よく歌うだけではない。
帯の切り替え、調子、語尾の伸ばし方まで気にし始める。
数日後には、夜更けに宮中の一角から、
皇帝と皇妃の二重唱が聞こえるようになった。
さらに悪いことに、皇妃は昼にも触りたがった。
「この後の面会、少し遅らせられないかしら」
「今ちょうど佳境なのだけれど」
侍女たちは青ざめ、近習たちは視線を泳がせた。
さすがにまずい。
まずいのだが、皇帝本人も横で歌っている日があるので止めにくい。
ついに、定刻の書類裁可が遅れ、
来客待機が長引き、
宮中の一角に「いまは入れない方がいい時間帯」が生まれ始めた頃、
苦言を呈したのが張良だった。
張良は書記も政務も回る男で、無駄に声を荒げない。
だからこそ、その静かな口調はよく刺さる。
「陛下、皇妃殿下」
承明と皇妃がちょうど新しい歌詞帯を選んでいるところへ、張良はすっと入ってきた。
侍従たちは心の中で拝んだ。
ようやく言う者が来た、と。
「近頃、裁可の遅れと面会時刻のずれが見られます」
張良は一礼し、きわめて整った声で言う。
「新奇の道具をお楽しみになること自体は結構ですが、公務への影響は看過できません」
皇妃がわずかに目を細める。
承明は咳払いをする。
図星だった。
「……少しばかり過ぎたかもしれぬ」
「少しではありません」
張良はぴしゃりと言った。
「先日の夕刻など、景北州からの急報が、第三曲のあとまで待たされました」
皇妃がさすがに視線を逸らす。
承明も言い返しにくい。
部屋の空気が、ようやく正論で締まった――
かに見えた。
だが承明は、その沈黙のあと、なぜか少しだけ面白がるような目をした。
「張良」
「は」
「そこまで言うなら、お前もやれ」
部屋が止まった。
張良は珍しく、ほんの一瞬だけ無言になった。
皇妃がぱちりと瞬く。
侍従たちの間に、え、という空気が走る。
「……は?」
「歌だ」
承明は真顔で言う。
「やらずに批評するのは公平ではない。
一度使えば、なぜこれほど人を引くか分かる」
「それは政務上の必要性とは無関係です」
「必要性の有無を判断するためにも体験は要る」
言い逃れとしてはかなり雑だった。
だが承明は本気で言っている顔でもあった。
皇妃まで横から乗る。
「そうね。
張良どの、あなた声は悪くなさそうだもの」
「声の良し悪しの問題では――」
「一曲だけでよい」
承明が押す。
「試せ」
断りにくかった。
目の前に皇帝と皇妃がいて、しかも両方とも妙に乗り気である。
張良は長く息を吐き、完全に諦めた顔で前へ出た。
「……一曲だけです」
侍従の一人が、おそるおそる歌詞帯を差し込む。
穏やかな調子の沿線歌だった。
無難といえば無難。
張良は拡声口の前へ立ち、いかにも義務として処理しますという顔で姿勢を整える。
映像が流れる。
拍が入る。
そして張良が歌い出した瞬間、部屋の空気が変わった。
承明が黙る。
皇妃も黙る。
侍従たちは一斉に目を見開いた。
上手かった。
ただ上手いだけではない。
声が通る。
音程が安定している。
語尾の処理が綺麗で、言葉が崩れない。
しかも妙に感情の乗せ方が節度正しく、曲そのものの品が一段上がる。
承明がぽかんと口を開けた。
皇妃は手元の帯を持ったまま止まっている。
侍従の一人に至っては、完全に見入っていた。
一曲終わる。
沈黙。
最初に口を開いたのは皇妃だった。
「……張良どの」
「はい」
「あなた、なぜ今まで黙っていたの」
張良は困った顔ひとつせず答える。
「黙っていたつもりはありません。
歌う機会がなかっただけです」
承明はまだ少し呆然としていたが、やがて低く笑った。
「何だ、やればできるではないか」
張良は即答する。
「できることと、やるべきことは別です」
正論だった。
だがその正論のあとでも、部屋の空気は元に戻らなかった。
なにしろ全員、張良が予想外にうまいという事実で頭がいっぱいだったからである。
皇妃がすっと帯を持ち上げる。
「では次は二重唱を」
「やりません」
「では陛下と三人で」
「やりません」
「夜景帯ならどうかしら」
「やりません」
張良はきっぱり断る。
だが、その断りがやけに早いせいで、
かえって“本当に嫌ならそんなに即答できないのでは”
という妙な疑惑まで生んだ。
承明は面白がる顔を隠さない。
皇妃は完全に新しい玩具を見つけた目をしている。
そして侍従たちは理解した。
これはもう駄目だ、と。
景国宮中の歌禍は、ここからさらに広がるのだと。
後に宮中では、
「張良どのは歌がうまい」
という情報が、政務の通達より速く広まった。
本人にとっては甚だ不本意だったろうが、事実だから仕方がない。
そして承明と皇妃は、その後もしばらく折を見ては歌い、
折を見ては張良を巻き込もうとして、
そのたびに苦言と正論で返されることになる。
だが一度でも聞いてしまった者たちは忘れなかった。
張良が歌い出した瞬間、
部屋中が一斉に唖然とした、あの静かな衝撃を。




